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  作者: 劉・小狼☆
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第一章 田のうた

 歌があった。

 古い田植え歌だ。誰が始めたのかは分からない。


 年嵩の農夫は、鍬を休めることなく口ずさみ、

 隣の男と目が合うと、言葉もなく笑った。


 若い女は、泥に足を取られて思わず声を立て、

 それにつられて周囲から小さな笑いがこぼれる。

 子を背負った母は、その様子を見て、

「気をつけなさいよ」と言いながら、口元を緩めた。


 尼僧は、彼らと同じ調子で手を動かしていた。

 誰かを導くでもなく、導かれるでもなく、

 ただ、同じ田に立ち、同じ歌の中にいる。


 歌の合間、誰かが

「今年は良い苗だな」と言い、

 別の誰かが「殿さまのおかげだ」と応じる。

 それ以上の話は続かない。

 だが、その短いやり取りには、

 この土地で生きる者たちの安堵があった。


 尼僧は、彼らと同じように笑っていた。

 声を上げることはない。

 ただ、同じ速さで手を動かし、

 同じ泥に足を沈めながら。


 その様子を、少し離れた畦から見ている一行があった。


 浅井長政は、馬を降りていた。

 供を連れ、領内の視察に出た帰り道だったが、

 この光景を前にして、足が止まった。


 尼僧は長政に気づかなかった。

 気づいても、立ち止まらなかっただろう。


 長政は何も言わず、その姿を見つめていた。

 戦のことも、六角家の動きも、頭にはあった。

 だが今、目の前にあるのは、

 それらとはまったく違う時間だった。


「……」


 家臣の誰かが声をかけようとして、やめた。

 長政が、止めたわけではない。

 ただ、その背に、言葉を拒む静けさがあった。


 やがて、歌が終わった。

 苗は並び、田は整い、人々は礼を言い合いながら散っていく。

 その顔には、労の色よりも、

 短い満足が残っていた。


 尼僧は一人、田を出て、手を洗った。

 その横顔を、長政は初めてはっきりと見た。


 若い。

 だが、幼くはない。


 名も、素性も、まだ知らぬ。

 それでも長政は、確信していた。


 ――この国を、よく見ている者だ。


 長政は、歩み出た。

 声をかける前に、少しだけ間を置く。


 この出会いが、

 浅井の行く末を変えることを、

 まだ誰も知らない。


 春の風が、田を渡った。

 水面が揺れ、空が歪み、

 小さな焔が、確かに灯った。

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