第二章 城の中の静けさ
小谷城は、山の背に抱かれるように建っていた。
石垣は高く、櫓は固く、近江の空を切り取るように聳えている。
尼僧――香蓮は、城の門をくぐった。
僧衣は変わらない。
だが、土と歌の匂いは、ここにはなかった。
代わりにあるのは、足音を殺した廊下と、
誰かの視線が必ず先にある空気だった。
案内役の小姓は、香蓮を振り返らない。
言葉も最小限だった。
「……こちらです」
城の奥、ひときわ広い一室で、浅井長政は待っていた。
座しているだけで、場は整っていた。
声を荒げることもなく、威を張ることもない。
それでも、人は自然と姿勢を正す。
香蓮は一礼し、何も言わなかった。
長政も、すぐには口を開かなかった。
「……田にいたそうだな」
長政の声は低く、穏やかだった。
問いというより、事実の確認に近い。
香蓮は、静かにうなずいた。
「領内を見ている、と聞いた」
それだけで十分だった。
香蓮が民と共にあったことを、
長政はすでに知っている。
そこへ、障子が荒く開いた。
「殿、失礼つかまつる!」
赤尾清綱だった。
鎧は脱いでいるが、声には戦場の鋭さが残っている。
「その者を、なぜここに?」
赤尾の視線は、香蓮に突き刺さった。
尼僧という姿は、城では異物だった。
「尼僧が軍のことに口を出すなど、前代未聞。
六角との戦を前に、占いや祈りで国を動かすおつもりですか」
香蓮は、顔を上げなかった。
反論もしない。
視線を伏せたまま、ただ、そこに立っている。
沈黙が落ちた。
長政は、赤尾を見た。
叱責はなかった。
だが、声は低く、はっきりしていた。
「話は、私が聞く」
それだけで、赤尾は言葉を止めた。
場の端で、その様子を見ていた雨森清貞は、
香蓮に目を留めていた。
言い返さない。
逃げない。
媚びもしない。
――これは、強い。
雨森は、そう感じた。
「……申すことはあるか」
長政の問いに、香蓮は初めて顔を上げた。
「ございます」
声は静かだった。
だが、揺れはない。
「六角との戦。
勝ち負けよりも、
失われるものが多うございます」
赤尾が鼻で笑った。
「それが戦というものだ」
香蓮は、赤尾を見なかった。
視線は、長政だけに向けられている。
「ならば、せめて、
失われぬものを残す道をお選びください」
長政は、しばらく香蓮を見つめていた。
その目は、試すようでもあり、
問いかけるようでもあった。
やがて、静かに言った。
「……助かりました」
その言葉に、誰よりも驚いたのは、赤尾だった。
香蓮は、深く一礼した。
その夜、城の一室で、香蓮は一人、灯をともした。
小さな盤と、古い占具を前に、静かに手を置く。
結果は、出た。
だが、香蓮はそれを、誰にも告げなかった。
城の廊下の影で、
ひとりの女が、その灯を見ていた。
六角家の間者――
胡蝶である。
彼女はまだ、香蓮を知らない。
だが、この夜から、
三人の焔は、静かに絡まり始めていた。




