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蘇我(よみがえるもの)

作者: tamatwi


その日の朝、葛城の館には静けさがあった。


少年は庭に面した廊下に座り、池の鯉を見ていた。赤と白のまだら模様が、水面の下でゆらゆらと揺れている。


十二の歳。名をいわといった。


葛城円大臣の末子である。


兄たちは皆、父に従って朝廷に出仕している。末の磐だけが、まだ館に残されていた。幼いからではない。体が弱かったからである。


生まれた時から、磐は咳が止まらぬ病を持っていた。季節の変わり目には決まって熱を出し、床に伏せった。母はそのたびに神に祈り、渡来の医師を呼んだ。


「この子は遠出ができませぬ。館でお育てください」


医師はそう言った。


だから磐は、都を知らない。父が仕える天皇の顔も、宮の様子も、すべて人から聞いた話でしかなかった。


鯉が跳ねた。水音が静寂を破り、また静寂が戻った。


夏の終わりだった。空は高く、雲は薄い。葛城の山から降りてくる風が、かすかに秋の匂いを含んでいた。




背後から声がした。


振り向くと、老人が立っていた。白髪を後ろで束ね、背は曲がっているが、目だけは鋭い。名を津守つもりといい、磐が生まれる前から葛城の館に仕えている男だった。


「何だ、津守」


「大臣様がお戻りになります」


磐は眉を上げた。


「父上が? まだ日が高いのに」


葛城円大臣が日のあるうちに館へ戻るのは珍しかった。朝早くに出て、夜遅くに帰る。それが父の日常だった。天皇の側に仕える大臣とは、そういうものだと磐は思っていた。


「何かあったのか」


津守は答えなかった。ただ、その顔にいつもの穏やかさがなかった。





父が戻ったのは、それから半刻ほど後のことだった。


磐は館の正門で父を迎えた。馬から降りた円大臣は、五十を過ぎた偉丈夫である。白いものが混じり始めた髭をたくわえ、眉は太く、目は深い。磐はこの父を誇りに思っていたし、同時に恐れてもいた。


