第十二章 焔の影
山の奥、夜明け前の空気は冷たかった。
香蓮は、小さな庵に身を寄せていた。
人の気配はない。
だが、完全な孤独でもない。
ここには、戦から逃れてきた者が、ぽつりぽつりと辿り着く。
名を聞かず、過去を問わず、
ただ、粥を与え、夜を越えさせる。
それだけだ。
――それで、いい。
香蓮は、自分に言い聞かせるように、そう思った。
だが、胸の奥では、
焔が、消えずに残っている。
小谷城では、
長政が、次の戦の報を聞いていた。
六角は、退いた。
だが、諦めたわけではない。
「……殿」
雨森清貞が、静かに言う。
「尼僧が、城を離れてから、
民の動きが変わっております」
長政は、顔を上げた。
「逃げる者が、早い。
無駄な犠牲が、減っている」
誰も、香蓮の名を出さない。
だが、誰もが、同じことを思っていた。
――あの女は、消えていない。
長政は、夜、一人で城を出た。
供も連れず、
当主としてではなく。
ただ、歩く。
山道の先に、
小さな灯が見えた。
香蓮の庵だった。
戸を叩くことは、しない。
中に入ることも、しない。
ただ、立ち止まり、
焔の行き先を、確かめる。
香蓮は、外の気配に気づいていた。
だが、出ていかない。
会えば、
戻れなくなる。
二人は、
同じ夜を、
別々に見ていた。
その少し離れた場所で、
胡蝶は、木の枝に身を潜めていた。
六角からの命は、もう来ない。
だが、戻る場所も、ない。
守った者と、
消せなかった者。
二つの焔が、
同じ方向に燃えていることを、
胡蝶は、感じていた。
――終わりは、近い。
香蓮は、庵の中で、
静かに目を閉じた。
長政は、背を向けた。
胡蝶は、影に溶けた。
三人は、まだ、出会わない。
だが、焔は、
確実に、同じ場所へ向かっていた。
それは、
戦場かもしれない。
別れかもしれない。
あるいは、
名も残らぬ、最期かもしれない。
夜明けの光が、
山の稜線を染める。
焔は、
誰のものでもなく、
ただ、燃える。
戦国の世に。




