第126話 野望の果てに
私が議員代表団に大演説をぶった1週間後――またスコットランドで動きが起こった。
11月1日に、メアリーが自主的退位を認め、息子のジェームズに王位を譲る書類に署名したのだ。
その4日後の5日、新たな王として、生後数ヶ月のスコットランド王ジェームズ6世が即位し、摂政には、満を持して帰国したモレー伯がついた。
ボスウェル伯との駆け落ち騒動の間は行方をくらましていたくせに、決着がついた途端、舞い戻って実権を握るあたりは、さすがに機を見るのが上手い。
メアリーの自発的退位は、スロックモートンの辛抱強い説得の甲斐あった――わけではない。
もっとこれ以前に、スロックモートンからは、プロテスタント貴族のとりつく島もない感触の報告を受けていた。
『メアリーを支援することはほとんど不可能です。すでにメアリーは、逮捕時に「今にお前たちを全員死刑にしてやる」と喚き散らし、貴族らの反感を買っており、彼らは己の身を守るためにも、かの女を失脚させることを心に決めています』
つい感情的になって言ってしまったのだろうが、この状況では自分の立場を悪くするだけだ。
相変わらず、そういう立ち回りの下手さは群を抜いている。
『これは貴族だけでなく、国民の総意です。いまやどの土地に行っても、メアリーに姦淫や殺人が許されているわけではなく、かの女も普通の人間と同じように裁かれるべきだと、皆口にしています。これに対し、私は弁護する口を持ちません』
スロックモートン自身は、プロテスタント貴族達に阻まれ、メアリーに会うことすら叶わなかったらしい。
それでも手紙を送るなどして、彼なりにメアリー側の説得の努力は続けていたようだが、メアリーが自主退位を受け入れた直接的な原因は、別にあった。
その少し前に、メアリーが流産していたのだ。双子だったという。
ボスウェル伯との愛の結晶を失ったメアリーは、ついに失意のままに女王の座を降り、それまで頑なに拒否していたボスウェル伯との離婚も認めた。
強引に結婚をしてまで王位継承権を与えたかった対象がなくなり、夫も行方が知れない状況では、彼女が婚姻関係を維持する理由がなくなったと考えても不思議はない。
ボスウェル伯とはプロテスタント式の結婚をしていたので、この離婚は簡単に認められ、メアリーは再び独身という立場に戻った。
メアリーの流産については、どうやらセシル達は私に伝えたくなかったようで、そのことだけは、私の耳に入ったのは、メアリー退位の報告を聞いてから1週間以上経ってからのことだった。
衝撃の大きさに、報告義務を怠ったことを叱責するのも忘れ、その日は仕事が手につかなかった。
慰めの言葉をかけようにも、何を言えばいいのだろう。
私の経験したことのない痛みと失望があったはずだが、そこに対して言える言葉が見つからない。
悩み続けた私は、ぐずぐずとなかなか筆を取れないでいたのだが、10日ほどしてようやく、何度も書き直しながら1枚の手紙を書いた。
だが、そこまでして書いた慰めの手紙が、本人に届くことはなかった。
その手紙が届く数日前、11月27日に、メアリーは湖上の籠城ロッフレーヴェン城を脱走していたのだから。
※
その報告は、秘密枢密院会議の場で伝えられた。
「メアリーは、ロッフレーヴェン城の城主ウィリアム・ダグラスの弟ジョージ・ダグラスを籠絡し、脱出の手引きをさせました。城を脱走後、ジョージ・ダグラスは城に残り、メアリーはダグラスの遠縁の少年を連れて、女王の側近であったメアリー・シートンの父、シートン伯の居城へと逃げ込んでいます」
メアリー・シートンは、4人のメアリーのうち1人だ。
苦々しい顔で報告するセシルとは対照的に、ロバートが身を乗り出して補足する。
「逮捕されたジョージ・ダグラスの話では、メアリーは湖上の籠城から、大胆にも洗濯女の格好をして夜中に小舟に乗り込み、湖を渡って脱走を成功させたらしい! 実にロマンティックな話じゃないか? なぁハットン」
「え、ええ……」
「狂気の沙汰です」
絵に描いたような脱出劇に目を輝かせるロバートに同意を求められ、曖昧に答えるハットンの向かいで、ウォルシンガムが胡散臭げに睨んだ。
