第2話 借りものの刃 前編
君嶋陽平は線のように細い目を見開く。
4つの白い影が、渋滞した国道246号線を縦横無尽に飛びまわる。それは赤いテールライトの列を走り抜け、建物の壁を蹴り、信号機の上を跳ぶ。あのスピードは、人の目には映らないだろう。
だが、陽平は見失わない。
人化している──陽平は白い影に人のカタチを見る。間違いない、彼らは第1種に分類される上位のかまいたちだ。ふだん相手にしている第2種や第3種とは、何もかが桁外れだ。
【当該ビル屋上にて待機。逃亡する第1種かまいたちを駆除せよ】──隊長の読みどおりだった。
先頭で飛びまわっているのは小さな女の子だった。付き従うのは制服を着た高校生らしき少女と少年、それと年配の男だ。
作戦を実行に移すタイミングだった。狙いは動きの遅い学ランの少年だ。先頭の女の子は速すぎる。
陽平の妖術を背後から打ち込み、こちらへ誘導する。あとは隣にいる咲さんがなんとかしてくれる……はずだ。
陽平は右手首を左手で掴み、短い詠唱をはじめる。
「対妖術・風雷……」
身体のまわりに光の粒子が輝き出す。
──その時だった。
女子高生がとつぜん反転し、陽平を見上げた。距離はだいぶあったが、その視線を陽平は肌で感じることができた。肌が泡立つ。
街灯を足場にして、ここへ突っ込んでくる。おそろしい速度だ。
(なんて速さだ……シミュレーターと違いすぎる)
藤代咲は、戸惑う陽平を見て苛立たしげに怒鳴った。
「陽平、お前が立てた作戦だろ。さっさとやんなさいよ!!」
咲は短く舌打ちをすると、ウエストバッグからナイフを抜く。
刃渡りの短い、ごく普通のナイフだが、その刀身には削り出した白い骨が使われている。不自然なほど白い刀身が、月明かりを受けて鈍く光った。
(ったく……こいつは理屈ばかりで度胸がない)
目黒区特殊害獣駆除課1係──通称・鎌狩り。
千年の歴史をもつ、かまいたち駆除の特殊機関だ。特に“山梨隊”と呼ばれるチームに所属するふたりは、第1種駆除に特化した精鋭中の精鋭だ。
第1種との戦闘は初めてだが、この日のために厳しい訓練は積み重ねてきたのだ。
「陽平、一瞬でいい、動きを止めろ」と咲は言い捨てると、屋上の手すりに立つ。
咲の目はターゲットを捕捉する。地上から矢のような速さで向かってくる。さすがに第1種だ。目を凝らしてみても、その動きはブレて残像すら見える。
(人攫いの妖怪が女子高校生だと? 舐めやがって……こいつはここで仕留める)
──思い出すだけで、悔しさに身が震える。
あいつらは目の前で妹を連れ去った。
しかもあの制服は……妹と同じ高校のものだ。
投擲には自信がある。気に入らないが“投げ姫”の二つ名は伊達じゃない。動きさえ止めることができれば、確実に息の根を止める。その確信が咲にはあった。
──妹は必ず取り戻す。
「対妖術・風雷撃!!」
陽平が詠唱すると、高速回転する風の塊が青い稲妻を纏う。そしてそれは大きな閃光となり、一気に放出される。
強度も射出速度も完璧だ。
狙いはドンピシャ、カウンター直撃コース。
(そのスピードが命取りだ。止まれるはずがない)
◇ ◇ ◇
稲妻を纏った風の光弾が栄生に迫る。
強風をものともせず、空気を切り裂き、栄生を貫こうとする。
青白く明滅しながら白い尾を引くそれは彗星のようだ。
それでも栄生の目には止まったように映る。
「おっっそい」
栄生は眼前に迫った閃光を、軽く手の甲で振り払う。
風の弾丸と化した稲妻は呆気なく弾かれ、夜空に散る。
(嘘だろ!? 片手で弾き飛ばした?)
