第2話 借りものの刃 前編
地上では、すでに北風が強かった。栄生は反射的に南に向かう。
追い風だ。風の力を倍加すれば最高速を出せる。風の挙動と密度を読み、巧みに風に乗り走れば、人には目に見えぬ一陣の風になる。
やり過ぎたかもしれない、と栄生は少し後悔するが、やってしまったことは仕方ない。死んではいないと思うけど……。
雑踏の中でも栄生には風の道が見える。人に見えず、人に触らず、走り抜ける道筋が見える。
意識を集中すれば、そこはカラフルな風の線が重なり合う色の世界だ。街を彩るクリスマスのイルミネーションと混ざり合い、それは息を呑むように綺麗だった。
「姫さま!」
唐突に声が聞こえた。
見れば、いつの間にか隣に伴走する初老の男──芝崎晶の姿があった。いや、晶だけではない。左側にはオレンジの髪の毛をツンツンに立てた少年──芝崎三太。そして栄生の少し前を走る芝崎蒔絵が見える。小さく幼い背中に、金髪のツインテールが揺れている。
「お姉ちゃん、蒔絵、先導する。遅れたらメッだよ」
蒔絵は振り返りながら栄生に言うと、赤い小さな舌を出して笑った。
黒のゴシック・ドレスには金銀の刺繍が施され、裾の白いレースが夜風になびいている。小さな身体に不釣り合いなほど豪奢なその服装は、夜の街にあってなお不思議と馴染んで見えた。
芝崎家は代々王室の近侍を務める家柄だ。
“東の森”を追放された栄生に付き従い、ついには護衛と称して、人界にまでついてきてしまった。現当主である晶は良いとしても、まさか孫まで連れてくるなんて……。
蒔絵の後を追う栄生に、晶が顔を寄せてくる。
「姫さま!! 私が、あれほど、あ・れ・ほ・ど、危ないお遊びはお止めくださいと──」
「晶、説教はあとで聞くから。あと、顔が近い」
栄生は晶の言葉を遮る。黒い上等なスーツで身を包み、ほとんど白髪だけになった髪を後ろにまとめた晶は、最上級ホテルの支配人のようにも見える。忠誠心が高く、生真面目なのはいいのだが、とにかく話が長い。
「とにかく逃げなきゃ。どうして居場所がバレたんだろ……私、狙われたんだよ」
「ここ数日、”北の森”の動きが活発になっているとの情報がございます」
晶が答える。
「北!? マジで? あいつらこっちにいるの?」
「姫さま、お下劣であります。そのようなお言葉使いは、嬰円家、ひいては我が一族の品位を著しく損なうものでございます。第3王女には相応しくございません」
晶は真面目な表情で言う。いや真面目というより、異様な目ヂカラで迫ってくる。栄生はたまらず吹き出してしまう。
「晶はお堅いね」
「堅い、柔らかいの話ではございません」
晶はキッパリと断言する。
「私はもう王族じゃないし、下劣も何もないでしょ?」
栄生は自分で言って……ちょっと虚しくなる。
横を走る三太も同調した。
「そうだよ、爺ちゃん。サコちゃんと王室はもう関係ねぇじゃん」
芝崎三太は栄生よりふたつ年下で、近侍というよりは幼なじみに近い。どこから手に入れたのか、ちゃっかりと学ランを着ている。
「サコちゃん、見て見て。俺も男子高校生だ」
三太は自慢げに笑う。
「意外と自然で気持ち悪い……」
「お姉ちゃん、JK、可愛い」
先導している芝崎蒔絵が振り返った。頬を赤らめ、照れくさそうに栄生を褒める──恥ずかしがり屋なのだ。
蒔絵は若干7歳にして栄生の近侍に抜擢された妖術の天才だ。言葉を丁寧に選ぶように話すので、会話に少し時間がかかる。
蒔絵は人混みをすり抜け、渋谷の車道を駆け抜ける。