「父上、お帰りなさいませ」


磐は頭を下げた。


円は息子を見た。その目に、いつもと違う色があった。疲労ではない。困惑でもない。何か、もっと重いもの。


「磐」


「はい」


「今日は私のそばにおれ」


それだけ言って、父は館の奥へ歩いていった。


磐は父の背を追った。広い館である。渡り廊下を抜け、いくつもの部屋を過ぎ、やがて父の居室に着いた。


部屋には誰もいなかった。円は上座に座り、磐に向かい合う位置を示した。


「座れ」


磐は座った。


沈黙があった。


父はしばらく目を閉じていた。何かを考えているようでもあり、何かを思い出しているようでもあった。やがて目を開き、静かに言った。


「安康天皇が崩御された」


磐は息を呑んだ。


天皇が、死んだ。


「いつ——」


「昨夜だ」


「御病気で——」


「いや」


父の声が低くなった。


「殺されたのだ」





信じられなかった。


天皇が殺される。そのようなことがあるのか。


「誰が」


磐の声は震えていた。


「眉輪王だ」


眉輪王。名前だけは聞いたことがあった。幼い皇子である。まだ七つか八つのはずだ。


「なぜ——なぜ幼い皇子が天皇を」


円は答えなかった。代わりに、窓の外を見た。葛城の山が見えた。


「事情は複雑だ。眉輪王の父は大草香皇子。先々帝の御子だ。安康天皇は——」


父は言葉を切った。


「安康天皇は、大草香皇子を殺し、その妻を奪って自らの后とした。眉輪王の母、中蒂姫だ」


磐は黙っていた。


「眉輪王は、母の寝所で天皇を殺した。父の仇を討ったのだ」


幼い子が、父の仇を。


磐は何と言えばよいかわからなかった。


「それで——」


「今、都は大騒ぎだ。眉輪王は逃げた」


「どこへ」


父は磐を見た。


「ここへ来る」


磐の心臓が止まるかと思った。


「ここへ——この館へ?」


「そうだ」


「なぜ——なぜ葛城へ」


父は答えなかった。ただじっと、磐の目を見ていた。


その目に、覚悟があった。





夕暮れが近づいていた。


磐は自分の部屋に戻されていた。じっとしていろと父に言われた。何が起きても、部屋を出るなと。


しかし落ち着けるはずがなかった。


天皇が殺された。その下手人が、この館に逃げてくる。なぜ。なぜ葛城なのか。


父は理由を言わなかった。言えなかったのか、言いたくなかったのか。


磐は部屋の中を歩き回った。何度も窓から外を見た。館の周囲に、いつもより多くの人影が動いていた。武器を持った男たち。葛城の兵である。


何かが起きようとしている。


自分は何も知らない。何もできない。体が弱いという理由で、ずっと館に閉じ込められてきた。外の世界を知らない。朝廷のことも、政のことも、何ひとつ——


部屋の外で足音がした。


磐は振り向いた。


障子が開いた。津守が立っていた。その後ろに、小さな人影があった。


泥にまみれた衣。乱れた髪。震える肩。


子供だった。磐より幼い。


「若。この方を、しばらくここに」


津守はそれだけ言って、子供を部屋に押し入れると、障子を閉めて去っていった。


磐と子供は、向かい合った。


子供は顔を上げた。


その目を見た瞬間、磐は理解した。


これが、眉輪王だ。





眉輪王は震えていた。


全身が小刻みに震え、歯の根が合わぬようだった。泥と汗で汚れた顔に、涙の跡が筋を作っていた。


磐は何と声をかければよいかわからなかった。


この子は、天皇を殺したのだ。


しかし目の前にいるのは、怯えきった幼子だった。磐より四つか五つ幼い。殺人者には見えなかった。


「——水を、飲むか」


磐は水差しを手に取った。


眉輪王は答えなかった。ただ震えていた。


磐は椀に水を注ぎ、眉輪王の前に置いた。眉輪王はそれを見つめ、やがておそるおそる手を伸ばした。椀を持つ手が震えて、水が溢れた。


それでも眉輪王は水を飲んだ。喉を鳴らして、むせながら、飲んだ。


飲み終わると、眉輪王は椀を床に置いた。そして初めて、磐の目を見た。


「あなたは、誰」


幼い声だった。


「磐だ。円大臣の子だ」


「——つぶらの、おおおみ」


眉輪王は呟いた。その目に、何かが浮かんだ。


「母上が、言っていた。困った時は、葛城へ行けと。葛城の円大臣は、味方だと——」


磐は息を呑んだ。


眉輪王の母。中蒂姫。彼女が、葛城を頼れと言った。


なぜだ。父と中蒂姫の間に、何があるのだ。


聞きたかった。しかし聞けなかった。目の前の幼子は、今にも壊れそうだった。


「——眠れ」


磐はそう言った。


「疲れているだろう。今夜は何もない。ここで眠れ」


眉輪王は磐を見つめていた。やがて、小さく頷いた。


磐は自分の寝床を眉輪王に譲った。幼子は横になると、すぐに目を閉じた。疲れ切っていたのだろう。あっという間に、静かな寝息が聞こえてきた。


磐は眠らなかった。眠れるはずがなかった。


窓の外に、夜が降りてきていた。





夜が更けていた。


館の中は静まり返っている。しかしその静けさは、眠りの静けさではなかった。息を殺している静けさだった。


磐は眠れなかった。


傍らで眉輪王が寝息を立てている。時折、うなされるように体を震わせた。何かを呟いた。聞き取れなかった。


障子の向こうで、足音がした。


「磐」


父の声だった。


磐は静かに立ち上がり、部屋を出た。廊下に父が立っていた。燭台の火が、父の顔を照らしていた。昼間より、十も老けて見えた。


「こちらへ来い」


父は歩き出した。磐は黙って従った。


館の奥、父の私室に入った。部屋には誰もいなかった。父は上座に座り、磐に座るよう示した。


しばらく、沈黙があった。


「眉輪王は眠ったか」


「はい」


「そうか」


父は目を閉じた。


「お前は、なぜあの子がここに逃げてきたか、不思議に思っているだろう」


磐は頷いた。


「あの子の母——中蒂姫は、私の妹だ」


磐の息が止まった。


「妹——」


「そうだ。中蒂姫は葛城の血を引いている。先帝に差し出されたのだ。大草香皇子の妃として」


知らなかった。何も知らなかった。


「大草香皇子が殺され、中蒂姫は安康天皇に奪われた。我ら葛城の女が、二人の天皇の間を、物のように移されたのだ」


父の声に、怒りがあった。静かな、しかし深い怒りが。


「眉輪王は、私の甥にあたる」





磐は言葉を失っていた。


眉輪王が従兄弟。中蒂姫が叔母。何も知らなかった。知らされていなかった。


「なぜ——なぜ私に言わなかったのですか」


「言えなかった」


父は目を開いた。その目は、燭台の炎を映していた。


「中蒂姫のことは、葛城の恥だと思っていた。妹を守れなかった。差し出すしかなかった。そして夫を殺され、新たな夫に奪われるのを、ただ見ているしかなかった」


父の拳が、膝の上で握られていた。


「私は大臣だ。天皇を支え、政を司る立場だ。しかし妹ひとり守れなかった。この無力が——」


言葉が途切れた。


磐は初めて、父の弱さを見た。偉大な大臣。葛城を束ねる長。その父が、今、一人の兄として苦しんでいた。


「中蒂姫は——」


父は続けた。


「先月、私に文を寄越した。密かに、人を介して」


「何と」


「『もう耐えられぬ』と」


沈黙が落ちた。


「『眉輪が憎しみに蝕まれている。あの子を救いたい。しかし私にはその力がない。兄上、どうか』と」





磐は眉輪王の寝顔を思い出していた。


あの幼い子は、何を抱えていたのだろう。父を殺した男に、母を奪われた。その男と同じ屋根の下で暮らしてきた。


憎しみ。


七つか八つの子供が、どれほどの憎しみを抱えていたのか。


「私は文を受け取った後、何もできなかった」


父の声が続いた。


「下手に動けば、安康天皇を刺激する。中蒂姫の立場をさらに悪くするかもしれぬ。そう思って、様子を見ていた」


父は首を振った。


「その間に、あの子は——」


言葉が止まった。


磐は問うた。


「眉輪王は——ひとりであれを成したのですか」


父は磐を見た。


「どういう意味だ」


