第35話 分け身の王女の壁になる〜1
竜巻から現れた巨大なかまいたちは、前脚を伸ばした前傾姿勢をとり、凶々しい形相でふたりを睨みつける。
吊り上がったふたつの目は燃えるように赤く、裂けた口からのぞく白い牙からは唾液が滴っている。不気味な唸り声は地の底から響いてくるようだった。
(大きい……)
栄生はなによりその巨躯に愕然とした。自分の“分け身”を最大化しても、せいぜい虎ほどの大きさしかない。しかし、先ほどまで『ラン』と呼ばれていた少年は、いまやその10倍程度の巨大なかまいたちに変化していた。
(目を逸らしたら殺される)
栄生は直感的に悟った。
戦闘経験なんてほとんどない。むしろ、人界に来たこの2日間で一生分の戦闘をした気がする。もともと妖術なんてほとんど使えないから、王国での戦闘訓練もサボりまくっていた。それでも栄生には分かる。
一瞬でも目を逸らしたら殺される。
雨足がさらに強くなった。雨は森の葉を叩き、参道の砂利を濡らし、栄生の視界を滲ませた。ザァァという雨音が、どこか遠い世界から聞こえてくるようだ。
とつぜん、雨煙を纏うランの周囲に無数の稲妻が走った。ランは地面すれすれまで顔を下げ、激しい咆哮をふたりに向ける。
「キシャアアアーー!」
耳をつんざく高周波の鳴き声は、それだけで強力な風圧をつくり出し、ふたりは吹き飛ばした。
「うわぁぁーー」
リクの悲鳴が聞こえた。栄生は咄嗟に逆風を展開させるが間に合わない。リクは正面からまともに風圧を受け、空高く弾き飛ばされた。
雨雲に吸い込まれるように、リクの背中が小さくなっていく。彼は生身の人間だ。風を操ることも、風に乗ることもできない。
「リク!」
まずい、あの高さから落ちたら確実に死ぬ──そう栄生が思った瞬間だった。
落下するリクの身体を微かな風が包み込んだ。風はリクの身体を支えるように落下の速度を和らげ、静かにその身を着地させた。
(今のは……)
栄生はリクに駆け寄ると、心配そうに声をかける。
「リク、大丈夫?」
「な、なんだよ、あれ……怖ぇぇ」
リクが涙目で訴える。見たところ、リクはほとんど無傷のようだ。
「痛いとこは? 怪我はない?」
リクは立ち上がると、怪我を確認するように身体を動かす。
「おかしいな……どこも痛くない……俺、かなり高いとこから落ちたよな。なんで無事なんだ?」
リクは自身の無事を確かめると、不思議そうに首を傾げた。
「風を……どうして、リクが風を呼べるの?」
「ん? 風を呼ぶ? 何を言って──」
そう言いかけたとき、ふたりは地鳴りのような音を聞く。振り返ると、ランが長い尾を揺らしながら突進してくる。
「ウソでしょ! 速いっ!」
巨体を感じさせない俊足に栄生は目を見開く。ランは一瞬で距離を詰めると、二本足で立ち上がり、栄生めがけて長い尾を振り下ろした。尾の速さが残像となって軌道を隠す。
(左からの振り下ろし……違う、右!)
栄生は直撃寸前で身体を反らし、打ちつける尾をかわす。金属が地を叩くようなガシャンという音が聞こえた。いつの間にか、尾の先が鎌に変化していたのだ。鎌の打ちつけた跡が大きく窪んでいる。
(咆哮ひとつ、尾の振り下げひとつでこの威力。おまけにこの速度……)
口の中がカラカラに乾いた。
「リク、私の後ろに。必ず人界に帰すから」
栄生はリクに言う。しかし、良策があるわけではなかった。
子供の妖術で太刀打ちできる相手ではない。敵は同族……というより『かまいたち』の“真体”であり“成体”なのだ。
考える暇もなく第2波の咆哮が来る。栄生はありったけの風を集めて咆哮の風圧にぶつけた。風がゴオオォォという音を立てて飛散する。が、ランは続けて次のモーションに入る。
「相殺するのがやっと……って、踏みつけ? もう、めちゃくちゃ!」
ランは倒れ込むように前脚で栄生を踏みつけようとする。脚の動きも鋭く速い。栄生は紙一重で脚を避けるが、今度は衝撃波に吹き飛ばされる。
「栄生!」
飛ばされた栄生をリクが受け止めたが、衝撃波を殺すことができず、ふたりは抱き合ったような格好で濡れた砂利道を転がる。
「あ、ありがとう」
「ど、どういたしまして……」
ひととき、ふたりの間に気まずい空気が流れるが、ランの追撃が現実を引き戻す──第3波の咆哮。
「リク、ごめんね!」
栄生は言うと、思いきりリクの背中を蹴飛ばした。
「ええーっ!」
リクは悲鳴と共に、勢いよく森の中へ飛んでいった。
栄生は再びランの風圧を相殺すると、続けざまに風の刀を飛ばす。が、なんなくランの片脚で弾かれてしまう。と同時に尾の先が頭上から振り下ろされる。
濡れた浴衣が重い。避けきれない。
「妖術・曲風!」
栄生は唯一の回避術を発動する。刹那、空間が歪む。振り下ろされた尾は、栄生を避けるように地を叩く。初歩の妖術だが、栄生の妖力を乗せた曲風は、地表に降り注ぐ雨の軌道すらぐにゃりと曲げる。
その隙に、栄生はバックステップでランとの距離をとった。リクがいないなら、後ろを気にすることはない。
(それにしても、目の前のこれはなに?)
かまいたちは等しく人へと転身する──そう教えられてきた。
“人化転身”はかまいたち一族に埋め込まれた時限式の妖術だ。生まれ落ちた瞬間、転身術は母親から子供へ自動的に施される。変化ではなく転身と云われるのは、それが不可逆の変化であるからだ。
転身を遂げたかまいたちは、二度と元の姿へ戻ることはできない。それは、誰も疑うことのない“一族の不文律”であり、決定づけられた片道切符の呪いのようなものだ。
けれど、いま目の前にいるのは間違いなく不可逆の理を捻じ曲げたモノだ。しかもただの“真体”ではなく“成体”なのだ。こんな妖術があるのだろうか。おまけに──このかまいたちには……おそらく意識がない。
「キシャアアアーー」
ランは咆哮圧を交えながら、鎌の尾を連続して打ちつける。栄生は避けるだけで手一杯だ。しかも、尾の回転は少しずつ鋭さを増してくる。
「痛っ!」
鎌の尾が栄生を捉えはじめる。浴衣の裾が切れる。手が、足が、頬が切れる。攻撃しようにも栄生にはこれ以上の手札がない。
距離をとれば咆哮圧、近づけば脚と尾の物理攻撃──強い。
いや、姉なら、蒔絵なら、余裕で勝てる相手かもしれない。
(相変わらずだ。私はここでも何もできない……)
勝ち筋が見えない。このまま切り裂かれるのは時間の問題だった。




