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虚ろなる華族

作者: シガ

AIを使用しています

 久々に訪れた洋館にて私は、書斎へと入り、壁一面に広がる本棚から一冊本を手に取り読書を行う。部屋の雰囲気に似合わぬヴィクトリア様式の椅子に腰掛け、古臭い文学小説を読むというのはなんだか不思議な気分にさせられた。この誰もいない洋館に、住んでいるわけでもないのに、まるでずっと昔から住んでいるかのようななじみ深さを感じる。


 本を読むのはそこまで好きではないのだけれど、今日ばかりは一冊残らず読んでしまいたい気分だ。

この家に私が来た経緯を話すと少し複雑だ。


 元はといえば、代々先祖から受け継ぎ守り続けていたこの洋館を私が売り払ったことが始まりだ。ようやく買い手が見つかり、ここはもう私たち「鈴木家」の物ではなくなった。買い手はこの邸宅と土地を再開発し、ホテルを建てるのだと自慢げに話していた。


 だが、その計画を進めている最中、業者が立て続けに不幸に見舞われ、大怪我をしたり、買い手の身内に不幸があったりと計画が一向に進まなかったそうだ。これでわかったと思うが、どうもこの館は呪われているっぽい。


 だからその謎を解くべく、こうして鈴木家の跡取りである私――鈴木雅が調査することになったのである。私は幼い頃に何度か遊びに来ただけで、その時の記憶も朧気なため、こんな場所に一人で泊まって何かを調べろと言われても困るが。このまま妙な噂が定着してこの土地が売りに出され続けても目も当てられない結果になるだろう。


 それにしても、どこから呪いが生まれたのか検討もつかない。私の先祖に何かあったなんてことは聞いたこともない。


 まさか……いや、そんなはずはない。薄気味悪さを感じながらも、僕はスマートフォンで音楽を聴きながら、心を落ち着かせようと試みる。イヤホンからは好きなミュージシャンの歌声が流れ、心地よく耳に入ってくる。しばらくふけっていると突然、玄関を叩く音がノイズとしてポップミュージックに紛れ込んでくる。


 何度も何度も玄関をノックする音が響き渡る。一体誰が何のために来たのか見当もつかない。宅配なんて頼んでいないし、知人が来る予定もない。もしかすると、近くで何かトラブルがあって誰かが助けを求めているのかもしれない。いや、こんなだだっ広い敷地の奥にある邸宅にわざわざ助けを求めてくるものなのか?執拗に響く玄関扉を叩く音は、私の奥にある緊張と興奮が入り混じった感情が胸の奥底から湧き上がらせ、心臓の鼓動が早くなった。


 何か恐ろしいものが迫ってきているのではないかという考えが頭をよぎり、背筋に冷たい汗が滲んだ。怖がらせるつもりではなく、ただその音の主がどんな人物なのかを確かめることに決めた。ドアを開ける前には用心深く周囲を見回し、自分の身を守るために必要な準備をしておこうと思った。まぁ特に何もできなかったが。


 慎重に扉を開けてみる。古びた木の扉、錆びた蝶番、鉄製の取っ手を掴み、ゆっくりと力を入れて押し開ける。扉が軋む音と共に、風が吹き込み、私は少し不安を感じながらも、扉を開いた先に立っていた人影を目にした。


 そこには、黒の学生服に身を包んだ青年が一人立っていた。随分と時代錯誤な学生服だ。学帽を深く被り、肩までの長髪が風になびいている。瞳はやけに澄んでいて、しかしその底に、言いようのない「空白」が漂っていた。まるで、あらゆる感情を一度取り除かれてしまったような目。そんな彼が私を見つめる様子には、何か異様なほどの静寂感があり、私は一瞬、言葉を失ってしまった。


「こんにちは」


 彼はそう言い、私に一歩近づいてきた。明らかにおかしい見た目、雰囲気、これは絶対関わっちゃいけない奴だ。しかし、私は違和感に引き込まれるように、自然と口を開いてしまった。


「こんにちは.....」


 会話を交わしてしまった。これはもう避けようがないだろう。一度関われば最後、彼の気が済むまで応対しないといけない。


「ここに……華族様がお住まいだと聞いたのですが?」


 一瞬、言葉に詰まった。華族?たしかに鈴木家は爵位を受けた。だがもうそれは遥かに昔の話だ。華族制度は戦後GHQによって廃止され、華族という身分はすでに存在しない。しかし、ここで妙な勘が働く。


