第九章 戻れぬ道
六角の陣に、冷たい風が吹いていた。
夜明け前、空はまだ色を持たない。
胡蝶は、呼ばれていた。
幕舎の中には、焚き火がひとつ。
影の中に座る男は、顔を見せない。
「……次の戦は、浅井を崩す」
声に、感情はない。
「城ではない。
女だ」
胡蝶の呼吸が、わずかに乱れた。
「尼僧――香蓮。
あれを消せ」
短い命令だった。
迷いを許さぬ言葉だった。
「殺せとは、申さぬ。
戦の前に、消えればよい」
消える。
それは、命を奪うよりも、曖昧で、残酷な言葉だった。
胡蝶は、頭を下げた。
「……承りました」
そう答えた声は、
自分のものではないように聞こえた。
陣を出ると、東の空が、わずかに白み始めていた。
朝は、誰にでも平等に訪れる。
だが、
選択は、平等ではない。
城下へ向かう道で、
胡蝶は足を止めた。
あの夜の焚き火。
名を聞かれ、泣いた男。
黙って湯を配る香蓮の背。
――消す、とは。
城に入ると、
香蓮は、いつもの場所にいた。
祈りではない。
占いでもない。
地図を広げ、
焼け落ちた村の位置に、小石を置いている。
胡蝶は、息を潜めた。
今なら。
刃を使わずとも、
毒も、策も、いくらでもある。
香蓮が、ふと顔を上げた。
「……来ると思っていました」
胡蝶は、隠れたまま、動けなかった。
「六角は、次に私を使うでしょう」
香蓮の声は、静かだった。
恐れも、諦めもない。
「あなたは、まだ、戻れます」
その言葉は、
命令でも、懇願でもなかった。
ただの事実のようだった。
胡蝶は、初めて、姿を現した。
「……戻る場所など、ない」
「あります」
香蓮は、即答した。
「選ばぬ、という場所が」
胡蝶は、笑いそうになった。
そんな場所があるなら、
なぜ、こんなにも多くが、焔に焼かれるのか。
「……私は、命じられました」
「知っています」
香蓮は、目を伏せた。
「だから、私は、ここにいます」
胡蝶は、理解した。
――この女は、
――逃げる気がない。
長政のもとへ行けば、
守られるかもしれない。
だが、香蓮は、そうしない。
胡蝶は、刀に手をかけた。
抜かなかった。
「……今夜、城を離れてください」
それは、命令ではなかった。
選択だった。
香蓮は、首を振った。
「それでは、意味がありません」
沈黙が、二人の間に落ちる。
胡蝶は、深く息を吸った。
「……では」
言葉を、続けられなかった。
その瞬間、
遠くで、城の鐘が鳴った。
長政が、動いたのだ。
胡蝶は、一歩、下がった。
「……次に会うとき、
私は、敵かもしれません」
香蓮は、うなずいた。
「それでも、
あなたの名を、私は呼びます」
胡蝶は、夜に溶けるように消えた。
その背を見送りながら、
香蓮は、初めて、目を閉じた。
――焔は、
――人を選ばぬ。
だが、
焔に、どう向き合うかは、
人が、選ぶ。
夜明けの光が、城を照らす。
戻れぬ道は、
もう、はっきりと分かれていた。




