第七章 風の向き
朝霧が、谷を満たしていた。
太鼓の音はまだ鳴らない。
だが、兵はもう動いている。
浅井の陣では、鎧の擦れる音と、短い号令だけがあった。
長政は、前に出なかった。
櫓の陰、地図の前に立ち、静かに耳を澄ませている。
「六角は、東から来る」
香蓮の声は、低かった。
占いの言葉ではない。
地形と、風と、人の動きから導いた判断だった。
赤尾清綱は、腕を組んだまま、地図を睨んでいる。
「常道は南。
東は谷が狭い。兵を詰まらせる」
「詰まるのは、兵だけではありません」
香蓮は、地図の一点を指した。
「退く民も、です」
その言葉に、雨森清貞が顔を上げた。
「……村がある」
長政は、短くうなずいた。
「兵を割く」
赤尾が、即座に言った。
「殿、それでは正面が薄くなります」
「薄くする」
長政は、赤尾を見た。
「勝つためにではない。
戻る場所を残すためだ」
赤尾は、歯を噛みしめた。
反論は、しなかった。
太鼓が鳴った。
霧の向こうから、鬨の声が上がる。
戦が、始まった。
矢が飛び、
土が跳ね、
人が倒れる。
香蓮は、後方にいた。
剣を取らない。
だが、耳と目は、誰よりも前を向いている。
――風が、変わる。
一瞬の違和感だった。
「……殿」
香蓮が言いかけた、そのとき。
六角の別働隊が、東の谷を抜けた。
速い。
想定より、早い。
「来る!」
叫びが上がる。
割いた兵が、間に合わない。
長政は、迷わなかった。
「下がれ。
谷を捨てる」
その命令は、正しかった。
兵は、生き残った。
だが――
「村が!」
誰かが叫んだ。
煙が、上がっている。
香蓮の胸が、強く脈打った。
――間に合わなかった。
あの夜、戸を叩いた家々。
逃げると言った者。
残ると言った者。
すべては、救えない。
胡蝶は、戦場の端にいた。
忍びとしてではない。
ただ、流れに押し出された影として。
燃える家。
逃げ惑う人。
その中に、
見覚えのある背があった。
――あの夜の。
胡蝶は、考えなかった。
体が、先に動いた。
子を抱えた女を、引き寄せる。
脇道へ押し込む。
「走れ!」
叫びは、風に消えた。
矢が、地に刺さる。
すぐ傍だった。
胡蝶は、歯を食いしばる。
――これは、命令ではない。
戦は、日が傾くまで続いた。
浅井は、持ちこたえた。
勝ちではない。
だが、負けでもない。
夕暮れの中、
香蓮は、一人、焼け跡を見ていた。
数えられぬほどの、失われた名。
長政が、隣に立つ。
「……すべては、守れぬ」
香蓮は、うなずいた。
「それでも、
守ろうとしたことは、消えませぬ」
長政は、何も言わなかった。
ただ、その言葉を、胸に刻んだ。
遠くで、
風が、向きを変える。
焔は、
勝者の旗ではなく、
選ばれた命の跡に、残っていた。