 もし愚直に真っ直ぐ「いない」なんて返答したら、何らかの地雷を踏みとんでもないことになるかもしれない。だからここで私はあえて、とんでもない返答をしたのだ。


「ああ....私こそが華族様だが?」


 自分のことを華族様だなんて、余りにも解像度が低くて面白いなと思っていると、空気が少し変わった。湿り気のある風が、開け放った扉から家の奥へと滑り込み、床板の上を這うように忍び寄ってくる。風が通り抜ける度に、廊下の壁紙が微かに震え、天井からぶら下がる電球が不規則に揺れる。青年の口元が、ゆっくりと笑みに変わった。


 これは正解か? 一瞬、恐怖に駆られてしまう。得体の知れない相手に、大きく噓を付いてしまった。冷や汗が頬を伝う。彼はゆっくりと靴を脱ぎ、家の中へ足を踏み入れた。学生服の裾から、埃のような、古びた紙の匂いが漂ってくる。そして、私を真っ直ぐに見つめたまま言った。


「それじゃあ貴方が華族様なのですね」


 その声には、先ほどの澄んだ響きとは違う、底冷えするような静けさがあった。まるで探し物を見つけたような安堵感と、同時に私に対する哀れみが混ざっているような。私は心臓が凍りつくのを感じた。彼の視線に囚われ、言葉が喉元で絡まった。私の本能が警鐘を鳴らす。彼は決してただの人間ではない。


 私はただ、そこに立っていることしか出来ず、彼がじっとこちらを見据える間に、時間だけが凍りついたように過ぎていく。こうなればあれだ。厳粛な華族として表情だけで威圧をするしかない。自分の中に眠る、古き血脈に宿る威厳と力を取り出し、目の前の存在に向かって放射する。私の視線は鋭くなり、顔つきが引き締まった。額から伝う汗も構わず、全力で睨む。すると彼の表情が強ばったように見えた。先ほどまで余裕そうな態度を見せていたが、どうやら効いたらしい。


「鈴木様....突然の訪問になってしまい申し訳ございません」


 鈴木……私の苗字だ。彼はどうも私の家系を認識しているらしい。とりあえずこれで青年の正体についての考察が一歩進んだ。僕の先祖に何らかの関係があるものか?あるいはただの物好きか?


「実は....探し物をしておりまして……」


 そう話すこの男の瞳の奥にある「空白」は、何かを探しているのではなく、何かを埋めようとしている風に見えた。それは、私という存在を、この家を、歴史の断片を、まるごと飲み込もうとするかのような飢餓感を伴っていた。


 彼はふっと微笑むと、部屋の隅にある古びた黒電話に目を留めた。それはもう何十年も鳴ることのない、ただの置物。彼は私の横を通り抜け、そこへ近づくと、彼はまるでそれが生きているかのように、指先で優しくなぞった。何がしたいんだろうか、というかコイツは本当に何者なんだろうか?


「お探しものは、その電話の中にあるのかもしれませんね……」


彼はぽつりと言った。


この黒電話の中に?……一体どういう意味だろうか。よくわからない。私は息をのんだ。


 この電話はかつての邸宅の主、鈴木正造が買い上げた物のなかで一番新しい物だった。正造はまだ若かりし頃、世界情勢と日本政府の動きに危機感を持ち、日露戦争への軍拡に反対していた。彼は貴族院議員としての地位に誇りを持ち、帝国憲法に異議を申し立てるなど、かつての日本で今のような平和的な国家建設を目指していた。しかし、日露戦争を経て政治状況は右傾化の一途を辿り、正造の意見は聞き入れられることはなく、無念のうちにこの世を去った。


「……何者なんだ、君は」


 絞り出すような私の問いに、青年はもう一度、にっこりと笑った。それは、初めて見せた時の、あの底知れぬ「空白」を湛えた笑みだった。


「私は……華族様にお仕えする者です。失くしたものを取り戻しに参りました」


 青年の言葉に、背筋がじわりと汗ばむのを感じた。「失くしたもの」――それが何を指すのか、私は聞く勇気を持てなかった。


 突如、黒電話から耳を麻痺させるほどベルの音。回線はつながってないはず......。しかし、電話が鳴る。受話器を青年が取り、囁いた。


「お出ましくださいませ、華族様」


 その瞬間、突風が外から吹き荒れ、窓ガラスが軋む。木の枝が激しく揺れ、落ち葉が家に入ってくる。家中のきらびやかな照明がパチパチと点滅し、まるで目を覚ましたかのように明滅を繰り返す。生活音が徐々に辺りから聞こえ始める。床を掃く箒の音、何かを洗う水音、複数の足音、食器のぶつかる音。遠くのほうから、人間の話し声らしきものが聞こえてくる。そこには賑やかな話し声や笑い声、子供たちが走り回る足音、庭で遊ぶ楽しげな声、厨房からの煮炊きの音などが混ざり合っていた。まるでかつて邸宅が生きていた頃の光景が蘇ったかのように、現実と過去が重なり合う瞬間。空気は濃密になり、呼吸が困難になるほどの圧力を感じた。この場所には存在しないはずの温もりが、部屋中に満ち溢れていた。


――だれかが、この家に戻ろうとしている?