タクシーの屋根を踏み台にして信号機へ飛び移ると、電線をロープ代わりにして反対車線に移動した。今年で齢70になる晶だが、遅れることなく言葉を続ける。
「いいですか、姫さま。私は父君がご幼少の頃よりお仕えして参りました」
(めんどい……晶の説教がはじまった)
「王族ではないなどと……斯様なお言葉、私は残念でなりません。放逐されたとはいえ、姫さまは我が東の森、正統な王位継承権を持つ第3王女でございますよ」
晶は諭すような口調で言って、小さな声で付け加える。「──まあ、3位ではございますけれど」
いつもひとこと多い。
「王位ねぇ……」
晶は栄生の顔ばかりにチラチラと視線を向け、ほとんど前を見ていない……。相変わらず顔が近い。
「たかだか、でございます!」
晶は一段と声を張り上げた。
「たかだか《人化の儀》に失敗しただけでございます。たしかに王国千年の歴史で、かような珍事は聞いたこともございません。姉上様は8歳のとき、妹君に至っては4歳で人化を発現されたとはいえ、それはそれ、姫さまは姫さまでございますぞ。ちなみに私は11のときに人化を終えましたが、たとえ17歳でご失敗されても──」
(なんか微妙に傷つく……もはやあんたを撒きたい)
栄生は蒔絵を追い抜き、渋滞で動かないクルマのルーフ伝いに移動する。栄生の速さは王族でも屈指のレベルだ。それでも芝崎家の面々は、栄生の動きをトレースして離れない。いや、よく見ると三太が少し遅れている。
とつぜん晶は豪快に笑いだした。栄生はその大きな声に呆れて溜息をついた。
「ご案じめさるな、姫さま」
(そんなに案じてないんだって)
「お背中の頭巾に潜むその“分け身” ──この晶が身命を賭して、必ずやお身体へ還元する方策を探し出してご覧にいれます」
晶は自信ありげに胸を叩いた。
(どういうこと?? 背中の頭巾?? )
「爺ちゃん、フードだよ、フード。頭巾じゃねーよ、フード」と三太が小声で訂正した。
聞いていて恥ずかしすぎる。しかし晶は構わずに続ける。
「分け身をお戻しできれば、父君も姫さまをお許しになり、改めて国民の前で第3王女のお披露目に臨むはずでございます」
少し本音と嫌味が混ざっているが、晶は至って真剣に栄生を励ましているのだ。長い付き合いだ。彼の気持ちは痛いほど伝わってくる。
追放の件でいちばん心を痛めているのは、きっと生まれた頃から寄り添ってくれた晶なんだと思う。
「お姉ちゃん、早く、壁役、見つけよ。また泣き虫になる」
蒔絵は先行する栄生に並ぶと、声をかけ、追い抜く。
(蒔絵まで壁役推し……って、え、ちょっと待って。泣き虫!? 見てたの?)
「あ、いい風みっけ」
蒔絵は頭上をかすめる風に飛び移る。蒔絵の選ぶ道は独特で楽しい。栄生が選ばないような激しい流れの風ばかりに乗る。それは変則的で、不安定に横滑りする風が多い。遊び心が旺盛な年頃なのだ。
「紫央さま、壁役いれば、許してくれるよ」
蒔絵は優しく微笑む。
もし分け身を戻し、壁役を見つけたら、父上は私を許してくれるのだろうか……。
蒔絵はトラックの荷台を蹴り、くるくると前宙を繰り返しながら、歩道橋を飛び越える。
──その時だ。
とつぜん蒔絵は半回転して「お姉ちゃんっ、後ろっ!! ビルの上になんかいる!!」
蒔絵が叫んで指をさす。
栄生は瞬時に振り返る。
余計なことを考えて油断した。
蒔絵が指差した方向──雑居ビルの屋上に小さな人影がふたつ見えた。また狙撃……いや、違う──人影の周囲が青白く光る。
鎌狩りの攻撃妖術!
私たちが見えている?
