第四章 選ばれぬ名
雨が、夜の城を包んでいた。
小谷城の瓦を打つ音は、静かで、執拗だった。
香蓮は、灯を落としたまま座していた。
昼に占った結果は、まだ胸の内にある。
勝つ。
だが、その道には、多くの命が落ちる。
占具を片づけながら、香蓮は目を閉じた。
見えたのは、陣でも、城でもない。
田で歌っていた女の笑顔。
泥だらけの子どもの足。
名も呼ばれぬ人々の背中だった。
――このままでは、取り残される。
誰に告げることもなく、
香蓮は僧衣を整え、立ち上がった。
城を出るには、理由がいる。
だが、尼僧であることは、
時に何よりも自由だった。
「夜祈りに出る」
それだけ告げ、
香蓮は城門をくぐった。
雨は細く、冷たい。
道はぬかるみ、足を取る。
香蓮が向かったのは、
次の戦で、必ず戦場になる村だった。
まだ、兵は入っていない。
だが、噂はもう届いている。
家々は戸を閉ざし、
人の気配は薄い。
香蓮は、一軒一軒、戸を叩いた。
名を名乗らず、
戦の名も出さず。
「……しばらく、山へ」
それだけを、伝えた。
信じる者もいれば、
疑う者もいた。
それでいい。
選ぶのは、彼ら自身だ。
その様子を、
少し離れた闇の中から見ている影があった。
胡蝶である。
命じられたわけではない。
ただ、気づけば、ここにいた。
尼僧が、なぜ城を出たのか。
なぜ、戦の前に、村を回るのか。
理由は、分からない。
だが、胡蝶は知っていた。
――これは、間者の動きではない。
一軒の家で、香蓮が立ち尽くした。
中から、声が聞こえた。
「動けぬのだ」
老いた男の声。
病の女。
幼い子。
山へ逃げることは、
命を賭けることと同じだった。
香蓮は、しばらく黙っていた。
やがて、言った。
「……夜明け前に、川を渡りなさい」
それ以上は言わない。
香蓮が背を向けた、そのとき。
背後の闇が、動いた。
胡蝶が、静かに現れた。
香蓮は、驚かなかった。
ただ、初めて、その影を見るように、
胡蝶を見た。
「……あなたは」
胡蝶は答えない。
代わりに、低く言った。
「道を、知っている」
それだけだった。
老いた男が、胡蝶を見て、怯えた。
忍びの気配を、本能で察したのだ。
胡蝶は、目を伏せた。
「名は、要らぬ」
香蓮は、うなずいた。
この夜、
救われたのは、
名も記されぬ、ひとつの家族だった。
香蓮の選択だけでは、足りなかった。
胡蝶の影があって、初めて、道がつながった。
別れ際、
香蓮は、胡蝶に言った。
「……ありがとう」
胡蝶は、足を止めた。
その言葉は、
これまでの人生で、
一度も向けられたことのない種類のものだった。
「……礼など」
言いかけて、やめた。
胡蝶は、夜に溶けるように消えた。
雨は、いつの間にか止んでいた。
城へ戻る道で、
香蓮は、胸の奥に、
小さな痛みを覚えていた。
一人では、救えない。
それを、初めて、思い知ったからだ。
この夜のことを、
長政は、まだ知らない。
だが、
焔はもう、
確かに、分かれて燃え始めていた。