「七つか八つの子が、天皇を殺せるものでしょうか。警護の者もいたはずです。寝所に忍び込み、天皇を刺すなど——」


磐は自分でも驚いていた。こんなことを考え、口にするなど、今までの自分では考えられなかった。


しかし言わずにはいられなかった。


「誰かが、手引きをしたのではありませんか」


父は黙っていた。その目が、暗く沈んでいた。





長い沈黙の後、父は口を開いた。


「——私も、そう思っている」


磐の心臓が跳ねた。


「今日、都から戻る前に、いくつか調べた。眉輪王がどうやって天皇の寝所に入れたのか。なぜ警護が気づかなかったのか」


父は立ち上がり、窓辺に歩いた。夜の闇を見つめている。


「昨夜、宮の警護を担っていたのは誰だと思う」


磐は答えられなかった。


「大伴室屋の兵だ」


大伴。軍事を司る大氏族。大連として、物部と並んで朝廷の武を担う一族。


「大伴の兵が警護していて、幼子が天皇の寝所に忍び込めるものか」


父の声は低かった。


「見逃したのだ。意図的に」


磐は背筋が寒くなった。


「しかし——なぜ大伴が」


「わからぬ。だが、大伴だけではない。今朝、大泊瀬皇子が眉輪王の討伐を宣言した時、真っ先に兵を動かしたのは誰か」


磐は息を呑んだ。


「……大伴ですか」


「そうだ。そして物部も続いた。まるで——」


父は振り向いた。


「まるで、あらかじめ準備していたかのように」





磐の頭の中で、何かが形を結ぼうとしていた。


「大伴と物部は——眉輪王が天皇を殺すことを知っていた。そして、それを待っていた」


「おそらくな」


「しかし、なぜ——」


「考えてみよ。安康天皇が死ねば、誰が得をする」


磐は考えた。


「皇位を継ぐ者——」


「大泊瀬皇子だ。安康天皇の弟。武に秀で、野心に満ちた男だ」


「大泊瀬皇子が首謀者だと——」


「それはわからぬ。しかし、大泊瀬皇子を担ぐことで、大伴と物部は大きな力を得る。新たな天皇の即位を助けた功績。恩を売り、政の中枢に食い込む」


父は座り直した。


「そしてもうひとつ、得られるものがある」


「何ですか」


「眉輪王の討伐だ。眉輪王を匿う者は逆賊となる。その逆賊を討てば——」


磐は悟った。


「葛城を——滅ぼせる」


父は頷いた。


「大伴と物部にとって、我ら葛城は目障りな存在だ。代々、天皇に后を送り込み、政に口を出す。武を持たぬくせに、大臣として彼らの上に立つ」


父の目が、炎に照らされて光った。


「奴らは一石二鳥を狙ったのだ。安康天皇を排し、大泊瀬皇子を立て、そのどさくさで葛城を潰す。そのために——」


「眉輪王を、利用した」


磐の声は震えていた。


「あの子は——操られていたのですか」




十一


父は答えなかった。


代わりに、遠い目をして言った。


「眉輪王の傍には、ひとりの男がいた。教育係のようなものだ。数年前から、中蒂姫の推挙で眉輪王に仕えていた」


「その男は」


「昨夜、姿を消した。天皇が殺される直前に」


磐は拳を握った。


「その男は——誰の手の者ですか」


「わからぬ。しかし、中蒂姫の推挙で来たのなら——」


父は言葉を切った。


中蒂姫の推挙。しかし中蒂姫は安康天皇に監視されていたはずだ。自由に人を推挙できる立場ではない。


「中蒂姫の名を借りた者がいる——そう考えた方がよいと?」


父は頷いた。


「中蒂姫は利用されたのだ。『眉輪の良き師となる者がいる』と誰かに言われ、信じたのだろう。孤立した女が、息子の将来を思って掴んだ藁だったのかもしれぬ」


磐は目を閉じた。


見えてきた。絵図が見えてきた。


誰かが、何年も前から計画していた。眉輪王の憎しみを育て、刃を与え、天皇に向けて放った。そして自分たちは手を汚さず、すべてを幼子の罪として——


「父上」


磐は目を開いた。


「眉輪王を、差し出すのですか」


父は磐を見た。


「私の甥だ。妹の子だ。差し出せると思うか」


「しかし——」


「わかっている」


父は立ち上がった。


「差し出さねば、葛城は滅ぶ。だが差し出せば——」


窓の外を見た。闇の向こう、都の方角を。


「——私は、二度と人の顔ができぬ」




十二


夜明けが近づいていた。


磐は眉輪王の眠る部屋に戻った。幼子はまだ眠っていた。その寝顔は穏やかで、何も知らぬように見えた。


この子は何を知っているのだろう。


自分が誰かに操られていたと、気づいているのだろうか。天皇を殺したことが、誰かの計画の駒でしかなかったと、知っているのだろうか。


磐は眠らなかった。


窓の外が、少しずつ白み始めていた。鳥が鳴いた。山の稜線が見え始めた。


その時、遠くで角笛が鳴った。


磐は立ち上がった。


角笛の音は、館の衛士の合図だった。外敵の接近を告げる音。


また鳴った。今度は近い。


「若!」


障子が開いた。津守が立っていた。その顔は蒼白だった。


「大伴の兵が——」


津守の声が震えていた。


「千の兵が、館を囲んでおります」


眉輪王が目を覚ました。何が起きているのかわからぬ様子で、磐を見上げた。


夜が明けた。


しかし磐には、新たな夜が始まったように思えた。




十三


館の中が騒然となった。


足音が廊下を駆け抜ける。怒号が飛び交う。武器が鳴る音。磐は眉輪王の手を握り、部屋の隅に身を寄せた。


「何が——何が起きているの」


眉輪王の声が震えていた。


「大丈夫だ」


磐は言った。しかしその声は、自分でも頼りなく聞こえた。


障子が開いた。父が立っていた。甲冑をつけていた。磐は初めて、武装した父を見た。


「磐。こちらへ来い。眉輪王もだ」


二人は父に従った。廊下を抜け、館の中央にある広間に入った。そこには葛城の重臣たちが集まっていた。皆、武装している。しかしその数は——


二十人ほどしかいなかった。


「父上。兵は——」


「主力は都に置いてきた」


父の声は平静だった。


「昨日、急いで戻ったからな。連れてこられたのは、供回りだけだ」


二十人。千の兵を相手に、二十人。


磐は絶望を感じた。




十四


重臣のひとりが進み出た。白髪の老人。名を久米麻呂くめまろといい、葛城の武を束ねる長だった。


「大臣様。敵は館を完全に包囲しております。東西南北、すべての門に兵が詰めている」


「大将は誰だ」


「大伴室屋の嫡子、大伴金村と聞いております」


父は頷いた。


「金村か。室屋は自ら来なかったか」


「姿は見えませぬ」


「そうか」


父は腕を組んだ。


「室屋は狡猾だ。自分の手は汚さぬつもりだろう。もし我らが金村を討てば、それを口実にさらに兵を送る。我らが降れば、功は息子のものとなる」


久米麻呂が問うた。


「いかがなさいますか」


父は答えなかった。広間を見回し、集まった重臣たちの顔を見た。そして眉輪王を見た。


幼子は磐の後ろに隠れるようにして立っていた。何が起きているのか、ようやく理解し始めたのだろう。その顔は蒼白で、唇が小刻みに震えていた。


「眉輪王」


父が呼んだ。


眉輪王は体を震わせた。


「こちらへ来なさい」




十五


眉輪王は動けなかった。


磐は幼子の背中に手を当てた。小さな背中が、激しく震えているのがわかった。


「大丈夫だ。父上は怖い人ではない」


磐は囁いた。


眉輪王は磐を見上げた。その目に、涙が浮かんでいた。


「私のせいだ——私のせいで——」


「違う」


磐は言った。


「お前のせいではない」


昨夜、父から聞いたことを思い出していた。誰かが眉輪王を操った。幼い憎しみを利用し、刃を握らせた。この子は加害者であると同時に、被害者なのだ。


「さあ、行こう」


磐は眉輪王の手を取り、父の前に進み出た。


父は片膝をついた。幼子と目線を合わせるためだ。大臣という地位にある者が、そのような姿勢を取るのは異例だった。重臣たちがざわめいた。


「眉輪王。お前は私の甥だ。お前の母——中蒂姫は、私の妹だ」


眉輪王の目が見開かれた。


「知っているか」


眉輪王は首を振った。


「母上は——何も——」


「そうか。言えなかったのだろう。お前を守るために」


父は眉輪王の肩に手を置いた。


