第6話 六村リク 前編
(もう、やめちまうか──学校)
その日の渋谷はいつにも増して人で溢れていた。夕方になってだいぶ冷え込んできた。北風が強くなり、イルミネーションに彩られた街路樹を揺らしている。
六村リクは道玄坂を登りながら大きなため息をつく。
『12月23日・午後1時、職員室に必ず来るように』
そんなメールを受信したのは昨日の昼ごろ。12月23日、つまり今日だ。
リクの冬休みはバイトの予定で塗りつぶされている。年末年始も関係なくシフトを組んだというのに、いきなりの呼び出しだ。
バイト先の店長には事情を話して、夕方シフトに変えてもらった。収入も下がるし、スタッフにも迷惑をかけることになる。ほんと、やってられない。
担任からは真面目に登校するか、留年するかの二択を迫られた。
理由は遅刻が多すぎるという事だ。
──仕方ない。校内屈指の遅刻常習犯、まともな登校日を数える方が早い。担任はいつも理由を訊くが、理由なんてない──起きる気になれないだけだ。
『学校に馴染めない理由でもあるのか?』
今日はけっこう深追いされた。それだけ留年の危機が真実味を帯びてきたのだろう。3学期だけでも真面目に登校する必要がありそうだ。
「めんどくせー」
無意識に呟いた声が大きかったのか、すれ違った3人組の女子高生たちが不思議そうな顔を向け、くすくすと笑いあっていた。
坂の上から強く冷たい風が吹き下ろす。風が強くなってきた。
リクは肩をすくめ、両手をポケットに突っ込む。昼間は汗ばむほど暖かったのに、夕方から一気に冷え込んできた。コートを着てくればよかった……。
また風が吹き下ろす。
今度の風は少し渦を巻いていた。大きな弧を描くように吹きつける風だ。
こんな風に吹かれると、リクは決まって昔を思い出す。
子供の頃──こんな強い風の日には、いつも“白い生き物”を探していた。
それは風の中に住む、小さな、とても小さな生き物だ。
最近は見なくなったけど、子供の頃にはほとんど毎日のように見かけたものだ。
◇ ◇ ◇
最初は、ただの紙切れか小さな蝶だと思っていた。
白いひらひらが、風に乗って舞っているだけだと。
だけどそれは意思を持つように、風の中をぐるぐるまわったり、地面をそろそろと動いたり、気まぐれのように空高く舞い上がったりする。
風の吹く日、とくに円を描くような風の日には、決まってそれは現れた。
リクはその“ひらひら”を見ているのが、不思議で、なにより楽しかった。
当時、両親は共働きだったから、リクは小学校から帰ると一目散に近所の公園に向かった。
そしてベンチに座り、飽きることなく宙に舞う“不思議な白いひらひら”を眺めていた。
もちろん友達と遊ぶこともあったが、みんなが帰ると、公園中を走りまわり、ひらひらを探した。
夕方、仕事帰りに迎えにくる母は「不思議な子ね」と首を傾げた。遊具で遊ぶわけでもなく、友達と駆けまわるでもなく、じっとベンチに座っているのだから無理もない。
「リク、お友達がいないの?」
「ううん。さっきまでアキくんとミクちゃんがいたよ」
「そう。いつもひとりでベンチにいるから、ママ、心配よ」
──ママのお迎えがいちばん遅いからだよ。
そう言おうとして、リクは慌てて言葉を飲み込んだ。
「大丈夫だよ。僕ね、風が見えるんだよ」
「すごいじゃない。ママも見てみたいな」
そのひらひらがただの紙切れではなく“小さな生き物”だと気づいたのは、小2の夏のことだった。
ある夏休みの日の夕方、ひらひらはリクの膝の上にふわりと乗った。
白い体毛に覆われた小さな生き物は、クラスで飼っているリスのように見えた。2本足で立つと、愛くるしい顔でリクを見上げる。真っ白いふわふわの体毛が、夕日にきらきらと輝いて綺麗だった。
リクは顔を近づけて観察した。よく見るとリスにしては長細い体型だったし、とにかく身体が小さい。人差し指くらいのサイズしかない。小指の先で触ろうとすると、それは一瞬でどこかへ消えてしまった。
家にあった図鑑──当時は父親の方針でインターネットが禁止されていた。“普通の子はネットなど見ない”というのが理由だった──で調べると、ひらひらは“イタチ”か“オコジョ”という動物にいちばん似ていることがわかった。
翌日の夕方。今度は2匹の“小さな生き物”がリクの膝の上にやってきた。
双子のようにそっくりで、2匹は見分けがつかない。