(あの光は《風雷撃》。人間が改良した劣化妖術とはいえ、こんな人混みでも放つなんて……)
栄生は後ろ向きに飛びながら、底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「そんなに私の骨が欲しいの?」
──今夜これで3回目だ。これが人界。これが鎌狩りなんだ。
栄生は街灯を足場に、人影に向かって一直線に跳び上がる。
(おもしろい……借りものの術で何ができる?)
◇◇◇
君嶋陽平は線のように細い目を見開いた。
4つの白い影が、渋滞した国道246号線を縦横無尽に飛びまわる。それは赤いテールライトの列を走り抜け、建物の壁を蹴り、信号機の上を跳ぶ。あのスピードは、人の目に映らないだろう。
だが、信じがたい速度で駆け巡るその姿を、陽平は見失わない。
人化している──陽平は白い影に人のカタチを見る。山梨隊長の情報どおり、彼らは第1種に分類される上位のかまいたちだ。ふだん相手にしている第2種や第3種とは、何もかが桁外れだった。
先頭で飛びまわるのは小さな女の子、付き従うのは高校生らしき少女と少年、それと年配の男だ。
作戦を実行に移すタイミングだ。狙いは、少し動きの遅い学ランの少年。先頭の女の子は速すぎる。
自分の妖術を打ち込み、こちらへ誘導する。あとは隣にいる咲さんがなんとかしてくれる……はずだ。
陽平は右手首を左手で掴み、短い詠唱をはじめる。
「対妖術・風雷……」
身体のまわりに光の粒子が輝き出す。
──その時だった。
女子高生がとつぜん反転し、陽平を見上げた。距離はだいぶあったが、その視線を陽平は感じることができた。
街灯のてっぺんを足場にして、ここへ突っ込んでくる。おそろしい速度だ。
(なんて速さだ……シミュレーターと違いすぎる)
藤代咲は、戸惑う陽平を見て苛立たしげに怒鳴った。
「陽平、お前が立てた作戦だろ。さっさとやんなさいよ!!」
咲は短く舌打ちをすると、ウエストバッグからナイフを抜く。
刃渡りの短い、ごく普通のナイフだが、その刀身には削り出した白い骨が使われている。不自然なほど白い刀身が、月明かりを受けて鈍く光った。
(ったく……こいつは理屈ばかりで度胸がない)
目黒区特殊害獣駆除課1係──通称・鎌狩り。
千年の歴史をもつ、かまいたち駆除の特殊機関だ。特に“山梨隊”と呼ばれるチームに所属するふたりは、第1種駆除に特化した精鋭中の精鋭だ。
第1種との戦闘は初めてだが、この日のために厳しい訓練は積み重ねてきたのだ。
「陽平、一瞬でいい、動きを止めろ」と咲は呟き、屋上の手すりに立つ。
咲の目はターゲットを捕捉する。地上から矢のような速さで向かってくる。さすがに第1種だ。目を凝らしてみても、その動きはブレて残像が見えるほどだった。
(人攫いの妖怪が女子高校生だと? 舐めやがって……こいつはここで仕留める)
思い出すだけで、悔しさに身が震える。
あいつらは目の前で妹を連れ去った。
しかもあの制服は……妹と同じ高校のものだ。
投擲には自信がある。気に入らないが“投げ姫”の二つ名は伊達じゃない。動きさえ止めることができれば、確実に息の根を止める。その確信が咲にはあった。
妹は必ず取り戻す。
「対妖術・風雷撃!!」
陽平が詠唱すると、高速回転する風の塊が青い稲妻を纏う。そしてそれは大きな閃光となり、一気に地表に向けて放出された。
強度も射出速度も完璧だ。
狙いはドンピシャ、カウンター直撃コース。
(そのスピードが命取りだ。止まれるはずがない)
◇ ◇ ◇
稲妻を纏った風の光弾が栄生に迫る。
強風をものともせず、空気を切り裂き、栄生を貫こうとする。青白く明滅しながら白い尾を引く光は彗星のようだ。
それでも栄生の目には止まったように映る。
栄生は眼前に迫った閃光を、軽く手の甲で振り払った。風の弾丸と化した稲妻は呆気なく弾かれ、夜空に飛散する。
(嘘だろ!? 片手で弾き飛ばした?)