でも、まだだ。陽平は自分に言い聞かせる。
相手は第1種──想定内だ。
よもや追撃が来るとは思わないはずだ。
咲の言うとおり、動きを止めればいい。それが自分の役目だ。
「対妖術・風散雷槍!!」
続けて放つ風雷撃は、凝縮した風雷の槍だ。
一筋の強烈な光線となって栄生を射る。
渋谷の夜空に青白いレーザービームが駆け抜けた。
「追撃の雷槍!? “借りもの”なのに使えてるじゃん」
栄生は嬉しそうに呟く。
「大サービスだよ。私は3つしか使えないんだから」
その瞳には歓喜と狂気が入り混じる。
「妖術・曲風」
栄生が控えめに呟くと、ひととき空間が波打つ。
まるで雨粒が湖面に波紋を広げるように。
次の瞬間、風が吹き荒れ、光線の軌道が奇妙な形に歪んだ。
“曲風”は、かまいたちの子供が最初に覚える初歩の妖術だ。
しかし妖力だけは強い栄生のそれは、途方もない威力を持っている。
栄生は身体を反らし、なんなく光の槍をかわす。光線は向かいの雑居ビルに命中して、鉄筋を剥き出しにした。
「空間が歪んだ……なんて妖力だ」
陽平の背中に悪寒が走る。冷静に分析を試みるが、呆気なくその答えは導き出される。
(だめだ……勝てない。力の差がありすぎる)
それでも──ここまで来たらこっちも止められない。“投げ姫”に賭けるしかない。仕掛けたのは自分たちだ。外れれば全滅だ。
「咲さん!! 今だ」
陽平が叫ぶ。
「うるさいっ。私に指図するな」
手すりの上に立った咲が、すかさずナイフを投擲する。
モーションのない基本に忠実なスローイング──しかし、速い。目に自信のある陽平でも、その一瞬を視界に捉えることができない。
派手な妖術の二連撃はあくまで揺動だ。本命の三手は、咲の骨刀ナイフによる投擲。いかに1種とはいえ、このコントラストに対応できるはずがない。
(終わりだ、かまいたち)
ナイフは風向きなど関係ないとばかりに突き進む。
しかし栄生はその攻撃を読み切る。
理屈ではない。すべてが見えてしまう。
(鎌狩りってこんなに遅いんだ)
白い小刀が飛んでくる。かまいたちの骨から削り出された刀身は、街の光を受けて鈍く光る。
迷いのない一投。まるで殺意の塊だ。
栄生の鼓動が大きな音を立てる。
避けるのは簡単だ。
ただ……避ければ下にいる人間に当たる。
栄生は分からない──同族を犠牲にしてまで、私たちを骨にしたいのだろうか。
(ああ、もう仕方ない……これ、疲れるんだよなぁ)
栄生は目を瞑り、高速で向かってくるナイフに意識を集中した。
脳裏にはそれが辿るはずの軌跡が白い筋となって見える。
栄生は感心した。脳天に突き刺さる軌道だ。
「ていっ」
栄生は命中寸前で体を翻し、空中でナイフの柄を掴み取る。
白い刀身が妖しく光る──鎌狩りに殺された“誰かの骨”が手の中にある。
それはずしりと重く、呪いの匂いがした。
◇◇◇
「こんばんは」
栄生は屋上に降り立つと、後ろ手を組んでにっこりと微笑む。
(“人界の手引き”によれば……挨拶は重要って書いてあったし)
目の前には、灰色の作業着に身を包んだふたりの鎌狩りが身構えている。
ひとりは頭を短く刈り込んだ少年、もうひとりは長い紫色の髪をひとつに束ねた少女だ。
その表情は硬く、困惑と殺意が入り乱れている。
屋上に設置されたLED看板がときおり緑色に点滅して、ふたりを照らし出した。
依然として風は強く、風下に立つ栄生の髪を掻き乱し、小さな顔を隠す。
陽平は制服に見覚えがあった。たしか東京にある公立高校の制服だ。一時期デザインが人気で話題になった記憶がある。