「聞きたいことがある。正直に答えてくれるか」


眉輪王は小さく頷いた。




十六


「お前は——なぜ天皇を殺そうと思った」


直接的な問いだった。広間が静まり返った。


眉輪王は俯いた。しばらく黙っていた。やがて、小さな声で答えた。


「父上を——殺したから」


「大草香皇子のことか」


「はい。母上が——泣いていた。毎晩、泣いていた。あの人が来る夜は——」


眉輪王の声が詰まった。


「母上は、笑わなくなった。あの人が父上を殺してから、一度も——」


磐は目を閉じた。幼い子が、母の苦しみを見ていた。何年も、毎日、見続けていた。


「許せなかった」


眉輪王の声が、少し強くなった。


「あの人が——あの人が憎かった。ずっと——」


「そうか」


父は頷いた。


「その憎しみは——お前ひとりで育てたのか」


眉輪王は顔を上げた。


「ひとりで——」


「誰かに、話を聞いてもらったことはないか。お前の気持ちをわかってくれる者。天皇への怒りを、一緒に感じてくれる者」


眉輪王の目が揺れた。




十七


沈黙が続いた。


眉輪王は何かを思い出そうとしているようだった。眉根を寄せ、唇を噛み、記憶を探っている。


「——先生が」


ぽつりと言った。


「先生?」


「二年前から——私に文字を教えてくれた人。名は——」


眉輪王は首を傾げた。


「名は、なんといったか——思い出せない。皆、先生と呼んでいたから——」


父の目が鋭くなった。


「その先生は、どのような人だった」


「優しい人だった。私の話を聞いてくれた。父上のこと、母上のこと——いつも、『お前は可哀想だ』と言ってくれた」


磐は背筋が冷えるのを感じた。


「先生は——天皇のことを、なんと言っていた」


「悪い人だと言っていた。お前の父上を殺し、母上を奪った悪い人だと。いつか——いつか報いを受けると」


眉輪王の目が、遠くを見ていた。


「先生は言った。『お前にしかできないことがある』と。『お前だけが、母上を救える』と——」


「それで——刀を」


「先生がくれた。小さな刀を。『これで母上を守れ』と——」


眉輪王の声が震えた。


「でも——使い方がわからなかった。だから先生が——」


「教えたのか」


「人の——人の形をしたものを作って。ここを刺せと——」




十八


広間が凍りついた。


誰もが言葉を失っていた。幼子が語る内容は、あまりにも計画的だった。あまりにも周到だった。


七つや八つの子供が思いつくことではない。


「眉輪王」


父の声が、低く響いた。


「その先生は——昨夜、どこにいた」


眉輪王は首を振った。


「わからない。あの夜——私が天皇の寝所に向かう時、先生は『私は見張りをする』と言った。でも——」


「でも?」


「終わった後、先生はいなかった。どこにもいなかった。だから私は——ひとりで逃げた。母上に言われた通り、葛城へ——」


眉輪王の目から涙が溢れた。


「先生は——先生は、どこへ行ったの。なぜ私を置いて——」


磐は拳を握りしめた。


すべてが見えた。


眉輪王は最初から捨て駒だった。憎しみを育てられ、刃を握らされ、使い終われば捨てられる。そういう存在として、何年もかけて作り上げられた。


誰が。


誰が、こんなことを。




十九


父が立ち上がった。


「久米麻呂」


「はっ」


「外の大伴の兵に伝えよ。葛城円大臣が話があると。大伴金村と直接会いたいと」


「大臣様——」


「会う」


父の声には、有無を言わせぬ力があった。


「このまま籠城しても意味がない。兵力の差は歴然だ。ならば——話をするしかない」


久米麻呂は頭を下げ、広間を出ていった。


父は磐を見た。


「磐。お前はここにいろ。眉輪王を頼む」


「父上は——」


「金村と会ってくる。大伴が何を望んでいるのか、確かめねばならぬ」


磐は問いたいことがあった。眉輪王を差し出すのか。葛城を守るために、甥を見捨てるのか。


しかし問えなかった。父の顔を見れば、その問いが愚かであることがわかった。


父は、まだ諦めていなかった。




二十


半刻ほどして、父が戻った。


その顔は、出て行った時より、さらに厳しくなっていた。


「大臣様、いかがでしたか」


久米麻呂が問うた。


「——金村は、三つの条件を出した」


父は広間の上座に座った。重臣たちが固唾を呑んで見守る中、父は淡々と語った。


「ひとつ。眉輪王を引き渡すこと」


予想通りだった。


「ふたつ。葛城の所領すべてを朝廷に返納すること」


ざわめきが起きた。所領を失えば、葛城は事実上滅ぶ。


「みっつ——」


父は一瞬、言葉を切った。


「私の娘、韓媛を大泊瀬皇子に献上すること」


磐は息を呑んだ。韓媛は磐の姉だ。二十歳になる、美しい姉。


「姉上を——」


「そうだ」


父の声は平坦だった。しかしその目の奥に、暗い炎が燃えているのが見えた。


「金村はこう言った。『これは大泊瀬皇子様の御慈悲である。眉輪王を匿った罪は本来死に値するが、韓媛様を献上すれば、円大臣の命だけは助けよう』と」




二十一


広間が沈黙に包まれた。


磐の頭の中で、金村の言葉が反響していた。


眉輪王を差し出す。所領を差し出す。姉を差し出す。そうすれば、父の命だけは助かる。


それは——取引ですらなかった。降伏だった。完全な、絶対的な降伏。


しかも——


「命だけは助ける、ということは——」


磐は呟いた。


「葛城は——」


「滅ぶ」


父が答えた。


「所領を失い、兵を失い、朝廷での地位を失う。葛城という名は残るかもしれぬが、もはや何の力もない」


重臣たちの顔が、絶望に染まっていた。


「大臣様——」


久米麻呂が声を絞り出した。


「お受けになるのですか」


父は答えなかった。目を閉じ、何かを考えていた。


長い沈黙の後、父は目を開いた。


「ひとつ、聞きたい」


「何でしょう」


「金村は——眉輪王をどうするつもりだと言っていた」


久米麻呂は首を振った。


「それは——聞いておりませぬ」


「私は聞いた」


父の声が、一段と低くなった。


「『眉輪王は大泊瀬皇子様の御前で処刑する。逆賊の最期を、天下に示す』と」




二十二


処刑。


その言葉が、広間に重く落ちた。


磐は眉輪王を見た。幼子は意味がわかっていないようだった。ただ不安そうに、磐の袖を握っていた。


この子を、殺す。


七つか八つの子供を、皆の前で殺す。


操られ、利用され、捨てられ、そして殺される。


それが、この子の運命だというのか。


「父上」


磐は気づいたら声を発していた。


「何だ」


「眉輪王を——助ける方法は、ないのですか」


父は磐を見た。長い、長い視線だった。


「ない」


短い答えだった。


「金村は——いや、大伴と物部は、眉輪王を生かしておくつもりはない。生きていれば、いずれ真実が明らかになるかもしれぬ。誰が糸を引いていたか。誰が幼子を操ったか」


「では——」


「だから殺すのだ。口を封じるために。そして我ら葛城を、眉輪王を匿った逆賊として滅ぼすために」


父は立ち上がった。


「これは最初から——そういう筋書きだったのだ」




二十三


父は窓辺に立った。


外では、大伴の兵たちが館を囲んでいる。その向こうに、葛城の山が見えた。朝日に照らされ、美しく輝いている。


「磐」


「はい」


「お前に頼みがある」


父は振り向かなかった。山を見たまま、静かに言った。


「生き延びてくれ」


磐は言葉を失った。


「父上——」


「私は降伏しない。眉輪王を差し出さない。韓媛も差し出さない」


「では——」


「戦う」


父の声は穏やかだった。


「二十人で千に挑む。勝てるはずがない。だが——」


父は振り向いた。その目に、覚悟があった。


「負けるにしても、負け方というものがある。這いつくばって命乞いをするか。立ったまま死ぬか。葛城の者として、私は後者を選ぶ」


磐は何も言えなかった。


「だが、お前は違う」


父が近づいてきた。磐の肩に手を置いた。


「お前は——生きろ」




