第102話 主従的に
12月にも入れば、ダーンリー卿の悪評は、あますことなくイングランド宮廷にまで届くようになった。
スコットランド宮廷では、嫌われ者の婿王を、もはや誰も相手にしようとせず、少し前までは「王」と呼ばれていたのに、今や「女王の夫」という呼称で呼ばれるようになったというのは、スコットランド駐在大使ランドルフの報告だ。
そして、そんな扱いをされれば余計に荒れるのが、このどうしようもない傲慢男の性で、自尊心を傷つけられた若い王は、これまで以上に酒に浸り、女を漁りに夜の街に出るようになったという。
「あれだけ美人な奥さんがいても、浮気するんだ男の人って……」
「男によります」
執務室で報告書を読みながら、その衝撃の事実に愕然と呟くと、聞き咎めたウォルシンガムに即座に反論された。
手紙から視線を外し、隣で補佐をしている男を見上げた私は、納得して感想を述べた。
「ああ。確かに、ウォルシンガムって浮気しなさそー」
「…………」
ちょっと怖いし、取っつきにくいが、なかなか良い物件だ。独身28歳。
メアリーもどうせ捕まえるなら、こういう男を捕まえれば良かったのに。
などと思うが、そういや一時、実際に狙ってたんだっけか。
マリコがダーンリーダーンリーうるさかったから、すっかり遠い記憶の彼方だ。
「やっぱ今のなし」
「どういう意味ですか、それは」
油断して口に出して呟いてしまい、ウォルシンガムに突っ込まれる。眉間の皺が深まっている。
しまった! 今の言い方では、『ウォルシンガムって浮気しなさそう』を打ち消した形になってしまう。
「あ、違う違う! 今のは心の声が漏れただけで、『メアリーもどうせ捕まえるなら、こういう男を捕まえれば良かったのにー』って思ったけど、よく考えると本当に捕まえられても困るから『今のなし』って言っただけで……って説明させるな恥ずかしいっ!」
「陛下が勝手に説明しただけです」
フォローしたつもりで凄まじい墓穴を掘った。
しまった! 今の言い方では、私がマリコにウォルシンガムを捕まえられたら困るとか所有権を主張しているようではないか!
「べ、別にそういうわけじゃないから。主従的に。ほら、あくまで主従的に、困るってだけで」
「存じ上げています」
更なる墓穴をサラッと流される。
ホッとしてランドルフの報告書に向き直ったところで、追い打ちをかけられた。
「ご安心下さい。私はとっくに陛下に捕まっています――勿論、主従的に」
流した振りして墓穴に突き落としやがった!
一瞬机に突っ伏した私は、ランドルフの報告書を読み飛ばして、さっさと別の仕事に取り組んだ。
が、しばらく文字が頭に入らなかった。
くそぉぉぉっ。いじめっこめぇっ。
※
その半月後には、結婚4ヶ月目にして完全に冷え切った夫妻が、ついには別居状態に入った、という続報が届いた。
メアリーの方は、目立っておなかが大きくなり、周囲の出産経験のある侍女達の話では、妊娠中期に入ったであろう、とのことだそうだ。
……おなかが目立つ、ってことは、多分妊娠5ヶ月とか、それくらいだと思うんだけど、計算が合わないのは言わないお約束だ。
ゴシップ的な意味以外でも、気になるスコットランドの王室事情が逐一入ってくる中、イングランドも慌ただしく年の瀬を迎えようとしていたクリスマスの1週間前、前代未聞の事件が急報で届いた。
「失礼します。陛下、至急お耳に入れたいことが――」
いつものようにウォルシンガムを補佐につけ、執務に励んでいる私のもとに、慌ただしく訪れたのはセシルだ。
本来なら女王の執務の補佐も、第一秘書の彼の仕事なのだが、忙しすぎる主席国務大臣は、もっぱら代理をウォルシンガムに任せ、別の部門の仕事に追われていた。
セシルは報告書と思われる書類を手に、傍らに伝令を引き連れていた。報告を受け取った足で、ここに来たのだろう。
「何? どうしたの、セシル」
ただごとでない様子に、私も席を立ち、身を乗り出して問い返す。
「スコットランドのエディンバラで、反乱が起きました。首謀者はヘンリー王です」
「王の反乱……?!」
思わず声を上げた私の台詞は、それだけ聞けば実に奇妙なフレーズだった。
スコットランド王ヘンリー・スチュアートが、エディンバラのホリルード宮殿で武装蜂起をしたというのだ。
何考えてんだ、あの男は!?
