第三章 影に生きる者
夜の山道は、音を飲み込む。
胡蝶は、息を殺して歩いていた。
城下を離れ、六角の陣へ向かう道。
月は出ているが、光は頼りにならない。
頼れるのは、自分の足と、これまで生き延びてきた勘だけだった。
――見たままを、伝えよ。
それが命じられた役目だった。
余計な情も、判断も、いらない。
尼僧が城にいる。
浅井長政が、その言葉に耳を傾けている。
それだけで、十分に危うい。
六角の陣では、男たちが酒を飲んでいた。
戦の前の夜にしか許されない、荒い笑い声。
胡蝶は、その輪の外に立ち、報告の機会を待つ。
やがて、呼ばれた。
「……申せ」
胡蝶は、膝をつき、淡々と語った。
城で見たこと。
尼僧の存在。
長政の態度。
嘘はつかなかった。
飾りもしなかった。
ただ一つ、語らなかったことがある。
尼僧が、灯の前で一人きりだったこと。
占いの結果を、誰にも告げなかったこと。
それは、役目には含まれていなかった。
「尼僧か……」
重臣の一人が吐き捨てるように言った。
「女は、国を乱す」
胡蝶は、顔を伏せたまま、何も言わない。
そう教えられてきた。
意見を持たぬこと。
感情を挟まぬこと。
それが、生きる術だった。
陣を出たとき、夜はさらに深くなっていた。
胡蝶は、一人で歩き出す。
その足が、ふと、止まった。
――なぜ、あの尼僧は、何も言わなかったのか。
城での光景が、脳裏に蘇る。
赤尾の声。
張りつめた空気。
そして、黙したまま立つ尼僧の背。
あれは、恐れではなかった。
胡蝶には、それが分かった。
選んで、黙っていた。
「……」
小さく、息が漏れた。
自分が、同じことをしていると気づいたからだ。
胡蝶もまた、
すべてを伝えず、
すべてを切り捨てず、
その狭間で生きている。
山を下りる途中、
戦の準備をする兵の列とすれ違った。
誰も胡蝶を見ない。
見えていても、見ていないふりをする。
そのときだった。
道の脇、草むらの奥に、
小さな影が見えた。
子どもだった。
その背後に、女の姿。
逃げ遅れた農の者だと、すぐに分かった。
胡蝶は、足を止めた。
役目ではない。
関われば、余計な痕跡を残す。
それでも、体が動いた。
「……こちらへ」
声を落とし、手招きをする。
女は一瞬、怯えた目を向けたが、
胡蝶の顔を見て、歯を食いしばるようにうなずいた。
森の奥へ、導く。
足音を消し、息を合わせる。
やがて、兵の気配が遠のいた。
女は、深く頭を下げた。
子どもは、胡蝶を見上げている。
胡蝶は、何も言わず、背を向けた。
感謝も、名も、いらない。
歩きながら、思う。
――尼僧は、
――どこまで、見えているのだろう。
夜風が、頬を打つ。
胡蝶は、初めて自分の胸の奥に、
小さな違和感が生まれたことを知った。
それは、まだ焔ではない。
ただの、揺らぎだった。
だが、この揺らぎが、
やがて彼女を、引き返せぬ場所へ導くことを、
胡蝶はまだ知らない。