二十四


「私だけ逃げろと——」


「そうだ」


父の目は真剣だった。


「津守に頼んである。館の裏手に、古い抜け道がある。かつて先祖が、いざという時のために掘ったものだ。お前はそこから逃げろ」


「しかし——」


「葛城は今日で終わる。しかし——」


父の手に、力がこもった。


「血は終わらせるな」


磐は父の目を見た。その目に、何かが宿っていた。悲しみではない。怒りでもない。もっと深い、静かなもの。


「いつか——」


父は言った。


「いつか、時が来る。我らを陥れた者たちが、報いを受ける時が。その時まで、生き延びろ。名を変え、姿を隠し、力を蓄えろ」


「父上——」


「私は今日、ここで死ぬ。兄たちも、おそらく助からぬだろう。韓媛は——」


父の声が、一瞬だけ震えた。


「韓媛は、自分で決めると言った。敵の手に落ちるくらいなら、自分で命を絶つと」


磐の目から、涙が溢れた。


「お前だけが——葛城の血を継げる」


父は磐の肩から手を離した。


「行け。津守が待っている」




二十五


磐は動けなかった。


足が根を張ったように、床に縫い付けられていた。


父を置いて逃げる。姉を置いて逃げる。眉輪王を——


「眉輪王は——」


「連れていけ」


父の言葉に、磐は顔を上げた。


「あの子も——逃がすのですか」


「できるならば、な」


父は眉輪王を見た。幼子は何が起きているのかわからず、立ち尽くしていた。


「中蒂姫の子だ。妹の子だ。できることなら——」


父は首を振った。


「いや。眉輪王を連れて逃げるのは危険すぎる。大伴は眉輪王を殺すまで追手を緩めぬだろう。お前まで危うくなる」


「しかし——」


「だから、お前が決めろ」


父の目が、磐を捉えた。


「連れていくか、置いていくか。私は命じない。お前が決めろ」


それは——残酷な選択だった。


自分の命を優先するか。幼い従弟を救おうとするか。どちらを選んでも、何かを失う。


磐は眉輪王を見た。


幼子は磐を見つめていた。何もわからぬ目で。ただ、不安そうに。


「——連れていきます」


磐は言った。


「眉輪王を、連れていきます」




二十六


父は微かに笑った。


「そうか」


それだけ言った。


「津守」


父が呼ぶと、老人が広間に入ってきた。


「若を頼む。眉輪王も、できる限り」


「承知しております」


津守は深く頭を下げた。


「大臣様。長い間——お仕えできて、光栄でございました」


「馬鹿を言うな。お前はまだ死なぬ。磐を守り、葛城の血を繋ぐのだ」


「はっ」


父は磐に向き直った。


「最後にひとつ——」


「何ですか」


「いつか、力を取り戻した時——」


父の目に、炎が宿った。


「我らを滅ぼした者たちに、真実を突きつけろ。眉輪王を操り、我らを罠にかけた者たちに。天下に向けて、真実を」


磐は頷いた。


「必ず」


「行け」


父は背を向けた。


「もう振り返るな」




二十七


津守に導かれ、磐は館の裏手に向かった。


眉輪王の手を引いていた。幼子は何も言わなかった。ただ黙って、磐についてきた。


廊下を抜け、小さな庭を横切り、古びた蔵の前に出た。津守は蔵の中に入り、床板を外した。その下に、暗い穴が口を開けていた。


「この先が抜け道です。半里ほど進めば、山の中腹に出ます」


磐は穴を覗き込んだ。何も見えない闇だった。


「松明は」


「使えませぬ。煙で気づかれます。手探りで進むしかありませぬ」


津守は縄を取り出した。


「これで体を繋ぎましょう。私が先頭を行きます。若は眉輪王の手を離さぬよう」


磐は頷いた。


その時——


外で、喚声が上がった。


「始まったようだな」


津守は言った。


「急ぎましょう」




二十八


穴に入った。


闇だった。何も見えない。湿った土の匂いが鼻を突いた。


前を行く津守の気配だけを頼りに、磐は進んだ。片手は縄を握り、片手は眉輪王の小さな手を握っていた。


幼子の手は冷たかった。震えていた。


「大丈夫だ」


磐は囁いた。


「すぐに外に出る」


眉輪王は答えなかった。ただ、磐の手を強く握り返した。


どれほど歩いただろう。時間の感覚がなかった。永遠のように感じられた。


やがて、前方に光が見えた。


「出口です」


津守の声がした。


光に向かって進んだ。光は次第に大きくなり、やがて穴の外に出た。


山の中腹だった。木々に囲まれた斜面。朝の光が差し込んでいた。


磐は振り返った。


山の下、葛城の館が見えた。


炎が上がっていた。




二十九


館が燃えている。


黒い煙が空に立ち上っていた。炎は館全体を包み、赤々と燃え盛っていた。


磐は立ち尽くした。


あの中に、父がいる。姉がいる。葛城の人々がいる。


「若」


津守の声が聞こえた。しかし磐は動けなかった。


炎を見つめていた。


父の最後の言葉が蘇った。『もう振り返るな』。しかし振り返らずにいられなかった。


「若。見てはなりませぬ」


津守が磐の腕を掴んだ。


「今は生き延びることだけをお考えください」


磐は動かなかった。


「生き延びて、どうなる」


自分でも気づかぬうちに、声が出ていた。


「葛城はもう終わりだ」


「いいえ」


津守の声が、強くなった。


「終わりではありませぬ」


磐は津守を見た。老人の目に、炎が映っていた。


「名を変え、姿を変え、時を待つのです。必ず——」


津守は磐の肩を掴んだ。


「——必ず、蘇る時が来る」




三十


眉輪王が泣いていた。


声を殺して、しかし全身を震わせて泣いていた。


磐は幼子を見た。何と声をかければよいかわからなかった。


「行くぞ」


磐は眉輪王の手を取った。


「泣くな。泣いている暇はない」


冷たい言葉だった。しかしそれ以外に、言葉が見つからなかった。


山を登った。津守が先導し、磐と眉輪王が続いた。獣道のような細い道を、木々をかき分けながら進んだ。


背後で、まだ炎の音が聞こえていた。


やがて聞こえなくなった。


山の向こう側に出た時、磐は初めて足を止めた。


眼下に、見知らぬ土地が広がっていた。葛城ではない。別の土地。別の世界。


「ここからどこへ」


磐は問うた。


「東へ」


津守が答えた。


「渡来の民の集落があります。葛城と古くから繋がりのある者たちです。そこに身を寄せましょう」


磐は頷いた。


そして歩き出した。


振り返らなかった。




三十一


山を越え、谷を渡り、三日が過ぎた。


食べ物はほとんどなかった。津守が懐に忍ばせていた干し飯を、三人で分け合った。水は沢で汲んだ。夜は木の根元で身を寄せ合い、眠れぬ夜を過ごした。


眉輪王は衰弱していた。


もともと宮仕えの幼子である。山道を歩いた経験などないだろう。足の裏は血豆だらけになり、顔色は土のように青白くなっていた。


「少し休もう」


磐は言った。


大きな岩の陰に腰を下ろした。眉輪王はそのまま崩れるように座り込み、動かなくなった。


「水を」


津守が竹筒を差し出した。磐はそれを眉輪王の口元に持っていった。


「飲め」


眉輪王は目を開けた。しかし水を飲もうとしなかった。


「……いらない」


「飲め」


「いらない」


眉輪王の目に、何の光もなかった。


「どうせ——死ぬのだから」




三十二


磐は眉輪王を見つめた。


七つか八つの子供が、死を口にしている。生きる意志を失っている。


「何を言っている」


「私のせいで——皆、死んだ」


眉輪王の声は平坦だった。


「天皇を殺した。だから——円大臣も、皆も——私のせいで——」


「違う」


磐は言った。


「お前のせいではない」


「私のせいだ。私が——あの人を刺したから——」


「お前は利用されたのだ」


磐の声が大きくなった。


「お前を操った者がいる。憎しみを育て、刃を握らせ、天皇に向けた。お前は——」


言葉が詰まった。


眉輪王は磐を見ていた。虚ろな目で。


「——わかっている」


眉輪王は言った。


「先生に——操られていたこと。わかっている」