「何が起こったの……?」
事態を飲み込めない私に、セシルが手早く説明する。
「その夜、ホリルード宮殿でメアリー女王が親しい者達と晩餐を取っていた時、ヘンリー王と、プロテスタント貴族のルースヴェン卿が率いた数名の武装兵が乱入して、その場にいた女王秘書リッチオを捕らえ、部屋の外に連れ出して惨殺しました」
「リッチオ……! どうして彼が?」
「どうやらルースヴェン卿らは、女王秘書リッチオを、女王の名誉を汚した罪人であり、プロテスタント貴族のスコットランド帰還を妨げている元凶であると主張し、その身柄を引き渡すよう、強く要求したようです。メアリー女王と、彼女と同席していた従者達は部屋に監禁されており、辛うじて城外に逃げ出した1人が、その様子を語ったと……」
プロテスタント貴族のクーデターか!
9月に反乱を起こしたマレー伯らは、私の取りなしにも関わらず、メアリーに帰国を許されていない。
それがマリコ本人の怒りの感情からのものか、プロテスタントを排除したいカトリック教徒のリッチオの陰謀なのかは、こちらからは分からない。
だが……
「女王の名誉って……?」
「リッチオはメアリー女王の愛人である、という噂がスコットランド宮廷にはまかり通っているようですので、そのことでは」
これは、独自の情報網を持つウォルシンガムの回答だ。
「中には、メアリーの腹の子の父親はリッチオではないかという噂も立っています。信憑性はどうであれ、リッチオの台頭を良く思わない一派が、意志薄弱なダーンリー卿に、その辺りの噂を信じ込ませ、凶行に及ぶよう扇動した可能性は十分に考えられる」
「そんな……」
スコットランド大使からの報告を聞く限り、今のダーンリー卿に、正常な判断力があるとは思えない。周囲の悪意に担がれ、自棄な行動を起こしたというのはあり得る話だ。
「メアリーは……メアリーは無事なの!?」
「先程受け取ったランドルフ大使の報告書では、ホリルード宮殿はプロテスタント貴族からなる武装集団に包囲されており、状況は分からないと。証言者が逃げ出した時点では、反乱者達は、女王に銃口を突きつけて脅してはいたものの、凶行には及んでいなかったようですが……」
「メアリーは身重よ。こんなショックを与えたらどうなるか……」
顔色を変えた私の様子に、セシルが付け加える。
「追って情報は届けるとのことですので、またすぐにでも続報があるかと……」
「そうね……待ちましょう。もうすでに、状況は動いているかもしれないし……」
何よりも妊娠中の身であるということが、私の不安を掻き立て、祈るような気持ちで待った続報は、予想の斜め上を駆け抜けた。
惨劇から一夜明け、メアリーは『首謀者』であるダーンリー卿を籠絡して寝返らせ、身重の身体で、一晩に50マイルを馬で駆り、反乱軍に制圧された王城からの脱出を成功させたのだ。
その脱出の手口も、前夜のショックで流産をしかけている一芝居まで打って反乱者たちの動揺を誘い、監視の兵隊達が目障りで身体に悪いと下がらせて、逃走路を確保するという大胆さである。
どうしてどうして、舌を巻くほど見事な役者である。
「あの女の神経はどうなってるんだ……」
報告を聞いたウォルシンガムが、珍しく、唖然としたように呟いたのも無理なからぬことだった。
それだけの無茶をやって、それこそ流産のような最悪の事態を免れたのは、運が良かったとしか言いようがない。
いや、そんな大胆すぎる作戦で、首尾良く宮殿を脱出したことも、一晩捕まらずに逃げ仰せたことも、全て奇跡と言ってもいいツキっぷりだ。
そして、後日、この幸運の女神に味方された勇敢な女王の元に、反乱に加わらなかった貴族達が集い、制圧されたエディンバラを奪い返した。
結局、ダーンリー卿に寝返られた反乱貴族たちは散り散りとなったが、機を見た異母兄モレー伯が、入れ替わるようにメアリーの下に戻ってきた。
このあたりは、くっついたり離れたり、派閥争い、貴族間の足の引っ張り合いがお家芸のスコットランドでは日常茶飯事の光景だ。
1560年の年の瀬を騒がせた、その嵐のような騒ぎの後、隣国スコットランドは、それなりの落ち着きを取り戻したかに見えた。