第十一章 背負う焔
戦は、香蓮のいないまま始まった。
小谷城の軍議は、以前よりも短く、鋭かった。
占いも、静かな進言もない。
あるのは、数と地形と、敵の動きだけだ。
「六角は、北から来る」
赤尾清綱の声が、場を支配する。
「正面から受け、押し返す。
これ以上、兵を割く余裕はありませぬ」
長政は、地図を見ていた。
香蓮が、かつて指でなぞった谷筋。
逃げ道として残した場所。
――あそこを、捨てるのか。
「……捨てぬ」
短い言葉だった。
赤尾が、顔を上げる。
「殿」
「前に出る」
長政は、はっきりと言った。
「私が」
ざわめきが起こる。
当主が前に出るのは、
勝利を示すためではない。
退路を断つ行為だ。
雨森清貞が、静かに言った。
「……香蓮殿なら、止めたでしょうな」
長政は、目を伏せた。
「だからだ」
香蓮がいないからこそ、
自分が、前に立つ。
戦場では、
焔は、誰かが背負わねばならない。
太鼓が鳴り、
軍は動いた。
長政は、先頭に立った。
鎧の重みが、体にのしかかる。
剣を振るうためではない。
兵の目に、背を刻むためだ。
――逃げるな。
――戻る場所は、ここだ。
戦は、激しかった。
六角の兵は、容赦がない。
退く浅井の兵を、追い詰める。
その最中、
一陣の風のように、影が走った。
胡蝶だった。
忍びとしてではない。
敵でも、味方でもない。
ただ、戦場に取り残された影だ。
胡蝶は、見た。
長政が、退路に立つ姿を。
逃げる兵を、無言で受け止める背を。
――この男は、
――逃がすために、前に出ている。
六角の指揮が、変わった。
「浅井の当主を討て!」
声が、戦場を裂く。
胡蝶の体が、硬直した。
命令が、蘇る。
――女を消せ。
――焔を、断て。
だが、今、目の前にいる焔は、
女ではない。
長政だ。
胡蝶は、走った。
誰にも見られぬよう、
誰の命令でもなく。
矢が放たれる。
一本、
長政の背を狙っていた。
胡蝶は、迷わなかった。
刃で、弾く。
音は小さく、
誰にも気づかれない。
長政は、前を向いたまま、
何も知らない。
胡蝶の胸が、強く鳴った。
――私は、
――どこへ行く。
戦は、日暮れまで続いた。
浅井は、押し返した。
勝利と呼べぬ、だが、生き残るための戦だった。
夜、
戦場の片隅で、胡蝶は膝をついた。
血は、拭えた。
だが、選択は、拭えない。
香蓮の言葉が、胸に残る。
――選ばぬ、という場所。
胡蝶は、初めて、
それが何を意味するのかを、理解し始めていた。
小谷城では、
長政が、焚き火の前に立っていた。
香蓮はいない。
だが、その不在は、
確かに、背を押している。
――これは、私の焔だ。
誰にも預けぬ。
誰にも押し付けぬ。
背負うと決めた焔は、
静かに、
だが確かに、燃えていた。




