第109話 ロンドンの夕暮れ
窃盗犯を捕まえた後、ブラブラと市内を冷かして回っていると、ヘンリー・ケアリーがある提案をしてきた。
「せっかくだから、何か食いませんか。わざわざ遠い外国からいらしたんだし、おっかさんも、市民が食うような場所で飯食ったことないでしょう」
確かにない。
けど、イギリスのB級グルメなんてフィッシュ&チップスくらいしか知らない。
あれだって、最近までジャガイモが知られていなかったこの時代には、存在すらしてないだろうし。
「いいですね。ケアリーさん、どこかおすすめのお店ありますか?」
あまり気乗りしなかったのだが、庶民になりきったカール大公の方が食いついた。自分で好奇心が強いというだけあって、チャレンジャーだ。
「俺もあんまり知りませんけど、何回か護衛隊長と、ボスの愚痴を言いに入った店なら割とうまかったですよ」
トップの頭にお花が咲いていると、部下は大変である。
ゲストの希望を聞いて、ケアリーが行ったことがあるという店に赴くことにしたのだが、はたと気づく。
「ちょっと待って。あなた、その店に顔割れてるんじゃないの?」
「大丈夫でしょう。こんな格好してるし、俺の冴えない顔なんて誰も覚えてやしませんよ」
あてつけっぽい自虐で答え、慣れた様子でひょいひょいと下町を歩くケアリーについていく。
さてはこいつ……実は結構、市内で遊んでるな?
店はいかにも大衆食堂といった感じで、広いがごちゃごちゃしていて、人で賑わっていた。
フロアに敷き詰められた安テーブルは大方埋まっており、割と繁盛しているようだ。
まず私とケアリーが店に入り、少し間を開けて、別の客のようにカール大公と髭の従者が入店した。紳士階級に扮したラベンスタイン男爵たちは、しばらく店の外で様子見だ。
「えっと……どっかその辺……」
ケアリーが開いている場所を探して首を伸ばす。
「んだとてめぇ、もういっぺん言ってみろ!」
すると、急に罵声が聞こえ、がっしゃぁんっ! と派手な音を立てて、店の真ん中のテーブルがひっくり返った。
一気に店中の注目が集まる中、近くのテーブルから、いそいそと他の客が避難する。
そうかと思うと、テーブルの向こうから立ち上がった中年男に、1人の男が髪を捕まれ、床に引きずり倒された。
「な、何っ? 喧嘩!?」
驚く私を守るように、ケアリーが前に出る。
ケアリーの背中から現場を覗き見ると、床に倒された男がのそりと身を起こした。
ぼさぼさの長い前髪で顔が隠れ、こちらから表情は分からないが、向かい合っていた中年男は眦を釣り上げた。
「何だぁ? 文句あんのか、若造が」
興奮しているのか酔っぱらっているのか、赤ら顔の中年男性が、怒りの形相で再び相手の胸倉を掴みあ上げる。
「おい、それくらいにしとけ。役人が来たらことだ」
それでも、近くにいた友人か誰かの諭す声に、一瞬、力を緩める気配を見せたのだが、そのタイミングで、胸倉を掴まれた方の男が、小声で何かを言った。
内容までは聞き取れなかったが、その瞬間、中年男性の顔が真っ赤に染まり、振り上げた右拳が相手の頬を殴りつけた。
「よそもんが調子こいてんじゃねぇよ!」
「わっ……」
罵倒と共に出入り口の方に投げ捨てられた身体が足元に飛んできて、私は驚いた。
「糞医者がっ! 一昨日来やがれ!」
かと思うと、追い打ちをかけるように、今度は椅子が飛んできた!
マジでっ?!