でも、まだだ。
陽平は自分に言い聞かせる。
相手は第1種──想定内だ。
よもや追撃が来るとは思わないはずだ。咲の言うとおり、動きを止めればいい。それが自分の役目だ。
「対妖術・風散雷槍!!」
続けて放つ風雷撃は、凝縮した風雷の槍だ。一筋の強烈な光線となった槍が栄生を射る。
渋谷の夜空に青白いレーザービームが駆け抜けた。
「追撃の雷槍!? 上手く使えてるじゃん」
栄生は嬉しそうに呟く。
「大サービスだよ。私は3つしか使えないんだから」
その瞳には歓喜と狂気が入り混じる。
「妖術・曲風」
栄生が控えめに呟くと、ひととき空間が波打つ。
まるで雨粒が湖面に波紋を広げるように。
次の瞬間、風が吹き荒れ、光線の軌道が奇妙な形に歪んだ。
《曲風》はかまいたちの子供が最初に覚える初歩の妖術だ。しかし妖力だけが取り柄の栄生の曲風は、途方もない威力を持っている。
栄生は身体を反らし、射線のズレた光の槍をかわす。光線は向かいの雑居ビルに命中して、鉄筋を剥き出しにした。
「空間が歪んだ……なんて妖力だ」
陽平の背中に悪寒が走る。冷静に分析を試みるが、呆気なくその答えは導き出される。
(だめだ……勝てない。力の差がありすぎる)
それでも──ここまで来たら止められない。“投げ姫”に賭けるしかない。仕掛けたのは自分たちだ。外れれば全滅だ。
「咲さん!! 今だ」
陽平が叫ぶ。
「うるさいっ。私に指図するな」
手すりの上に立った咲が、すかさずナイフを投擲する。
モーションの小さい、基本に忠実なスローイング──しかし、速い。目に自信のある陽平でも、その一瞬を視界に捉えることができない。
派手な妖術の二連撃はあくまで揺動だ。本命の三手は、咲の骨刀ナイフによる投擲。いかに第1種とはいえ、このコントラストに対応できるはずがない。
(終わりだ、かまいたち)
ナイフは風向きなど関係ないとばかりに突き進む。
しかし栄生はその攻撃を読み切る。
(鎌狩りってこんなに遅いんだ)
白く光る小刀が見える。それは街の光を受けて鈍く光る。
かまいたちの骨から削り出された刀身。
迷いのない一投。
それは殺意の塊だ。
栄生の鼓動が大きな音を立てる。
避けるのは簡単だ。
ただ……避ければ下にいる人間に当たる。
栄生は分からない。
鎌狩りは同族を傷つけてでも、私を骨にしたいのだろうか、と。
(ああ、もう仕方ない……これ、疲れるんだよなぁ)
栄生は目を瞑り、高速で向かってくるナイフに意識を集中した。
脳裏に、それが辿るはずの軌跡が白い筋となって見える。
栄生は感心した。脳天に突き刺さる軌道だ。
「ていっ」
栄生は命中寸前で体を翻し、空中でナイフの柄を掴み取る。
吐き気がした。
鎌狩りに殺された“誰かの骨”がいま手の中にある。
それはずしりと重く、呪いの匂いがした。
◇◇◇
「こんばんは」
栄生は屋上に降り立つと、後ろ手を組んでにっこりと微笑む。
(“人界の手引き”によれば……挨拶はとても重要と書いてあったし)
目の前には、灰色の作業着に身を包んだふたりの鎌狩りが身構えている。
ひとりは頭を短く刈り込んだ少年、もうひとりは長い紫色の髪をひとつに束ねた女だ。
ふたりとも表情は硬く、困惑と殺意が入り乱れている。
屋上に設置されたLED看板がときおり緑色に点滅して、ふたりを照らし出す。
風はなおも強く、栄生の銀髪を荒々しく乱しては、その小さな顔を覆い隠した。
咲と陽平は言葉を探す。
銀髪にショートボブ、白い制服に紺のパーカー、少し小柄な、どこにでもいそうな女子高生に見える。