銀髪にショートボブ、身長は160cmくらいで小柄だ。白いセーラー服の上にベージュのパーカー。リュックを背負い、首にヘッドフォンをかけている。ごく普通の女子高生にしか見えない。深く人間界に入り込んでいるのだろうか……。
今まで対峙してきたかまいたちとはまるで違う。それは佇まいでわかる。自分たちを前にして臆することがない。怯むどころか余裕を感じさせる眼差し。そして、例えようのない“圧”……。
「かまいたち……」
咲が絞り出すように呟く。
寒空の中、額に汗が滲む。
咲は拳を握りしめる。爪で皮膚に食い込み、血が滴る。
一投一殺、会心の投擲をいとも簡単に宙で掴まれた。
(こんばんは、だと。屈辱だ。こいつは絶対に許さない)
「初めて話す人間が君たちって、なんだか縁起が悪いよね」
栄生はふたりを真っ直ぐに見据えて微笑みかける。
右手には掴んだナイフが握られている。
「てめぇ、舐めてんのか」
咲の声が低く震えた。
栄生は笑顔を崩さない。
「怒ってる? 挨拶もしたのにな……どうしてあなたが怒るの?」
「その余裕だよ。うちらを下に見てるそのツラ。妖怪崩れが人に化けやがって」
咲は追い立てられるように声を荒げる。
風で乱れ舞う銀髪の合間から、ときおり端正な顔立ちが見える。
咲はさらに苛立つ。
人を欺くための容姿。
人を攫うために形づくられた顔立ちだ。
「その顔で男でもたぶらかすのか。存外、単純な手だな、かまいたち」
「やめなよ、咲さん。悪い癖だよ、そういうの」
陽平が呟くように遮った。
「うるさいっ」
やはり力の差がありすぎる──陽平は奥歯を噛み締めた。
風雷撃を片手であしらわれた時点で勝敗は決していたのかもしれない。このかまいたちは強すぎる。
かまいたちは、彼らの骨でしか殺せない。鎌狩りは彼らの骨を削って武器にする。骨による物理攻撃の援護──対妖術はあくまでその伏線でしかない。
このかまいたちに揺動は通じなかった。援護の失敗はすなわち物理攻撃の失敗と同義だ。
咲は栄生を睨みつけながら、後ろ手でナイフを握りしめる。
(手持ちのナイフはこれで終わりだ。でもこの距離なら外さない)
「妖怪崩れって……」
栄生はため息をつく。
「けっこうひどいことを言うね。傷ついちゃうな」
「言葉を話すとはいよいよ気味が悪いな」
咲は鼻で笑った。
「人に仇なすクズ妖怪が」
栄生は意に介さず、静かに問い返す。
「その妖怪の力を使って、私たちの骨を武器にして、君たちは殺し続ける」
栄生の表情からは笑みが消えていた。
右手に持つナイフの刀身を見つめる。加工され、武器にされた白い骨は、死の象徴だ。栄生は自分が踏みつけられたような気持ちになった。
「話にならないな」
咲は吐き捨てるように言った。
栄生は一瞬だけ目を伏せ、ふたたび静かな視線を咲に向けた。
「なまじ知能があるだけ滑稽に見えるぞ、人攫い」
電光看板の色が赤に変わる。
古い給水塔、錆びた手すり、ひび割れたコンクリート、すベてが赤く染まり点滅する。
一瞬、栄生の顔が血に染まったように見えて、咲は身震いする。
男が湧いて群がりそうな顔立ちが、能面のように冷たく──恐ろしい。
空気が張りつめる。
ナイフを握る咲の手がわずかに震える。
栄生が一歩前に歩み出る。
咲の鼓動が波のように耳を打つ。
全身の毛が逆立つ。吐く息が白く震える。
咲はその一瞬にすべてを賭けた。
「借りものの刃では、きっと何も守れないよ」
──いまだ。
風の音が消え、時間が止まる。
咲は息を殺し、心を殺し、ナイフを放つ。
その眉間に狙いを定めて。