「陛下!」
小さく叫び、振り返ってとっさに私を胸に抱きこんだケアリーの背中に、木製の椅子がぶち当たる。
「ぐおっ……!」
「ケアリー! 大丈夫!?」
「痛ってぇ……」
耳元でケアリーが呻く。痛がってはいるが、そこまで深刻な声音ではない。
ハッとして、すぐ近くにいたカール大公を見るが、同じように職人の恰好をした髭の従者が盾になってかばっていた。幸い、当たらなかったようだが。
「くっ……」
下の方から小さく呻く声が聞こえたかと思うと、足元でへばっていた男が口元をぬぐい、身を起こした。
よろめきながら立ち上がった男が、入り口付近にいた私の肩を押して店を飛び出す。
「どけ!」
「……っ」
突き飛ばされ、一瞬、息を飲む。
何だろう。
なんか、今、すごく……
「何なんだてめぇら! ここは喧嘩場じゃねぇぞ!」
ぶつけられた椅子を蹴り飛ばし、ケアリーが半ギレで怒鳴ると、こちらも喧嘩腰の怒声が返ってきた。
「あの医者が、俺様の錬金術をバカにしやがったんだよ!」
「医者と錬金術師なんざ同族だろうがっ。くっだらねぇ……」
今度はケアリーとその男が険悪になるが、その時、私は別のことに気を取られ、店を飛び出していた。
「あっ、陛……おっかさん!?」
ケアリーが慌てて追いかけてくる。
私は店を出てすぐに道の左右に目を走らせたが、そこに先ほどの男の姿はない。
「…………」
ぶつかった肩を抱き、じっと道の向こうを眺めていると、後ろからケアリーが声をかけてきた。
「おっかさん、この店は出ましょう。ロクなもんじゃねぇや」
「う、うん……」
ケアリーの声をぼんやりと聞きながら頷く。
「すんません、殿下。こんなところ紹介しちまって……」
「いえ、今日はきっとタイミングが悪かっただけ……」
「キャァァァ!」
謝るケアリーにカール大公がフォローを入れた矢先、物騒な悲鳴が街角に響いた。
「何?!」
「まさか、さっきの男……!?」
「そんな……!」
ケアリーの憶測に、私は思わず悲鳴が聞こえた方に走り出していた。
「へ……おっかさん! あまり危険なところには……!」
ケアリーの声が背中にかかる。
いくつか路地を通り過ぎた先のT字路で、ちょっとした人だかりが出来ていた。
「強盗だ!」
「こんな日も高い時間から……」
飛び交う野次馬の声から、状況をおぼろげに理解する。
「神様! 神様助けてください!」
「どいて! ……あなた、大丈夫!?」
女性の泣き叫ぶ声が聞こえ、人をかき分けて飛び出すと、座り込んだ女性の隣に、倒れた男性が目に入った。
錯乱しているらしい女性の代わりに、男が脇腹を押さえながら答えてくる。
「わ、私は大丈夫です……それより、娘が……逃げようとした奴の道をふさいでしまって……!」
その男も怪我をしているようだったが、彼の傍らには、言葉通り小さな女の子が、気を失って横たわっていた。
突き飛ばされた拍子に頭を打ったのか、汚れた石畳には、小さな血溜まりが出来ている。
「ああ神様、この子をどうか……!」
おそらく、少女の母親なのだろう。悲痛な哀願を前に、私は口元を覆っていたスカーフを外して、声を張った。
「ケアリー、町医者を探して連れて行ってあげて、お金は代わりに払っておいて!」
「分かりました」
私の指示に即答したケアリーが、野次馬に問いかける。
「おい! 誰か、このあたりに腕のいい医者を知らないか!」
「んじゃあ、バーコット先生はどうだ? ありゃ気難しいが、腕は確かだ」
野次馬の1人が答えた。
「遠いのか?」
「なに、すぐさ。ほんの2本向こうの通りだ」
「そこでいい! 案内しろ! あんたも来い、歩けるか?」
「は、はい! ありがとうございます……!」
少女を抱え、父親を伴ったケアリーがドタバタと去っていく。
その姿を見送り、私は座り込んだままの女性の肩を抱いて慰めた。
「大丈夫。きっと助かります」
腰が抜けたらしい女性を支えたまま、手近な人に問いかける。
「すみません。犯人は、どんな人でしたか?」
