第42話 分け身の王女の壁になる〜8
遠くで誰かの声が聞こえる。何かを必死に叫んでいるようだが、その声はあまりに小さくて、ほとんど聞きとることができない。
まあ、いいか……と、リクは思う。
それより、今はこの女の息の根を止めなくてはならない。容赦のない圧倒的な暴力によって、一刻も早く、この世界から消す必要がある。
リクは雫石の首を持ち上げ、締め上げる。雫石の足が力なく宙に浮いた。
『殺せ』
声が聞こえる。それは自分自身の声だ。
(ああ、分かっている)
リクはさらに力を込めた。細い首を掴んだ両手に血管が浮き出て、首の骨がミシミシと音を立てる。
身体が熱かった。腹の奥底から湧き出るような快感に、リクは酔いしれる。他者の生命を断つことが、これほど気持ち良いことだとは。
(ああ、早く早く……)
恍惚の笑みを浮かべながら、リクは空を仰ぐ。
まるで身体中の神経が剥き出しになったようだった。目を閉じれば、透視図を見るように雫石の体内が見えた。骨の形、血管や内臓の位置が手にとるように分かる。降りしきる雨に目をやれば、雨粒さえ止まったように見えた。風に含まれるあらゆる匂いも、一瞬で嗅ぎ分けることができる。
(もうすぐだ。もうすぐなんだ……)
そのとき、何かが身体に触れた。
リクは、それが人の感触だとすぐに分かる。誰かが背中に額を当て、抱きしめるように優しく手をまわす。
「もういい。リク、もうやめて」
囁くような優しい声が言った。
(誰だ? 何をやめる?)
「殺さなくていい。私はもう大丈夫だから」
声はそう告げる。しかし、リクには理解ができない。
「誰だか知らないけど、邪魔をしないでくれ。今ちょっといいとこなんだ」
リクはそう言って、鬱血した雫石の顔に目をやる。瞳は充血し、腕は力無くぶら下がっているだけだった。
「あと少しだから」
無表情で言ったリクの頬を、栄生が思いきり叩いた。
「リク! 戻ってきて! やめなさい!」
栄生はそう叫んで、もう一度、リクの頬を打つ。
「痛い……お前、なぜ叩く……」
(やっぱり意識がないんだ。止めなくちゃ)
栄生は何度も平手打ちを見舞う。
(このまま自我を失ったリクに殺させるわけにはいかない。それは私の役目だ)
「さ、栄生……?」
ふいにリクが呟いた。
「リク!」
栄生はさらにもう一度、頬を叩く。
「痛って〜〜〜っ! ちょっと、な、なんで俺にビンタする?」
「だってやめないんだもん!」
栄生はほとんど泣きながら言い返した。
リクが手を緩めると、雫石はそのまま崩れ落ちて、苦しそうに咳き込んだ。首にはリクの指の跡がくっきりと浮かんでいた。
栄生はうろ覚えの知識を思い出す。自我の喪失と暴力衝動。契約間もない壁役が陥りやすい暴走状態で、主の命令に従わず、ほとんど制御不能になる……とかなんとか。
「俺、いったい何をしてたんだ……」
記憶がないことにリクは気がつく。柔らかい肌の感触だけが生々しく手に残っていた。目の前のローブ姿の女は、激しく咳き込んで、今にも死んでしまいそうだ。
(俺がやったの……か?)
「あとでちゃんと説明する。私が必ず戻すから」
「戻す?」
「うん。方法があるかどうか、分からないけど」
「方法……」
「ごめん、今はあいつらを追う。みんなを助けたい」
「あいつら……」
リクの記憶が少しずつ色を取り戻していく。
(そうだ、いきなり現れたローブ姿の集団。たしか男に話しかけられて……)
「お願い、リク。力を貸して。蒔絵を助けなきゃ」
栄生の真剣な表情を見て、リクは無意識に反応する。
「よく分からないけど……なんだか分かった」
「ありがとう」
「それより、栄生。その顔、どうした?」
栄生の額からひと筋の血が流れた。見れば顔中傷だらけで、左の頬も腫れ上がっている。
「それもあとで説明するから!」
栄生は強引にリクの手をとると、すぐ先の人界へ走り出した。




