第127話 真夜中の予想外
元女王メアリーの下に集った兵は、1週間で6000にも膨れ上がり、脱出から10日目の12月7日、両軍合わせて1万人近くが、グラズコー地方のラングサイド村で衝突した。
決戦は、ものの1時間ほどで決着した。
モレー伯への嫉妬と、日和見で上辺だけの女王への忠誠で集まった烏合の衆は、数では勝っていたものの、裏切りと逃亡で自滅し、無残に敗戦したのだ。
だが、敗戦の将となったメアリーは、再び狂気のような粘りを見せる。
敗戦が決定的となるや否や、わずかな供だけをつれて、逃亡を図った元女王の消息が掴めたのは、その3日後、ダンドレナンという小さな村でのことだ。
ソルウェイ湾を隔てて南の対岸はイングランド領、西へ海峡を渡ればアイルランドという地理にある、スコットランド南西端の村だ。
どうやら追いつ追われつの逃亡の末、休む間もなく馬を駆け続けて、この村に辿り着いたらしい。
次に、この女は一体何をしでかすのか。
世界中が息を潜めて見守る中、この元スコットランド女王は、またまた理解不能な行動に出た。
「つまり……それってメアリーが、イングランドに渡って、私の援助を仰ぎたいってこと……?!」
深夜に届いた報に叩き起こされ、寝間着にガウンを羽織った格好のまま、取り急ぎ私室に移って聞いたニュースに、寝起きの頭が更に混乱する。
「えぇ? はぁ?」
上手く飲み込めず、アホみたいな感嘆符を連発するが、その場にいたのはセシルとウォルシンガムだけだったので黙認してくれる。
「いやいやいや。普通フランスでしょう、そこは」
この状況でなら、誰もが、縁があり同じ信仰の国であるフランスに亡命するのが吉と思うだろう。
「っていうか来られても困るし!」
イングランドは、メアリーにとって安全な国では決してない。
彼女はイングランド女王を王位簒奪者呼ばわりし、自分が正統な継承権を持っていると主張しているのだ。
そんな人間を、この国でどう扱えというのだろう。
「メアリーの入国を止めて。すぐに、スコットランド政府に連絡を取って、対応を……」
「――それが陛下」
ようやく回り出した頭で、彼女の入国を押し留めようとするが、ウォルシンガムが厳しい表情で報告してきた。
「すでにメアリーは、使者を出した同日にソルウェイ湾を渡り切り、対岸のイングランド領に着港したという報告が入っています」
「待てよそこはっ!」
思わず机を叩き、ここにはいない相手に突っ込む。
どんだけ押せ押せ? 断られるとか思わないの? 捕まるとか思わないの?? どういう思考回路してんの???
机にかじりつきながら相手の宇宙人っぷりに愕然とし、まだまだ彼女を読み切れていなかったことを痛感する。
っていうか、マリコの行動が読めたことなんて1度もないけど。
「政治的にも宗教的にも対立している国に、何の保証もなしに逃げ込むとか……」
頭を抱えて呻く私の横で、ウォルシンガムが嫌悪をあらわに吐き捨てた。
「陛下の慈悲をあてにしているのでしょう。あの女は鳥のように、3歩歩けば己のしでかしたことを忘れるらしい」
ウォルシンガムが言うしでかしたことが何を指すのかは、すぐには分からなかった。
というか心当たりが多すぎて、むしろこっちが覚えきれずに忘れていることがありそうだ。
にしても、こんな馬鹿な選択、お供の奴らは止めなかったのか!?
いや止めたよな。きっと全力で止めたよな。間違いなくマリコが聞き入れなかっただけで。
容易に想像出来て自己完結する。
「メアリーが使者に託した手紙には、スコットランド貴族が女王メアリーに行った行動は、非道で不当であること、しかるに強要され退位を承諾した署名は無効であること、イングランド女王は、同じ君主という立場からスコットランド政府に宣戦布告するべきであること――などが訴えられています。直近の要求としては、すぐにでもイングランド宮廷に迎え入れて保護して欲しいと。また、着の身着のままの逃亡であったため、女王が宮廷に上がるに相応しい衣装も送って欲しいとのことです」
注文が多いなっ!
セシルが淡々と連ねたメアリーの要求に、ガックリ肩を落とす。
疲れる! 疲れる!!
