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第2話「掃き溜めの宝石」

 王都の南に広がるスラム街は、この世の終わりのような場所だった。


 腐った生ゴミと排泄物の臭いが鼻をつき、壊れかけた木造のバラックが迷路のように密集している。道は舗装されておらず、雨が降れば泥沼と化し、晴れれば土埃が舞う。行き交う人々の目は死んだ魚のように濁り、希望という言葉の意味すら忘れてしまったかのようだった。


 アレンがその街にたどり着いたのは、追放されてから3日後のことだった。


 空腹と疲労で足取りは重かったが、彼の観察眼は衰えていなかった。


 街のあちこちに、無気力に座り込む男たちや、客引きをする痩せた女たちの姿がある。彼らの多くは、かつては普通の市民だったはずだ。だが、ダグラス宰相による無茶な増税と、不当な法改正によって職を失い、家を奪われ、ここに流れ着いたのだ。


「おい、兄ちゃん。見ない顔だな」


 路地裏に入ったところで、低い声が呼び止めた。


 振り返ると、薄汚れた革鎧を着た大男が立っていた。顔には古い傷跡が走り、腰には刃こぼれした長剣を下げている。元冒険者だろうか。その背後には、同じような風体の男が2人、ニタニタと笑いながら道を塞いでいた。


「金目のもん置いてきな。そうすりゃ痛い目には遭わせねえ」


 典型的な追い剥ぎだ。アレンは小さくため息をついた。


 今の自分に奪われるものなど、命と信念くらいしかないというのに。


「残念だが、あいにく一文無しだ。見ての通りな」


 アレンが両手を広げて見せると、大男は不快そうに顔をしかめた。


「チッ、しけやがって。だが、その服はまだ使えそうだ。脱げ」


 大男が手を伸ばしてきた、その時だ。


「やめなさい!ガルド!」


 凛とした声が響き渡った。


 男たちの動きが止まる。視線の先には、1人の少女が立っていた。


 年の頃はアレンと同じくらいか。薄汚れたエプロンに、継ぎはぎだらけの服。髪はボサボサで、肌も煤けている。だが、その瞳だけは、泥水の中に落ちた宝石のように鮮烈な輝きを放っていた。


「……エリスか。邪魔すんじゃねえよ」


 ガルドと呼ばれた大男が舌打ちをする。


「邪魔もします。弱い者いじめをして、恥ずかしくないの?あなただって、昔は誇り高い冒険者だったはずでしょう!」


 少女は1歩も引かなかった。体格差で言えば大人と子供ほども違う。殴られればひとたまりもないだろう。それでも彼女は、真っすぐにガルドを見据えていた。


「うるせえ!説教なら教会でやりな!」


 ガルドが怒鳴り声を上げ、少女を突き飛ばそうと腕を振り上げた。


 アレンの体が反射的に動いた。


 行政官時代、護身術程度は嗜んでいた。大男の腕をつかみ、その勢いを利用して関節を極める。


「ぐあっ!?」


 ガルドが悲鳴を上げて膝をつく。アレンは冷ややかな目で残りの2人を睨みつけた。


「彼女の言う通りだ。誇りまで泥にまみれさせてどうする」


 一瞬の静寂。やがて、ガルドは痛みに顔を歪めながらも、アレンを振りほどいて後ずさった。


「……ちっ、覚えてろよ」


 捨て台詞を残して、男たちは逃げるように去っていった。


 アレンは息を吐き、少女の方へ向き直った。


「怪我はないか?」


「え、ええ。ありがとうございます。……あの、あなたは?」


 少女がアレンの顔をまじまじと見る。そして、ハッとしたように目を見開いた。


「まさか……アレン様?アレン・クロフォード様ではありませんか?」


 名前を呼ばれるとは思っていなかったアレンは、驚きに眉を上げた。このスラムで自分の名を知る者がいるとは。


「なぜ、私の名を?」


「私です。エリスです。ベルンシュタイン家の……」


 ベルンシュタイン。その名を聞いて、アレンの記憶が急速に呼び起こされた。


 かつての名門公爵家。清廉潔白で知られたベルンシュタイン公爵は、数年前、突如として国家反逆の罪を着せられ、一族もろとも処刑されたはずだ。その令嬢が、生き残っていたのか。


「エリス嬢……生きていたのか」


「はい。弟のテオと共に、やっとのことで逃げ延びて……今はここで暮らしています」


 エリスは悲しげに微笑んだ。かつて夜会で見かけた彼女は、豪華なドレスを身にまとい、深窓の令嬢そのものだった。それが今では、こんな場所で、泥にまみれて生きている。


 だが、今の彼女の方が、以前よりも遥かに美しく見えた。その瞳には、逆境に屈しない強さが宿っていたからだ。


「弟が熱を出していて……薬草を探しに行っていた帰りだったのです。助けていただいて、本当に……」


 エリスが頭を下げた瞬間、彼女の体がふらりと揺れた。アレンは慌てて彼女を支える。その体は驚くほど軽く、そして熱かった。


「君こそ、無理をしているじゃないか」


「平気です……これくらい」


 強がるエリスを、アレンは放っておけなかった。


 彼女の案内でたどり着いたのは、廃材を組み合わせて作られた粗末な小屋だった。隙間風が吹き込み、雨漏りを防ぐために古びた布が張り巡らされている。


 部屋の隅には、薄い毛布にくるまって震える少年の姿があった。


「テオ、ただいま。薬を持ってきたわよ」


 エリスはかいがいしく弟の看病を始めた。アレンはその様子を見ながら、胸の内で静かな怒りを燃やしていた。


 何も悪いことをしていない人々が、なぜこれほどまでに苦しまなければならないのか。ベルンシュタイン公爵もまた、ダグラスたちの陰謀の犠牲者だった。そして今、自分もまた同じ運命をたどろうとしている。


「……許せないな」


 アレンがつぶやくと、エリスが手を止めて振り返った。


「アレン様も、王都を追われたのですか?」


「ああ。君たちと同じだ。無実の罪でな」


 事情を話すと、エリスは悔しそうに唇を噛んだ。


「やはり……ダグラス宰相ですね。あの男が、この国を食い物にしている」


「エリス嬢。私はあきらめていない」


 アレンは真っすぐに彼女を見た。


「この国を変える。ダグラスたちを引きずり下ろし、君のような人々が正当に報われる世界を作るつもりだ」


「……そんなことが、可能なのでしょうか。私たちには力がありません。兵も、金も……」


「力はある。ただ、使い方が忘れられているだけだ」


 アレンは鉄のペンを取り出し、指先で回した。


「この国には、古の契約がある。『建国の石碑』に刻まれた、民衆のための最終手段だ。私はそれを使う」


「建国の石碑……?」


「君の力を借りたい、エリス。君はこのスラムの現状を知っている。人々の痛みを知っている。そして何より、あの貴族たちへの怒りを持っている」


 エリスはしばらくアレンを見つめていたが、やがてその瞳に強い光が戻った。


「私にできることなら、何でもします。テオのため、そして理不尽に奪われた全ての人々のために」


 2人の手が固く握られた。


 薄暗い小屋の中で結ばれたこの小さな同盟が、やがて国全体を揺るがす革命の嵐となることを、まだ誰も知らなかった。

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