狂気の沙汰か、ロマンティックな騎士道か。
その物語のヒーローになったジョージ・ダグラスは、憐れな囚われの女王を解放した己の行動に陶酔しているらしく、彼女のために死ぬことも厭わないと、堂々と容疑を認めていた。
ボスウェル伯の子を流産してから、わずか1ヶ月。
再び母から女に戻ったメアリーは、文字通り重みが取れたように、鮮やかな魔性を蘇らせたのだ。
私の書いた慰めの手紙は何だったのか。斜め上を行く魔性っぷりに開いた口がふさがらない。
マリコは前に、この時代の男は簡単だと言っていたが、そもそも良くも悪くも自立心に富んだ21世紀の恋愛玄人と、騎士道ロマンスの精神に染まった16世紀の男では、そうそう勝負にならないのかもしれない。
「あの女は化け物か……?」
決してメアリーを好いていないウォルシンガムでも、そう思わずにはいられないのだから、この神がかった女王の奇跡の脱出劇を、彼女を支持する者達が『神のご加護』と信じても仕方がないことだった。
つまり――脱出困難とされていたロッフレーヴェン城から奇跡の脱出を果たしたメアリー女王の元に、モレー伯の政権に不満を持つ貴族達が、続々と集結し出していた。
「スコットランドには馬鹿しかいないのか」
メアリー脱走のニュースの数日後に届いた、その続報に、ウォルシンガムが呆れ果てるのも無理はない。
喉元過ぎればなんとやら、ヘンリー王の仇討ちを掲げて、メアリーとボスウェル伯を追い落としたかと思ったら、次は幽閉された悲劇の女王を救う忠義面だ。
結局彼らは、自分以外の人間が権力を握ることに嫉妬し、互いに足を引っ張り合っているだけだ。
醜い。実に醜い。
嫌悪感が右手に伝わり、筆圧が高まったのか、書類に書いたサインのインクが汚く滲んだ。余計に苛つく。
「よくもこう簡単に寝返れるわね。節度ってものがないのかしら」
まぁ、こんなに簡単に王家を裏切れるような連中だから、イングランド政府が付け入る隙もあったのだろうが。
執務室で仕事をしながら、私とウォルシンガムは、ストレス発散にここでしか言えない悪態を吐き出していた。
「あの国の伝統です。彼らには王家に対する忠誠心もなければ、互いの信頼感も連帯感もない」
「それに比べれば、うちはまだマシな気がするわね……その辺は、ヘンリー7世、8世と強力なリーダーシップを持った王の長期政権が続いたおかげかしら」
程度の差こそあれ、イングランド宮廷に奉仕する貴族達には、チューダー朝に対する忠誠心と、貴族間の連帯感というものは感じられる。
「それもありますが、我が国では80年前の継承戦争と、ヘンリー8世時代のトマス・クロムウェルによる大粛清により、王権に盾突く可能性のある有力貴族は大方滅亡したため、現在宮廷に残っているのは、ノーフォーク公爵家のようなごく一部の名門を除き、大半がチューダー王家に入ってから新しく興隆した家門です。元々執事長が成り上がったスチュアート王家と、古くからしのぎを削っている旧家が乱立するスコットランドとは、前提からして違います」
「なるほど」
今のイングランド宮廷は、まさにチューダー朝が作り上げたものなのだ。
そういう意味では、エリザベス1世の永く安定した治世を実現するだけの地盤は、彼女の祖父の代から徐々に作り上げられていったものなのだろう。
ローマは1日にして成らず。先達達の足跡に感謝しなければ。
「ですが、今のイングランド宮廷の安定は、国王自らが采配をふるっているというのが大きいでしょう」
などと思ってると、ウォルシンガムが淡々と付け加えた。
「神に選ばれし国王が実権を握り、正しい政治を行ううちは、誰も過ぎた欲は出しません。メアリー・スチュアートのように国政を放棄し、実権そのものを他人に投げ与えてしまえば、人は自らがその地位に立とうと欲を出す」
そう言われてみれば、スコットランドもフランスも、統治能力のない王の摂政の地位を巡って争いが起こったし、幼いエドワード6世治下のイングランドもそうだった。