「どこまで陛下に甘えるつもりだ、あの女は……」
ウォルシンガムが、憤怒を押し殺した声で低く呻く。
「陛下、このような厚かましい輩は、速攻スコットランドに突き返すべきでしょう。スコットランド政府と戦争? 冗談ではない。今ようやく、あの国はプロテスタントの王を戴き、プロテスタントの議会を抱き、我が国と友好関係を築けつつあるのです。今イングランドがスコットランドに武力行使をちらつかせれば、彼らは再びフランスに走るでしょう。自業自得で王をクビになった女1人のために、これまでの外交成果をドブに捨てられるわけがない!」
強い声で主張したウォルシンガムの意見はどこまでも正論だったが、問題はスコットランド側がメアリーを受け入れることに同意するかだ。
「すぐにスコットランド政府に打診しましょう。メアリーは、一旦彼女の要求を受け入れて宮廷に……」
「それはなりません!」
戦争云々は別としても、服を送るくらいは造作もないことだ。宮廷に上げて話を聞く分には、やぶさかではないと思った私の判断を、ウォルシンガムが大きな声で叱りつけた。
思わず、ビックリして黙り込んでしまう。
「あの女を宮廷に迎え入れるのは、自ら毒をあおるようなものです。このロンドンには、現政権の転覆を目論む人間が山ほど潜んでいる。そんな連中にとって、メアリー・スチュアートはいくらでも利用のしようがある存在です。あの女をロンドンに近づけてはいけない。本当ならスコットランド政府の意向など待たずに、あの不毛な北国に叩き返してもいいくらいだ」
「そんなことは出来ないわ!」
「分かっています。だからこそ、せめてロンドンには近づけるべきではないと申し上げているのです」
「でも……」
いい加減、手紙のやり取りばかりですれ違いが続き、ストレスも溜まっているので、一度、顔をつき合わせてとことん話し合うべきだとも感じていた。
「この願いを聞き入れて頂けないようでしたら、主席国務大臣より賜り、陛下の認可を頂いた国王第一秘書代理のお役目を、慎んで返上させて頂く所存です」
「……!」
「ウォルシンガム、それは……!」
迷う私に突きつけられた最後通牒に、私は言葉を失い、セシルが青ざめた。
「辞めるってこと……?」
「…………」
擦れる声でかろうじて聞き返した私に、無言を返すウォルシンガムの鋭い眼差しが突き刺さる。
ここで決断出来ない私が、王として失格だってこと……?
ウォルシンガムにいなくなられたら……困る。
だがそれ以上に、心臓を握り潰されるような苦痛を感じ、私は奥歯を噛み締めた。
「……陛下。メアリーを宮廷に迎え入れれば、彼女を後継者として暗に認めたと、考える者も出てくるでしょう。そうなれば、御身に降りかかる危険は大きくなります。ここは私からも、賢明な選択をして下さるようにお願い申し上げます」
睨み合う私とウォルシンガムの横から、セシルの気遣いの滲む声が入る。
「……分かった」
ようやく、私は解凍されたように頷いた。
「メアリーはロンドンから遠く離れた場所で保護します。王族として十分配慮の行き届いた形であれば、どこに移すかは任せます」
結局折れた私は、俯いたまま2人に背を向け、寝室へと戻った。
胸に刺さった棘が、まだ抜けない気分だった。
~その頃、秘密枢密院は……
肩を落とし、立ち去った女王のか細い後姿を見送った後、セシルは口の過ぎる後輩に苦言を呈した。
「ウォルシンガム、言い過ぎです」
「あれくらい言わなければ、またすぐにメアリーに甘い顔をなさるでしょう。憎まれ役を買って国の脅威が1つ減るならば望むところです」
鼻息荒く言い切った男に、セシルは溜息をついた。
「あれでは、あの方が傷付きます」
「…………」
ウォルシンガムとしては、メアリー擁護に反対する己の覚悟を見せたつもりだろうが、女王の性格では、彼に己が仕えるに値しない君主と見なされたと受け取るだろう。
相手が理に適ったことを言っている以上、その主張が意に染まぬものだからと言って、相手を憎むような女性でもない。
今頃、絶賛反省会中だろうとは予想がついた。
ウォルシンガムの方も、セシルの一言に気難しい顔で押し黙ったが、内心は反省をしているところだろう。
この男は、人の思惑を見透かすのは上手いが、それを対人関係に生かし切れているとは言い難い。
基本的に、自分が他人にどう思われようが興味がないのだろう。目上の者へ阿り、横の繋がりに媚びる処世術が要求される宮廷では、致命傷に成りかねない気質だ。
女王と極めて良好な関係が維持できているのも、彼女の女性にしては稀な寛容さ――言い換えれば大雑把さに、かなり助けられている部分がある。
また、セシルも同様に反省する立場にあった。
この事態を、どこかで止められなかったか。
遡れば、スコットランド女王が、ダーンリー卿と出会ってしまったところから、全ての悲劇は始まっている。
ダーンリー卿をスコットランド女王のもとに送り込もうという、レノックス伯爵夫人マーガレット・ダグラスとレスター伯ロバート・ダドリーの謀略を知っていながら、セシルが積極的に妨害にかからなかったのは、その時点では、結婚成立の見込みは薄いと見ていたというのが、大きな理由だ。
だが同時に、ダーンリー卿をイングランド女王から引き離したいという思惑、また、仮にスコットランド女王を射止めたとして、彼の破滅的な性格が、かの国を混乱に陥れることを、ほんの少しばかり期待しての選択でもあった。
それが、まさかこんな形で、イングランドをも巻き込むような大事件に発展するとは、誰が予想し得ただろう。
だが、セシルが止められる場所があるとすれば、あの時しか有り得なかった。
もし、過去に戻れるならば――などと、不毛な後悔はセシルの好むことではなかったが、ふいに、神の思し召しによって、『過去』へと遣わされた女王の存在を思った。
もし今、過去に戻れるならば、セシルも、あの時点で別の行動を取っていただろう。
だとすると、彼女は――
度々あの悪女に同情的な姿勢を見せる女王は、これから先の結末を知っているのかもしれなかった。