「では——」


「でも、刺したのは私だ」


眉輪王の目から、涙が一筋流れた。


「あの人の目を——覚えている。刺した時の——驚いた目を。『なぜ』という目を。私が——私が、あの目を見た。私が——」


幼子の体が震えた。


「私が、殺したんだ」




三十三


磐は何も言えなかった。


眉輪王の言葉を否定できなかった。操られていたとしても、刃を握ったのはこの子だ。人を殺したのはこの子だ。


その事実は、消えない。


「……先を急ぎましょう」


津守が言った。


「追手が来るやもしれませぬ」


磐は頷いた。眉輪王の腕を掴み、立たせようとした。


眉輪王は動かなかった。


「置いていけばいい」


幼子は言った。


「私がいなければ——追手も来ない。私を——ここに置いていけばいい」


「馬鹿を言うな」


「馬鹿じゃない」


眉輪王の目が、初めて磐を真っ直ぐに見た。


「あなたは——私のせいで父上を失った。兄上たちも。姉上も。皆、私のせいで——」


「黙れ」


磐は叫んだ。


「お前のせいじゃない。お前を操った奴らのせいだ。大伴のせいだ。物部のせいだ。大泊瀬皇子のせいだ。お前は——」


声が震えた。


「お前は——私と同じなんだ」




三十四


眉輪王は目を見開いた。


「私も——すべてを奪われた」


磐は言った。


「父を。兄を。姉を。家を。名を。すべてを。お前と同じだ。お前だけじゃない」


眉輪王の唇が震えていた。


「だから——」


磐は眉輪王の肩を掴んだ。


「死ぬな。私より先に死ぬな。私を——ひとりにするな」


それは、磐自身も気づいていなかった本心だった。


父を失った。家族を失った。すべてを失った。今、傍にいるのは津守とこの幼子だけだ。この子まで失えば——


本当にひとりになる。


「……わかった」


眉輪王が、小さく頷いた。


「わかった——死なない」


その目に、わずかな光が戻った。


「あなたより先には——死なない」




三十五


四日目の夕暮れ、集落が見えた。


山裾に広がる小さな集落だった。藁葺きの家が十数軒。畑があり、井戸があり、鍛冶場から煙が上がっていた。


「あれが——」


「秦の民の集落です」


津守が言った。


「百年ほど前、半島から渡ってきた者たちです。葛城の先代、先々代の頃から繋がりがある」


「助けてくれるだろうか」


「わかりませぬ。葛城が滅んだ今、我らを匿えば累が及ぶ。断られるかもしれませぬ」


磐は集落を見つめた。


日が沈みかけていた。空が赤く染まっている。


「行こう」


磐は歩き出した。


もはや選択の余地はなかった。このまま山の中を彷徨えば、三人とも野垂れ死ぬ。危険を冒すしかない。


集落の入り口に、人影があった。


農具を持った男が、こちらを警戒するように見ていた。




三十六


男は四十がらみだった。日に焼けた顔、太い腕。農民の風体だが、目つきが鋭かった。


「何者だ」


低い声だった。


「旅の者です」


津守が進み出た。


「道に迷い、難儀しております。一晩の宿を——」


「嘘をつくな」


男は津守の言葉を遮った。


「三日前、葛城が焼かれた。円大臣が死んだ。お前たち——葛城の者だろう」


津守は黙った。


磐は一歩前に出た。


「そうだ」


隠しても無駄だった。この男は知っている。そしておそらく、磐たちが何者かも察している。


「私は——円大臣の子だ」


男の目が細くなった。


「お前が——」


「私を突き出せば、大伴から褒美が出るだろう。この子も——眉輪王だ。差し出せば、もっと大きな褒美が出る」


眉輪王の体が強張った。磐はその手を握った。


「どうする」


磐は男の目を見た。


「突き出すか」




三十七


長い沈黙があった。


男は磐を見つめていた。その目に、何かを測るような色があった。


やがて、男は農具を下ろした。


「ついてこい」


それだけ言って、歩き出した。


磐は津守と眉輪王を見た。二人とも疲れ切った顔をしていた。


「行こう」


三人は男の後に続いた。


集落の奥に、他の家より少し大きな建物があった。男はその中に入った。磐たちも続いた。


中は薄暗かった。囲炉裏に火が焚かれ、煙が天井に立ち上っていた。奥に、老人が座っていた。


白髪を後ろで束ね、痩せた体。しかしその目は澄んで、鋭かった。


「爺様」


男が言った。


「葛城の者が来た。円大臣の子と——眉輪王だそうだ」


老人の目が、磐を捉えた。




三十八


老人はしばらく磐を見つめていた。


囲炉裏の火が爆ぜた。煙が揺れた。


「円大臣の子か」


老人の声は、枯れ木のようだった。


「はい」


「名は」


「——磐、と」


「磐」


老人は頷いた。


「儂は秦造はたのみやつこ。この集落の長だ」


磐は頭を下げた。


「お世話になります」


「まだ何も決まっておらぬ」


老人は言った。


「お前たちを匿えば、我らも危うくなる。大伴の兵がここまで来れば——」


「わかっています」


磐は顔を上げた。


「危険を冒してくれとは言いません。ただ——一晩だけ。一晩だけ休ませてください。明日には発ちます」


老人は黙っていた。


眉輪王が、磐の後ろで小さく咳をした。疲労と空腹で、限界だった。


老人の目が、眉輪王を見た。




三十九


「あれが——眉輪王か」


「はい」


「天皇を殺した子か」


磐は答えなかった。


老人は立ち上がった。思ったより背が高かった。囲炉裏を回り、眉輪王の前に立った。


眉輪王は怯えたように、磐の背に隠れようとした。


「顔を見せよ」


老人の声は穏やかだった。


眉輪王は震えながら、顔を上げた。


老人は長い間、幼子の顔を見つめていた。


「——憐れな子だ」


やがて、老人は言った。


「目を見ればわかる。この子は——壊れかけている」


磐は息を呑んだ。


「殺すつもりで殺したのではない。殺されるために殺したのだ。誰かに——そう仕向けられたのだ」


老人は磐を見た。


「違うか」


「——その通りです」


「そうか」


老人は囲炉裏の傍に戻った。


「泊まっていけ」




四十


その夜、磐たちは初めて屋根の下で眠った。


温かい粥を食べた。久しぶりの食事だった。眉輪王は二杯食べ、そのまま眠りに落ちた。


磐は眠れなかった。


囲炉裏の傍に座り、火を見つめていた。


「眠らぬのか」


津守が隣に座った。


「眠れません」


「無理もない」


津守も火を見つめた。


「ここを発った後、どこへ向かうつもりだ」


「わかりません」


磐は首を振った。


「どこへ行けばいいのか——何もわからない」


「若——」


「私は——何者なのでしょうか」


磐の声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


「葛城は滅びました。父は死にました。私は——円大臣の子だと名乗りましたが、もうその名乗りに意味がない。葛城の者だと言っても、葛城はもうないのです」


火が爆ぜた。


「私は——何者でもなくなったのです」




四十一


津守は黙って聞いていた。


磐の言葉が途切れた後も、しばらく何も言わなかった。


やがて、静かに口を開いた。


「若。ひとつ、お話ししてもよろしいですか」


「何を」


「葛城の——始まりの話を」


磐は津守を見た。老人の横顔が、火に照らされていた。


「葛城は——最初から葛城だったわけではありませぬ」


「どういうことですか」


「初代の葛城襲津彦様——その方は、もともと別の名を持っていたと伝えられております」


磐は息を呑んだ。


「別の名——」


「はい。どのような名だったかは伝わっておりませぬ。しかし、何らかの理由で故郷を追われ、大和に流れ着き、葛城の地に落ち着いた。そして——新たな名を名乗った」


津守は磐を見た。


「葛城という名は——始まりの名ではない。蘇りの名なのです」




四十二


蘇りの名。


その言葉が、磐の中に沈んでいった。


「人は——名を変えられるのですか」