2匹はまた器用に2本足で立ち、リクを見上げた。ときおり首をくるりと傾げたり、振り返ったりしたが、すぐに視線を戻し、リクの顔をじっと見つめていた。
──お腹、空いてるのかな……。
静かだった蝉たちが、いっせいに鳴き始めた。
遊具で遊んでいた子供たちは、父親や母親と一緒に帰っていく。
傾いた夏の太陽が、ブランコやベンチの影を長く地面に落としていた。
夕陽に照らされた“白い生き物”は、リクの膝から動かない。
今度は触らなかった。
きっと人に触られるのが嫌なんだとリクは思った。
リクは昨日のように2匹をじっくりと観察した。
大きさは10cmくらいだ。全身の毛はふわふわだが、それほど長くない。
後ろ足に比べて前足が短い(たまにこすり合わせる仕草が可愛い)。
なによりリクが驚いたのはその“白さ”だった。どこまでも深い白さで、目が離せなくなる。毛色そのものが光っているように見える。長い間見ていると目の奥がジクジクと痛んだ。
とつぜん大きなカラスが頭の上で鳴いた。
見上げると、2羽のカラスが西の空へと飛んでいく。
視線を戻すと“白い生き物”は消えていた。
カラスの声に驚いたのかもしれない。
膝の上が、かすかに暖かい。
それは小さくて不思議な生き物の、さらに小さな点のようなぬくもりだ。
現実から切り離されるように、蝉たちの声が少しずつ小さくなる。
夕食の支度だろうか、どこかの家から魚を焼く匂いがする。
誰かの自転車が乱暴にベルを鳴らす。
気がつくと、リクは泣いていた。
どうしてかはわからない。
でも涙が止まらなかった。
その小さなぬくもりが消えてしまうまで、リクは膝の上を見つめていた。
家に帰ったら絵に描こう、とリクは思った。
あの小さくて白い生き物を、いつまでも忘れないように。
その夜、リクは絵を描いた。
絵は得意ではなかったが、上手に描けたほうだと思った。
しかし父親に見せると叱られた。
『公園で見た生き物? こんなものがいるか。どうして普通の絵が描けないんだ』
そしてリクは、翌日から公園に行くことを父から禁じられた。
──あの夏の日以来、リクは“白い生き物”を見ていない。
◇◇◇
“普通にしなさい”は六村家の家訓だ。というよりは父親の呪いに近い。
遅刻が多すぎる──両親は何度も学校に呼び出され、そのたびに父親はヒステリックに怒鳴り散らした。
どうして普通にできないんだ──と。
昔から親になにかを相談しても、決まって返ってくる言葉は“普通”だった。普通はこうでしょ、普通ならこっちでしょ、普通の人は〜エトセトラエトセトラ。おかげで、何かあっても親に相談するという選択肢がなくなってしまった。
だから“小さくて白い生き物”のことは、いつしか誰にも話さなくなった。
普通ではないことだから。
進学した公立牧ノ原町高校は、六村家の家訓そのままに、“標準”と“普通”を絵に描いたような高校だった。
たいした特長のない高校だったが、学制服では有名だった。公立だが学生を集めるために、有名デザイナーによる学生服を採用した。
男女ともに白を基調とした制服で、とくに女子は、純白のセーラー服が一周まわって可愛いと評判らしい。
入学式では、校長が声高に演説をぶった。
尽力・奉仕・貢献。社会に貢献し、地域に奉仕し、世界平和に尽力できる人材の育成。
世界平和?
つまりそういうことだ。リクの遅刻は少しずつ増えた。
1年目はそれでも普通になるための努力をしたが、2年に上がるとどうでもよくなった。成績はみるみるうちに落ちた。
昔から好きな書店でバイトを始めた。そこには学校よりもまともな社会があった。売る側と買う側の立場があり、金銭のやり取りがあり、店員としての責任があった。
スタッフはみな年上で丁寧に仕事を教えてくれた。商品の発注、レジの締め方、掃除のやり方──なにより規律や個性を声高に主張する厄介者がいない。
リクにとってそこは心地の良い場所だった。あの公園のように。
緊張から解き放たれ、自由になった気持ちがした。
バイト先に遅れたことは一度もない。
世の中の普通からこぼれ落ち、中途半端に高校生を続ける──それが六村リクだ。
◇ ◇ ◇
リクは渦巻く風と出会うたびに思う。
今も彼らはこの風のどこかにいるのだろうか──。
今夜はそんな風が吹いている。
小さなぬくもりが溶け込んだような白い風が──。