「きたねぇ恰好した垢まみれのオッサンだよ。ありゃ浮浪者だろう、最近特に多いんだ。参るね」
ならば、先ほど店を飛び出していった男とは別人だろう。若そうだったし、浮浪者には見えなかった。
「探し出して捕まえますか?」
私の傍に寄り、こっそりと聞いてきたのは、従者親子の息子の方だ。
彼が私に直接話しかけてきたのは、初めてかもしれない。そもそも、しゃべるところをほとんど見たことがない気がする。
「そうね――」
「なぁ。あの女の人、どこかで……?」
「!」
少し考えたが、どこからか聞こえたその呟きに、私は慌てて口元をスカーフで覆った。
パレードや視察で街に出た私の顔を見たことがある人間がこの場にいても、不思議はない。
「いえ……役人に任せましょう」
立てるようになった女性を、後からやってきた知人らしき女性に託し、私は首を横に振った。
危険人物を野放しにしておくのも気味が悪いが、VIPを連れて歩いている手前、これ以上騒ぎが大きくなるのはよろしくない。正体がバレたらことだ。
「ケアリーが戻ってきたら、宮殿に帰りましょう」
5人でその場を移動し、目立たないように、人気のない道の隅でケアリーを待つことにする。
「――屑が!」
「……何? 今度は」
すると、近くの路地裏から罵声が聞こえ、私は眉をひそめて、声のする方を覗き込んだ。
「犯罪者に恵むものなんかねぇんだよ!」
「お、お許しを……! わしゃここで寝ていただけで……!」
見ると、地面に転がる物乞いを、2人組の若い男が足蹴にしていた。昼間から酒が回っているのか、明らかに面白がった様子で男達が嘲笑する。
「汚ねぇ乞食が転がってたら、街の美化になんねぇだろうが! 女王様は綺麗好きなんだよ!」
「こ、この通り、わしゃお上のお許しを頂いております、しがない乞食でごぜぇます……どうか、どうかご容赦を……!」
理不尽な虐待に身体を丸めながら、必死に主張するその老人には、両足がなかった。
物乞いの許可を得ている、労働不能貧民だ。
「お許しを、お許しを……」
逃げることも叶わぬまま、暴行を受け入れる老いた男が、ひたすらに許しを乞う。
この老人と、巷で悪行を働いている浮浪者の違いくらい、見ればすぐに分かるはずだ。
混迷する社会への不満の増大が、彼らの心を狭くしているのか。
「何見てんだよ」
現実を目の当たりにし、その場に釘付けになっていると、老人を虐待していた男たちが、こちらに気付いた。
女1人ならどうということもなかっただろうが、私の後ろに4人の男性が控えているのを見て、彼らは互いに視線を交わすと、舌打ちしてその場を立ち去った。
若い男たちの姿がなくなった後、私は、また道の隅にじっと蹲った老人に近づいた。
「…………」
何も言わず、金貨を1つ老人の前に差し出す。
すると、顔を上げた老人は、霞んだ目をしばたたかせながら、震える手を伸ばして金貨を受け取った。
「あ、ありがとうごぜぇます……ありがとうごぜぇます、奥様に神の祝福がありますように……!」
泣きながら祈る老人の前を立ち去り、様子を見守っていたカール大公たちに合流する。
「問題山積ね……」
思わず、呟きが漏れた。
結局私はまだ、膝元のロンドンすら救えていないのだと痛感する。
女王として、出来るだけ市民の前に出るように努力していたが、結局、私の前では、貧困者は『汚い物』として、目に入らないところに片付けられてしまうのが実情だ。
誰も、己を裁く権力を持つ人間の前で、自らの暗部を晒すような真似はしない。
目に見えないところに澱む闇は深い。
肩を落とした私に、気遣わしげな視線を向けてくる相手に気付き、私は顔を上げ、目が合ったカール大公に力なく微笑んだ。
「ハムちゃんの言う通り、自分の知らない階層の現実を知ることは、とても大切ね。本日、皆さんにお見苦しいところばかりお見せする羽目になったのは、一重に私の力不足です。いつか、国民が本当の平和と豊かさを享受できるように、やらなければいけないことがたくさんあるのだと分かりました」
「陛下……」