「変えられます」


津守は頷いた。


「名は、自分で選ぶことができる。過去を捨て、新たな名を選び、新たな己として生きることができる」


「しかし——」


「もちろん、葛城の血は消えませぬ。若の中に流れる血は、葛城の血です。それは変わらない」


津守は火を見つめた。


「しかし、名は——器のようなものです。血という中身を入れる、器。古い器が壊れたなら、新しい器を作ればよい」


磐は黙っていた。


「若。お考えください。葛城という名は、もう使えませぬ。名乗れば、殺されます。では——どのような名を、新たな器としますか」


磐は答えられなかった。


まだ、何も見えなかった。




四十三


翌朝、磐は秦造の前に出た。


「発つのか」


「いえ」


磐は頭を下げた。


「お願いがあります」


老人は黙って磐を見ていた。


「ここに——置いていただけませんか」


「ほう」


「働きます。何でもします。この子も——眉輪王も、面倒は私がみます。ご迷惑はおかけしません。だから——」


「なぜだ」


老人の問いは単純だった。


「昨日は、一晩で発つと言った。なぜ気が変わった」


磐は顔を上げた。


「——学びたいのです」


「何を」


「すべてを」


磐の目が、真っ直ぐに老人を見た。


「私は何も知りません。剣も使えない。馬にも乗れない。文字も満足に読めない。政のことも、世の中のことも、何も知らない。館の中だけで生きてきた、無力な子供です」


老人は黙っていた。


「しかし——このままでは終われない。父の仇を討つ。葛城を滅ぼした者たちに、報いを受けさせる。そのために——力が欲しい」




四十四


老人は長い間、磐を見つめていた。


囲炉裏の火が、静かに燃えていた。


「力が欲しいか」


「はい」


「仇を討ちたいか」


「はい」


「なぜだ」


磐は一瞬、言葉に詰まった。


「なぜ——とは」


「なぜ仇を討ちたい。父のためか。葛城のためか。己の誇りのためか」


磐は考えた。


父のため——それもある。葛城のため——それもある。しかし、それだけではない気がした。


「——眉輪王のためです」


言葉は、自然と出てきた。


「あの子は、利用されました。憎しみを育てられ、刃を握らされ、捨てられた。そしてこれから、一生——人を殺した罪を背負って生きていく」


磐の拳が握られた。


「それを仕組んだ者たちが、何の報いも受けずにいる。それが——許せない」


老人の目が、わずかに動いた。


「他人のために、怒れるのか」


「他人ではありません。従弟です。——血を分けた者です」




四十五


老人は立ち上がった。


部屋の隅にある棚から、何かを取り出した。古い巻物だった。


「これを読めるか」


磐の前に置いた。


磐は巻物を開いた。文字が並んでいた。漢字だった。読めるものもあったが、読めないものの方が多かった。


「——読めません。半分も」


「正直だな」


老人は巻物を取り上げた。


「これは——半島から持ってきた書物だ。兵法について書かれている」


「兵法——」


「剣の振り方ではない。戦の仕方だ。人をどう動かすか。敵をどう欺くか。勝つために、何をすべきか」


老人は巻物を棚に戻した。


「お前に必要なのは、剣ではない。こちらだ」


磐は老人を見た。


「仇を討つには、剣ではなく——」


「頭だ」


老人は言った。


「お前が剣を振るって大伴や物部を倒すことは、おそらく一生できぬ。しかし——頭を使えば、奴らを倒す方法は、いくらでもある」




四十六


その日から、磐は秦の集落に留まった。


眉輪王も一緒だった。津守は数日後、別の集落へ向かった。「各地に散った葛城の者たちと連絡を取る」と言って。


磐は働いた。


畑を耕し、水を運び、薪を割った。体を動かしていると、余計なことを考えずに済んだ。


夜は学んだ。


秦造が文字を教えてくれた。漢字の読み方、書き方。最初は簡単なものから始めて、少しずつ難しいものへ進んだ。


「お前は——覚えが早いな」


秦造は言った。


「体が弱かった分、頭を使うことに慣れているのかもしれぬ」


磐は黙々と学んだ。


一月が過ぎた。二月が過ぎた。季節が変わった。


眉輪王も少しずつ元気を取り戻していた。集落の子供たちと遊ぶようになった。笑顔を見せるようになった。


しかし、時折——夜中にうなされて目を覚ますことがあった。


「殺した——私が——」


そう呟いて、泣いていた。




四十七


半年が過ぎた頃、津守が戻ってきた。


痩せていた。髪はさらに白くなっていた。しかし目には力があった。


「若。お伝えしたいことがございます」


夜、二人きりで話した。


「都の様子を探ってまいりました」


「どうなっている」


「大泊瀬皇子——いえ、雄略天皇となられました——は、政を進めておられます。大伴と物部を重用し、渡来の民を積極的に登用しているとか」


「渡来の民を——」


「はい。新しい技術を持つ者たち。鉄を扱う者、機を織る者、文字を知る者。そうした者たちを集め、力をつけようとしている」




「雄略天皇は——愚かな方ではないのですね」


「おそらく。むしろ——非常に聡明な方のようです。だからこそ——」


津守は言葉を切った。


「だからこそ、邪魔者は容赦なく排除する。葛城もそうだった。他にも——多くの豪族が粛清されていると聞きます」


「しかし、租税を軽くし、多くの民たちから慕われているようです」


「むしろ、大伴や物部が思ったようにならずに困っているようです」


「誰が、何を思ってあのようなことを企んだのかは今もってわからないことが多いですが、民は今の世となって喜んでいます。」


磐は考え込んだ。


「津守。雄略天皇の——善政とは、どのようなものだ」


「はい。租税を軽くし、民の負担を減らしておられます。また、渡来の民を積極的に登用し、新しい技術を取り入れておられる。鉄の精錬、機織り、土木——」


磐は黙った。


それは——父も夢見ていたことではなかったか。


葛城は渡来の民との繋がりが深かった。父もまた、彼らの技術を重んじ、大和の国づくりに活かそうとしていた。


「皮肉なものだな」


「若?」


「父が死に、その企みの中で天皇になった雄略天皇が、父と同じことをしているとは」


津守は何も言わなかった。


磐は窓の外を見た。遠く、山の稜線が見えた。




雄略天皇は本当にあの天皇殺しの企みに加担していたのか。


父を殺し、葛城を滅ぼした。その真実は何処にあるのか。


しかし、実際には——


「津守。民は——本当に幸せなのか」


「……はい。少なくとも、そう聞いております」


磐は目を閉じた。


父の仇なのか、良き君主なのか。


今は私怨に囚われてはいけない。


民が救われている。これが事実だ。




「雄略天皇が善政を敷いているのは——事実かもしれませぬ。しかし、その善政を可能にしたのは誰ですか」津守が厳しく言った。




磐は目を開けた。


「葛城を滅ぼし、邪魔者を排除した大伴と物部。彼らの力があってこそ、雄略天皇は思い通りの政ができる。善政の陰に——我らの血があるのです。それは忘れられません。」


磐は頷いた。


「そうだな」


「そして——」


津守は言葉を切った。


「——眉輪王を操った者たちは、今も何の報いも受けていない」


磐の拳が握られた。


「わかっている」


雄略天皇を憎むのは、筋違いなのかもしれない。


真の敵は——その陰で糸を引いた者たちだ。


「しかし——」


磐は呟いた。


「雄略天皇の今行っている政が正しいのなら——それは、学ばなければならないことではないのか」


津守が息を呑んだ。




「敵とか味方とかではない。正しいものは正しい。渡来の民を重んじ、技術を取り入れ、民の暮らしを良くする。それは——父も望んでいたことだ」


磐は立ち上がった。


「私は——雄略天皇の政を継ぐ」


「継ぐ——」


「いつか蘇我が力を持った時、同じことをする。渡来の民と手を結び、新しい技術を取り入れ、この国を豊かにする。父が夢見て、雄略天皇が実現したことを——私がそして蘇我が引き継ぐ」