 この家はまるで、だれかをこれから迎え入れるかのように装飾されたまま時が止まっている。まるで、ある日の幸せな夕暮れ時に時間が閉じ込められているように見える。


私は震えながら青年を見つめた。深く頭を垂れている。


「ようやく……お戻りになられるのですね」


 彼の背筋が喜悦に震える。不味い、よくわからないが何らかの引き金が引かれ、取り返しのつかない事態になってるっぽい。私は咄嗟に逃げなければと考えた。ここにいては絶対に良くないことが起こる。それだけは確信できる。私は外へと駆け出そうとするが、目が開けないほどの突風が吹き荒れる。ダメだ。振り返ると、青年が私を見ていた。瞳の「空白」が私の中を覗き込む。


「あなたにはこの場に立ち会う義務があります。なぜならあなたは華族様のご子孫であり、華族様をお迎えする憑代なのです。」


ぞっとした。憑代?御霊代って事か?私は誰かの魂が戻ってくるときの依代にされるのか!?


「じょ、冗談じゃない!嫌だ、絶対に嫌だ!」


「しかし.....華族様はそれをお望みなのです。こうした機会が巡り合えるなんてなかなかないことですから、絶対に逃しませんよ。」


 ああ、こんなことなら変に噓をつかず、大人しく適当に誤魔化せばよかった。黒電話の受話器から、二度、三度、かすかな呼吸のような音が漏れ始める。向こうの相手が華族様なんだろうか、帰ってこようとしているのだろう。青年はゆっくりと立ち上がり、黒電話を持って私の前へ進み出た。その一歩一歩が、床板を軋ませる音と共に、私の心臓を締め付ける。


「嘘は、真実の扉を開けることがあります」


  彼の言葉は、静かでありながら、私の魂に直接響くようだった。受話器を私の耳に近づける。受話器から漏れる呼吸音は、次第に大きくなり、まるで誰かが、いや、何かが、その向こうから近づいてくるように感じた。


「くっ....この相手は誰なんだ...そもそも一介の華族が現代に適応できるとは到底思えな.....」


 否定しようとした私の言葉は、青年の手によって遮られた。彼は優しく、しかし有無を言わせぬ力で私の口元を覆った。


「お静かに。彼がお目覚めになる」


 青年の指先が、私の唇に触れる。ひんやりとした、まるで氷のような感触だった。これは生きとし生ける者の温度ではない。その時、黒電話の受話器から、断続的な、しかし確かな声が聞こえてきた。


「き....た……」


 それは、老人のものとも、子供のものともつかない、歪んだ声だった。受話器の向こうから、何かが、じわじわとこちら側へ移動してくる気配がする。電話のダイヤルがひとりでに回り始め、奇妙なリズムを刻む。壁の装飾が震え、額縁の中の肖像画の目がこちらを凝視する。フッと、私の中に何かが入り込んできた。


「――ッ、あ、あぁ……」


 全身の血が逆流するような感覚に襲われる。頭蓋骨の中で誰かが囁いている。それは、遠い昔の記憶。戦火。議場での怒号。父の死。弟の涙。愛する人の悲しみ。私はそれら全てを知っている。私はこれらを知ってるけど、知らない。誰かが私の中に入っている。だがこれは一部なんだろう。おそらくもっと巨大な存在がこの電話の中に居座っている。


青年の顔に、恍惚とした表情が浮かんだ。


「お待ちしておりました。華族様」


 彼は受話器を私から離しそっと耳に当てると、まるで長年待ち続けた旧友と語り合うかのように、静かに話し始めた。


「失われた時を取り戻しに参りました。貴方の苦しみ、貴方の希望、全て祓えますし取り戻せます。」


 彼の言葉の意味を、私は理解できなかった。だが、脳内にこびりついた何者かの意思は、それを肯定しているかのように私の中をうごめいている。


「……やめてくれ....あなたが私を乗っ取ってまで欲するものは一体なんなんです!?」


必死の形相で叫ぶが、それは虚しく霧散してしまう。


 頭の中から、今度は、すすり泣くような声が聞こえてきた。それは、失われた記憶、失われた命、そして、失われた「華族」という存在そのものが、この世に未練を残し、叫んでいるかのようだった。


