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  作者: 劉・小狼☆
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第五章 語られぬ不在

 朝霧が、小谷城を包んでいた。

 山の気は湿り、城内の空気も重い。


 軍議の場に、香蓮の姿はなかった。


 長政は、何も言わずに座していた。

 だが、その沈黙は、場の違和感を際立たせている。


「……尼僧は、どこにいる」


 赤尾清綱の声は、抑えられてはいたが、苛立ちを隠していない。


「殿の御前で口を出すなら、

 この軍議にも出るのが筋というもの」


 重臣たちの視線が、長政に集まる。


 長政は、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに言った。


「香蓮は、夜祈りに出ている」


 それだけだった。


 赤尾は、思わず笑った。


「夜祈り、ですか。

 戦を前にして、祈りに何の意味がありましょう」


「意味は、私が考える」


 長政の声は低く、

 しかし、はっきりしていた。


 雨森清貞は、そのやり取りを、酒も飲まずに聞いていた。

 赤尾の言葉は、理にかなっている。

 だが、それでも――


 香蓮が、理由もなく席を外す女ではないことを、

 雨森は、もう知っていた。


「……戦の刻限を、半日ずらす」


 長政の言葉に、ざわめきが起きた。


「殿!」


 赤尾が、声を荒げる。


「六角は待ってはくれませぬ!」


「ならば、待たせぬよう、こちらも備える」


 長政は、赤尾を見た。

 叱るでもなく、諭すでもない。


「焦りは、兵を殺す」


 その一言で、場は静まった。


 軍議が解かれた後、

 長政は一人、庭に出た。


 霧の向こうに、

 城下の屋根が、ぼんやりと見える。


 ――遅い。


 香蓮が戻らぬ理由を、

 長政は問わなかった。

 だが、考えぬわけでもなかった。


 そこへ、香蓮が戻ってきた。


 僧衣は、泥で汚れ、

 袖は濡れている。


 香蓮は、何も言わず、深く頭を下げた。


「……戻りました」


 長政は、彼女を見た。


 問いは、しなかった。

 叱責も、なかった。


「無事で、何よりだ」


 それだけだった。


 赤尾は、その様子を、柱の陰から見ていた。

 怒りよりも、疑念が強くなる。


 ――なぜ、殿は、あの尼僧をここまで。


 その夜、

 香蓮は、長政のもとへ呼ばれた。


「……何を見た」


 長政の問いは、短い。


 香蓮は、少しだけ、迷った。


 すべてを語れば、

 救えた命のことも、

 救えなかった命のことも、

 政治の言葉に変わってしまう。


「……間に合わぬ者が、出ます」


 それだけを、言った。


 長政は、目を伏せた。


「……そうか」


 それ以上、問わない。


 この夜、

 長政は初めて、

 当主としてではなく、

 一人の人として、香蓮の背を見送った。


 城の外れで、

 胡蝶は、そのやり取りを見ていた。


 近づくことも、

 名乗ることも、しない。


 ただ、知った。


 ――あの尼僧は、

 ――一人で、背負う女だ。


 そして、

 それを、止めぬ男がいる。


 霧が晴れ始め、

 山の輪郭が、ゆっくりと現れる。


 戦は、近い。


 語られぬ不在が、

 確実に、次の焔を呼び込んでいた。

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