津守は黙って磐を見ていた。


「それが——私の復讐だ」


磐の目に、静かな炎が燃えていた。


「大伴と物部を倒し、奴らが作り上げた体制を奪い取る。そして——奴らが利用した雄略天皇の政を、蘇我のものにする」


仇の遺産を奪う。


それこそが——最も深い復讐ではないか。




四十八


磐は囲炉裏の火を見つめた。


「眉輪王のことは——」


「追手は諦めたようです。山中で野垂れ死んだと思われているのでしょう」


「大伴、物部もそれどころではなくなってきているようだ」


「そうか」


「ただ——」


津守の声が、低くなった。


「ひとつ、気になる話を聞きました」


「何だ」


「眉輪王の母——中蒂姫様のことです」


磐は顔を上げた。叔母。眉輪王の母。あの夜以来、消息を聞いていなかった。


「どうなった」


「——亡くなられたそうです」


磐の息が止まった。


「自ら——命を絶たれたと」


「なぜ——」


「眉輪王が死んだと聞かされたのでしょう。息子を失い、生きる意味を見失われたのかと——」


磐は目を閉じた。


中蒂姫。夫を殺され、新たな夫に奪われ、息子を操られ、その息子も失ったと思い——


なんという人生だったのだろう。




四十九


「眉輪王には——言うな」


磐は言った。


「しかし——」


「今、あの子に母の死を告げれば——壊れる」


津守は黙った。


「いつか——あの子が強くなったら、話す。今は、まだ早い」


「承知しました」


津守は頭を下げた。


磐は立ち上がり、外に出た。


夜空を見上げた。星が瞬いていた。葛城の空と同じ星だった。しかし、もう葛城はない。


拳を握りしめた。


中蒂姫は死んだ。父も死んだ。兄も姉も死んだ。葛城は滅んだ。


そして——それを仕組んだ者たちは、今も栄えている。


「必ず——」


磐は呟いた。


「必ず、報いを受けさせる」


星は黙って、瞬いていた。




五十


一年が過ぎた。


磐は十三歳になっていた。背が伸び、体つきもしっかりしてきた。あの頃の病弱な面影は消えていた。


畑仕事と、秦造の教えが、磐を変えた。


文字を読めるようになった。兵法の書を、ひとりで読み解けるようになった。半島の情勢、大和の政、豪族たちの関係——様々なことを学んだ。


「お前は——変わったな」


秦造が言った。


「一年前、ここに来た時は、怯えた子供だった。今は——違う」


「まだまだです」


「いや」


老人は首を振った。


「目が変わった。何かを見据える目になった。獲物を狙う——狩人の目だ」


磐は何も言わなかった。


「そろそろ——ここを出るつもりか」


「……まだ早いと思っています」


「そうか」


老人は頷いた。


「焦るな。お前の敵は、そう簡単には倒れぬ。十年——いや、二十年かかるかもしれぬ。それだけの覚悟があるか」


「あります」


磐は答えた。




五十一


さらに一年が過ぎた。


磐は十四歳になった。眉輪王は十歳になっていた。


二人は兄弟のように暮らしていた。磐が学んだことを、眉輪王に教えた。文字の読み方、歴史、世の中の仕組み。


眉輪王は賢い子だった。教えたことをすぐに覚え、自分で考えることができた。


「兄上」


眉輪王は磐をそう呼ぶようになっていた。


「何だ」


「私は——いつまでここにいるのですか」


磐は眉輪王を見た。


「急に何だ」


「私は——天皇を殺した者です。いつまでも隠れているわけにはいかない」


「お前は——」


「わかっています。操られていたことは。でも——」


眉輪王の目が、真っ直ぐに磐を見た。


「——罪は消えない」


磐は何も言えなかった。


「私は——償いたい。でも、どうすれば償えるのかわからない。だから——」


眉輪王は俯いた。


「——教えてください。私は、どう生きればいいのですか」




五十二


磐は長い間、眉輪王を見つめていた。


十歳の子供が、自分の罪と向き合おうとしている。逃げずに、背負おうとしている。


「——償う方法は、ひとつしかない」


磐は言った。


「お前を操った者たちを、暴くことだ」


眉輪王の目が見開かれた。


「大伴と物部。奴らがお前を操り、天皇を殺させた。その真実を、天下に明らかにする。それが——お前の償いになる」


「でも——どうやって——」


「今はできぬ。力がない。証拠もない。だから——」


磐は眉輪王の肩に手を置いた。


「——時を待つ。力を蓄え、機会を待つ。十年かかるか、二十年かかるか、わからぬ。しかし——」


「必ず——」


「必ず、その日は来る」


眉輪王は頷いた。その目に、涙が浮かんでいた。しかし——それは絶望の涙ではなかった。


「わかりました。私は——待ちます。兄上と一緒に」




五十三


その夜、磐は秦造のもとを訪ねた。


「話がある」


「何だ」


「——名を決めました」


老人の目が、わずかに動いた。


「ほう」


「この二年間——ずっと考えていました。どのような名を、新たな器とすべきか」


磐は囲炉裏の前に座った。


「私は——磐という名を捨てます。葛城という名も捨てます」


老人は黙って聞いていた。


「そして——新しい名を名乗ります」


「何という名だ」


磐は——いや、かつて磐と呼ばれていた少年は、真っ直ぐに老人を見た。


「蘇我」


老人の眉が上がった。


「我、蘇る——か」


「はい」


「面白い名だ。しかし——意味が深い」


「わかっています」


少年の目に、静かな炎が燃えていた。


「私は——滅ぼされました。しかし、死んではいない。だから——蘇る」




五十四


老人は長い間、少年を見つめていた。


囲炉裏の火が、二人の顔を照らしていた。


「蘇我——か」


「はい」


「その名を——一生背負う覚悟はあるか」


「あります」


「その名が意味するものを——忘れぬ覚悟はあるか」


「忘れません」


少年の声は、静かだが、揺るぎなかった。


老人は頷いた。


「よかろう。今日より——お前は蘇我だ」


少年は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼には及ばぬ。しかし——」


老人は立ち上がった。


「ひとつ、覚えておけ」


「何を」


「名を変えても、過去は消えぬ。お前の中に流れる血は、葛城の血だ。それは——変わらぬ」


「わかっています」


「そして——」


老人は窓の外を見た。闇の中に、山の稜線が見えた。


「いつか、お前の子が、孫が生まれる。その時——お前は何を伝える」




五十五


少年——いや、蘇我は考えた。


何を伝えるべきか。


葛城の血。滅ぼされた過去。蘇りの意志。


「——すべてを伝えます」


「すべてを?」


「はい。葛城の血を引いていること。滅ぼされたこと。そして——蘇ったこと」


老人は振り向いた。


「それでよいのか。葛城の名を出せば、危険が及ぶ」


「だから——秘密にします」


蘇我の目が、老人を見た。


「子に伝え、孫に伝え——代々、秘密として受け継ぐ。決して表には出さない。しかし——忘れない」


「なぜだ」


「忘れれば——本当に滅んだことになるからです」


蘇我は立ち上がった。


「私の仇討ちは——私一代では終わらないかもしれない。しかし、子が継ぎ、孫が継ぎ、いつか必ず——」


「——果たす、か」


「はい」


老人は微かに笑った。


「お前は——変わったな。一年前とは、まるで別人だ」


「あなたのおかげです」


「いや」


老人は首を振った。


「儂は何もしておらぬ。お前が——自分で変わったのだ」




五十六


それから数年が過ぎた。


蘇我は二十歳になっていた。眉輪王は——今は別の名を名乗っている——十六歳になっていた。


秦の集落を出て、東の方へ移った。曽我の里と呼ばれる土地に、小さな居を構えた。


渡来の民と結びつき、少しずつ力を蓄えていた。鉄の技術を持つ者。機を織る者。文字を知る者。そうした者たちを集め、協力関係を築いていった。


津守も戻ってきた。各地に散った葛城の者たちと連絡を取り、密かに情報網を作っていた。


「雄略天皇は——衰えてきているそうです」


津守は言った。


「衰え——」


「御歳、五十を超えられました。近頃は——病がちだとか」


蘇我は窓の外を見た。


「そうか」


感慨はなかった。父の仇。葛城を滅ぼした者。しかし今、復讐を急ぐつもりはなかった。


「大泊瀬皇子——いえ、雄略天皇が死んでも、大伴と物部は残る」


「はい」


「奴らを倒すまで——終わらぬ」




五十七


さらに時が流れた。


蘇我は三十五歳になっていた。


その間に、多くのことがあった。妻を娶った。子が生まれた。男児だった。稲目と名付けた。豊かな実りを意味する名だった。


雄略天皇は死んだ。その子も孫も、短命に終わるか、子を残さず消えていった。皇統は履中系に移った。


蘇我は表舞台には出なかった。しかし——着実に力を蓄えていた。渡来の民との繋がり。財力。人脈。


そして——情報。


「父上」


ある日、稲目が言った。十歳になった息子だった。


「何だ」


「私たちは——なぜ蘇我と名乗るのですか」


蘇我は息子を見た。聡明な目をした子だった。


「——聞きたいか」


「はい」


蘇我は稲目を手招きした。


「ここへ座れ。話がある」


息子は父の前に座った。


そして蘇我は——初めて、己の過去を語った。




五十八


葛城のこと。


父、円大臣のこと。


眉輪王のこと。


あの夜、館が燃えたこと。


山を越え、逃げたこと。


秦の集落で学んだこと。


そして——蘇我という名を選んだこと。


すべてを、語った。


稲目は黙って聞いていた。十歳の子供とは思えないほど、真剣な顔で。


「——わかったか」


「はい」


「この話は——他言するな。誰にも言うな。しかし——」


蘇我は息子の肩に手を置いた。


「——忘れるな」


「忘れません」


稲目の目は、真っ直ぐだった。


「私たちは——葛城の血を引いている。滅ぼされた者の子孫だ」


「そうだ」


「そして——蘇った」


「そうだ」


稲目は頷いた。


「私は——この話を、私の子に伝えます。そして私の子は、その子に伝える。ずっと——」


「そうだ」


蘇我は微笑んだ。


「我らは——蘇我だ。我、蘇る。その意味を——決して忘れるな」




終章




蘇我は老いた。


七十を過ぎ、髪は白くなり、背は曲がった。しかし目だけは、若い頃と変わらなかった。


稲目は立派な男になっていた。渡来の民との結びつきを強め、朝廷にも出仕するようになっていた。大臣の地位には届いていないが——その日は近いと、蘇我は感じていた。


ある夜、稲目が見舞いに来た。


「父上。お加減はいかがですか」


「悪くない。まだ死なぬ」


蘇我は笑った。


「今日は——孫を連れてまいりました」


稲目の後ろに、幼い子供が立っていた。五つか六つの男児だった。


「名は何という」


「馬子と申します」


蘇我は孫を見た。聡明な目をしていた。稲目に似ている。そして——遠い昔の誰かにも。


「こちらへ来なさい」


馬子は蘇我の前に座った。


「曾祖父様」


馬子が言った。


「何だ」


「もし——蘇我が滅びたら、どうなりますか」


蘇我は孫を見た。幼い顔に、聡明な光があった。


「なぜそのようなことを聞く」


「父上が言っていました。栄えるものは必ず衰える、と。蘇我もいつか——」


蘇我は目を閉じた。


そうだ。


栄えるものは衰える。葛城がそうだったように。


「馬子。よく聞け」


蘇我は目を開いた。


「もし蘇我が滅びる日が来たら——我らを滅ぼした者は、歴史を書き換えるだろう」


馬子の目が見開かれた。


「書き換える——」


「勝者が歴史を書く。それは、いつの世も変わらぬ」


蘇我は遠い目をした。


「我らは悪逆非道と書かれるだろう。天皇を蔑ろにし、権勢を欲しいままにした大悪人と。そして——」


言葉を切った。


「——雄略天皇もまた、暴君と書かれるかもしれぬ」


「なぜですか。雄略天皇は——良い政をなさったのでしょう」


「そうだ。しかし、我らがその政を継ぐのだ。もし蘇我を悪と書くなら、蘇我が継いだものも悪と書かねばならぬ」


馬子は黙っていた。


「真実は——消される」


蘇我は孫の肩に手を置いた。


「だから、忘れるな。我らが何者であるか。何を継いできたか。たとえ世の中の書物がすべて嘘を書いても——血の中に、真実を残せ」


「はい」


馬子は頷いた。


「忘れません。決して」


蘇我は微笑んだ。


この子なら——大丈夫だ。


たとえ歴史が嘘を書いても。


たとえ蘇我が悪人と呼ばれても。


血は——真実を覚えている




「そうだ、お前は——蘇我の子だ」


「はい」


「お前はもう、蘇我という名の意味を——知っているか」


馬子は首を傾げた。


「父上から——少しだけ聞きました。我、蘇る——と」


「そうだ」


蘇我は目を閉じた。


あの夜のことを思い出していた。炎に包まれた館。逃げる山道。秦の集落。津守の言葉。


——必ず、蘇る時が来る。


六十年が過ぎた。


まだ——果たせていない。大伴も物部も、形を変えて残っている。葛城を滅ぼした者たちの子孫が、今も朝廷で権勢を振るっている。


しかし——


「馬子」


蘇我は孫の名を呼んだ。


「はい」


「お前の代か——その次の代か。いつか必ず——蘇我が天下を取る日が来る」


馬子の目が、大きく見開かれた。


「その時——忘れるな。我らは、滅ぼされた者の子孫だ。蘇った者の子孫だ。そして——」


蘇我は目を開いた。


窓の外に、葛城の山が見えた。六十年前と変わらぬ姿で、そこにあった。


「——真実を、明らかにせよ」


馬子は頷いた。


「わかりました。曾祖父様」


蘇我は微笑んだ。


そして——目を閉じた。




その夜、蘇我は静かに息を引き取った。


穏やかな顔だったという。


後に——蘇我稲目は大臣となり、蘇我氏は天下に覇を唱えた。馬子の代には、物部氏を滅ぼし、朝廷の実権を握った。


蘇我という名は——歴史に刻まれた。


しかし、その名の本当の意味を知る者は、蘇我の一族以外にはいなかった。


我、蘇る。


滅ぼされた者が、蘇った。


それが——蘇我氏の始まりだった。




【完】

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