「今日はどうもありがとう。私のわがままに付き合ってくれたあなたたちに、とても感謝しています」
感謝を意を述べると、カール大公がおおらかに微笑んだ。
「いえ、僕の方こそ、こんなに楽しい体験ができるとは思っていませんでした」
やばい。おおらか過ぎる。
笑顔で答えるカール大公の後ろで、ラベンスタイン男爵が苦笑する。
「お二人にお喜びいただけるのが、至上の喜びです」
膝を折って礼をする男爵の両脇で、2人の従者が無言で倣う。
すると、怪我人を医者に診せに行ったケアリーがちょうど戻ってきた。
「ケアリーもありがとう」
「いえいえ。俺は女王陛下……じゃない、おっかさんの忠実なる僕ですから。何なりと」
「ちゃんとセント・ローからは守ってあげる」
「頼んます。そこは切実に」
茶目っ気を見せて頼み込んでくるケアリーに笑う。
「じゃあ、帰りましょうか」
そう言って天を仰ぐと、もう西側の空が赤く染まっていた。
6人揃って、夕暮れのロンドンの喧噪を歩く。
帰る道すがら、今日1日の出来事を思い返し、私は溜息をついた。
「なんだか行く先々で事件ばかりで、散々だった気がするんだけど……ロンドン市内ってこんなに危ないわけ?」
「いや、今日はたまたま、日が悪かったんでしょう。いつもはこんなに色々巻き込まれることはないですよ。……まぁ、やっかいごと引きつける御仁と、やっかいごとに突っ込んでいく御仁がいるんで」
カール大公と私を横目で見比べて、軽口を叩くケアリーに、私は胡乱な目で指摘した。
「……ケアリー、実は結構詳しいわよね?」
「おっと」
失言したとばかりに口を抑える従兄に、私は機嫌よく付け足した。
「また付き合ってもらうわね」
「いや、それはちょっと……」
またやる気満々の私に、ケアリーが尻込みするのを、大公が面白そうに眺めていた。
「ハムちゃんは、いつからお忍びで出歩くようになったの?」
そんな大公に話題を振ると、彼は思い出すように視線を浮かせた。
「確か……1番最初に変装をして街に出たのは、15歳の時だったと思います。その時には、彼と2人だけで城を抜け出したので、帰ったら随分怒られましたが」
「俺は牢に入れられました」
「あはは、そうだったね。ゴメンゴメン」
ヴォルフJr.が短く口を挟むと、大公が鷹揚に笑った。なかなかやんちゃだ。
「僕も、はじめて街に出た時は、こんなにも救いのない世界なのかと愕然としたんです。けれど、僕たちが生きる宮廷とは全く違う世界で、たくましく生きる彼らの生活がとても興味深くて、ついつい覗きに行ってしまうんですよね。ヴォルフ親子がいなければ、僕など生きていけない世界でしょうが……」
親子従者が同時に会釈する。彼らと大公の間には、きっと特別な信頼関係があるのだろう。
なんというか、彼は興味を持つ分野が、一般的な王侯貴族と違うのだろう。
人間観察や、自分が生きる環境と違う社会で暮らす人々の営みに、強い好奇心を抱いている。
通りを飛び交う呼び込みの声や、道端の井戸端会議の笑い声。大道芸、売り子、ビラ配り。誰もが忙しく自分の人生を生きていて、誰も私たちに目を止めようとしないのが心地よい。
そんなことを思っていると、カール大公も嬉しそうにすれ違っていく人々を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「注目されないっていいですよね。僕は、街に出る度に、この顔で良かったなぁと思ってしまいます」
間延びした口調でそんなことを言うもんだから、思わず吹きそうになった。
隣で、不意打ちを食らったケアリーが、我慢しきれず軽く吹くのが聞こえた。
けれど、気持ちは分からなくもない。
同じ王侯という、常に衆人環視の目に晒された立場として、注目されない心地良さ、というものは、とても共感できた。
「あなたとは気が合いそう」
自然に、笑みと共にこぼれた言葉に、カール大公が一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに相好を崩し、照れたようにはにかんだ。