陽平は彼女の制服に見覚えがあった。たしか東京にある公立高校の制服だ。一時期デザインが人気で話題になった記憶がある。
深く人間界に入り込んでいるのだろうか……。
今まで対峙してきたかまいたちとはまるで違う。それは佇まいでわかる。自分たちを前にして臆することがない。怯むどころか余裕を感じさせる眼差し。そして、例えようのない“圧”……。
「かまいたち……」
咲が絞り出すように呟いた。
寒空の中、額に汗が滲む。
咲は震える拳を握りしめる。爪で皮膚に食い込み、血が滴る。
一投一殺、会心の投擲をいとも簡単に宙で掴まれた。
(こんばんは、だと。こいつは絶対に仕留める)
「初めて話す人間が君たちって、なんだか縁起が悪いよね」
栄生はふたりを真っ直ぐに見て微笑みかける。
右手には咲のナイフが握られていた。
「てめぇ、舐めてんのか」
咲の声が低く震えた。
「舐めてませんよ」
栄生は笑顔を崩さない。
「なんで怒ってるんです? 挨拶もしたのにな……」
「その余裕だよ。うちらを下に見てるそのツラ。妖怪崩れが人に化けやがって」
咲は追い立てられるように声を荒げる。
風で乱れ舞う銀髪の合間から、ときおり端正な顔立ちが見える。
咲はさらに苛立つ。
人を欺くための容姿。
人を攫うために形づくられた顔立ちだ。
「そのデキた顔で男をたぶらかすのか。存外、単純だな、かまいたち」
「やめなよ、咲さん。悪い癖だよ、そういうの」
陽平がなだめるように遮った。
「うるさいっ」
やはり力の差がありすぎる──陽平は奥歯を噛み締めた。
風雷撃を片手であしらわれた時点で勝敗は決していたのかもしれない。このかまいたちは強すぎる。
かまいたちは、彼らの骨でしか殺せない。だから僕たちは彼らの骨を武器にする。
骨による物理攻撃の援護──対妖術はあくまでその伏線でしかない。
しかし、このかまいたちに揺動は通じなかった。援護の失敗はすなわち物理攻撃の失敗と同義だ。
咲は、栄生を睨みつけながら、後ろ手に隠したナイフを握りしめる。
(手持ちのナイフはこれで終わりだ。でもこの距離なら外さない)
「妖怪崩れって……」
栄生はため息をつく。
「けっこうひどいことを言うね。傷つく」
「人の言葉を話すとは、いよいよ気味が悪いな」
咲は鼻で笑った。「人に仇なすクズ妖怪が」
栄生は意に介さず、静かに問い返す。
「その妖怪の力を使って、私たちの骨を武器にして、君たちはずっと殺し続ける」
栄生の表情から笑みが消えていた。
右手に持つナイフを見つめる。
加工され、武器にされた白い骨は、死の象徴だ。そしてこれは誰かの骨なのだ。
栄生は自分が踏みつけられたような気持ちになる。
「話にならないな」
咲は肩をすくめて吐き捨てた。
栄生は一瞬だけ目を伏せ、ふたたび静かな視線を咲に向けた。
「なまじ知能があるだけ滑稽に見えるぞ、人攫い」
電光看板の色が赤に変わる。古い給水塔、錆びた手すり、ひび割れたコンクリート、すベてが赤く染まり点滅する。
一瞬、栄生の顔が血に染まったように見えて、咲は身震いする。男が湧いて群がりそうな顔立ちが、能面のように冷たく──恐ろしい。
空気が張りつめる。
ナイフを握る咲の手がわずかに震える。
栄生が一歩前に歩み出た。
咲の鼓動が波のように耳を打つ。全身の毛が逆立ち、吐く息が白く震える。
咲はその一瞬にすべてを賭けた。
「借りものの刃では、きっと何も守れないよ」
──いまだ。
風の音が消え、時間が止まる。
咲は息を殺し、心を殺し、ナイフを放った。
その眉間に狙いを定めて。