「そして、例え国王が実権を掌握しようとしても、極端に国益を損ねる行動に出れば、当然、誰かがそれを是正しようと動きます。実際、エドワード6世とメアリー女王が収めた11年間は、同じ前提条件ではありましたが、我が国にとっては不幸な動乱の連続でした。現在のイングランド宮廷の安定は、正しい国王が正しい政治を行っていることの表れです」
「う……なんか、褒められてる気がするから、ありがとう……」
ちょっとムズかゆい気持ちで礼を言う。
「褒めているのではなく、事実を述べているだけです」
言い方はそっけないが、ウォルシンガムはこういうところでおべっかを使わないので、率直な評価なのだと分かる。
最近疲れている私へのご褒美だろうか。これはこれで嬉しい。
こっそり鼻を高くしている私をよそに、ウォルシンガムが話題を戻して念を押した。
「じきにスコットランドでは内乱が起こるでしょう。ですが陛下、これ以上、メアリーを庇うような行動は……」
「しないわよ。なんかもう、疲れたし、関わりたくないっていうか……」
スロックモートンを通して、メアリーとプロテスタント貴族を和解させようとした努力も、メアリーが脱走した今となっては全て無駄骨だ。
その貴族たちも、モレー伯から離反して、今度はメアリーに媚びを売り出しているというのだから、もう勝手にしろという感じである。
「あれだけ運が強かったら、こっちが何かしなくっても、自分でどうにか出来ちゃうんじゃないかしら」
「…………」
いちいち予想を裏切られるので、先を読んで気を回すだけ無駄な気がして、私はとりあえず、当面は『メアリーに関わらない』ことを目標にすることにした。
私がメアリーに関わらなければ、彼女がイングランドの捕虜になることもないのだ。
そう心に決め、私は自分の国のことに専念することにした。
~その頃、秘密枢密院は……
「どうでしたか? 陛下のご様子は」
夕方、主席国務大臣の部屋にウォルシンガムが訪れると、忙しく机に向かう宰相が顔も上げずに問いかけた。
「お疲れのようです。年末に向け国事が立て込む中、スコットランドの騒動にも心を砕いておられるので」
いつもと変わらぬ質問に、ウォルシンガムは率直に感じたことを報告した。
あの女性の責任感の強さというのは、国を治める者として望ましい資質だが、時折、彼女自身を潰しかねないところまで責任の範囲を拡大してしまうところが、傍で支える身としては悩ましい部分でもあった。
特に、直接出会って言葉を交わした者に対して、王としては不必要なほどに情を持ってしまう傾向がある。
メアリーについても、関わりたくないと言いつつ、結局メアリー側に立った視点でものを言っていることに、彼女自身は気付いてはいないのだろう。
「そうですか……出来れば、これ以上、あの女に情けをかけるようなことがあって欲しくないのですが」
そう言って、筆を止めた宰相は、眼鏡を外して眉間のあたりを指で揉んだ。
「サー・ウィリアム・セシル、貴方もお疲れのようですが」
「大したことはありません。陛下のご心労に比べれば」
そう返した声の固さが、らしくない余裕のなさを感じさせた。
「それよりウォルシンガム、逃亡中のボスウェル伯の消息は掴めていますか」
「それが、まだ……ですが、おそらくは大陸に亡命しようと試みるでしょうから、各港に網を張っていれば、いずれかかるでしょう」
今や王殺しの大罪人となったボスウェル伯は、居場所のないスコットランドから逃げ出し、支援者を求めて大陸で再起を図ろうとするだろう。
報告に頷き、セシルが次なる指示を出す。
「ダーンリー卿殺害は、我が国にとっても大いなる侮辱です。スコットランドとイングランド両政府共同で、大陸諸国に国際指名手配を通達します。ウォルシンガム、ボスウェル伯を徹底的に追跡して下さい――あの男がもう2度と、ブリテン島の土を踏めぬように」
「御意」
この数ヶ月後、国王殺害者として指名手配を受けたボスウェル伯は、大陸への亡命の末、デンマークで逮捕される。
光の差さぬコペンハーゲンの地下牢で、拷問と孤独に苛まれた野心家が狂死するのは――それから10年後のこと。
時のイングランド宰相の言葉通り、その生涯で2度と祖国の土を踏むことのなかった男の、惨めな最期だった。