「……私、は、帰る、帰る、帰る……」


 受話器からのすすり泣きは、やがて低い嗚咽に変わり、その音は部屋の四隅へと染みわたっていく。壁紙がじっとりと濡れ、古びた柱がひとりでに鳴った。


「……まだ……終わりたくないのだ。この世に未練が……まだ終わらない夢が……」


 その声は、もはや電話の向こうからだけではなかった。家そのものが呻いているように聞こえた。

青年はうっとりと目を閉じ、受話器を掲げる。


「聞こえますか?華族様の語りが。もう向こうとこちらは近接している....これができたのは間違いなく、選ばれし者であるあなたのおかげです」


「選ばれし……?」私はかすれ声で呟いた。


「そうです。あなたの中に眠るこの家の血が、いま華族様の目を覚まそうとしている」


その言葉に、全身が凍った。――血。


 そうか、黒電話が媒介となっている理由がなんとなくつかめた。私を乗っ取ろうとしているのは、鈴木正造なのだ。確かにこの家の人間の中でもとりわけ英雄的存在であり、歴史的人物であったことは間違いない。私の中に眠る正造のDNAがこの電話を通して繋がり、私の中にある鈴木家の血の力を借りて鈴木正造が復活しようとしているのか……?


あの黒電話も単なる骨董ではなく、彼らにとって特別な“門”だったのだろう。

すすり泣きは次第に笑いへと変わっていく。嗄れた、しかし力強い声。


「……名を……名を……名を名乗れ……」


 正体は掴んだ。さてここからどう自分の身体を取り返すか……。そんなことをなんとか考えようと頑張っていると、青年が私の肩に手を置いた。冷たい指が、皮膚の下まで突き刺さるように重かった。


「名を告げるのです。華族様は、あなたを待っている」


体の中でも、外でも名乗れ名乗れと催促されている。これは鬱陶しい、早く何とかしなければ。


「私の名前は鈴木正.....!?」


 とっさに口を抑えた。自分の中で別の意志が勝手に喋ろうとしたのだ。どうやら相当取り込まれているようで、このままでは完全に乗っ取られるのも時間の問題だろう。どうすればいい!?僕はとにかく無心で考えようとした。どうする、どうする……耳の奥で声が囁く。


「……忘れたのか……お前が……私だ……私の血を、受け継ぐ者……だからこそ真の華族である私に……」


脳裏にちらつく議会の演壇、燃え盛る夜空、家族の葬儀……。だけども。


「いいや、私だ。私は誰でもなく私自身だ。あなたの息子でも無いし、あなたは私じゃない!」


青年の冷たい手が、私の肩からするりと滑り落ちた。彼は困惑したように首を傾げ、まるで自分の言葉が届いていないかのような表情で私を見つめた。


「どうなさいました? 華族様。お忘れですか。あなたは、この家の血を引く……」

「確かにそうです。ですが違う。私は、もう鈴木家ではない」


 私は青年に、左手を見せる。薬指に指輪がついていた。私は結婚しており、鈴木ではなく、野村雅なのだ。


「――指輪……そうか....鈴木の名はとっくに廃れたのか......」


 彼の言葉はそこで途切れ、その代わりに笑い声が受話器からしばらく流れ、不意にピタリと止んだ。静寂が訪れる。生活音もなにも聞こえない。青年の顔から、いつもの「空白」が消え、代わりに純粋な驚愕が浮かんでいた。彼は受話器を落とし、床に膝をつく。


「まさか……そんな……」


 彼の呟きは、空虚に広がり、やがて虚空へと溶け込んだ。私の体内で渦巻いていた「何か」の力が、急速に弱まっていくのを感じた。残されていた痕跡さえも、まるで最初からそこに存在しなかったかのように消えていった。私は、漸く呼吸ができるようになった。肩の重圧が消え、冷たかった指先が、再び体温を取り戻していく。


「……もう、いないんだ」


私は、静かに、しかしはっきりと告げた。


「ここは売りに出されました。この洋館、土地は、もう誰のものでもありません。私もこうして婿入りした。鈴木という一族は、もう過去のものとなったのです。そもそも華族なんかずっと前になくなってるのです」


 青年の瞳が、ゆっくりと私に向けられた。そこには、先ほどまであった「空白」でも、「飢餓感」でもない、虚無だけがあった。


「……ならば、私は……」


 彼は、まるで糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。学生服の裾が、埃っぽい床に広がる。瞬きと共に、塵へと変貌していった。玄関の真ん中、黒電話は静かに佇んでいる。もう、すすり泣きも、笑い声も、呼吸の音も聞こえない。ただ、そこに在るだけだ。


 きっとこれで心霊現象は解決されたんだろう。私は、ゆっくりと扉に手をかけた。外は、いつの間にか夕暮れ時になっていた。あの青年は、どこへ行ったのだろうか。そして、あの「空白」の瞳の奥に、一体何が隠されていたのだろうか。答えは、もうここにはない。ただ、あの黒電話が静かに、物語の続きを秘めているかのように、私の後ろ姿を見送っていた。

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