第26話 帝の御業
ランは三太の脇をすり抜ける。
三太と視線も合わさず、決死の形相で顎を上げ、空へ舞い上がった。
「おいおい……あいつ、飛べるのかよ」
小さくなるランの背中を見つめながら、三太はひとり呟く。
血滴・朱の輪は、触れた者の心臓を過活性して体内から破壊する結界妖術だ。
まさか腕を犠牲にして血流の出口にするとは予想外だった。突破された以上、三太に次の手はない。しかしそれでも三太は焦らなかった。
ランはかなりの血滴に触れた。過活性された心臓は高速で血を送り続ける。いづれ血液が足りなくなるはずだった。
(そうまでして、あのピンク頭を、ねぇ……)
三太は首を振ると、背後で戦っていた蒔絵の元へ駆け出した。
周囲に充満した異様な妖圧は、おそらく蒔絵の妖術に違いなかった。
──芝崎家の天才。
三太の知る限り、蒔絵は妖術の教育をほとんど受けていない。幼少の頃から、一度見た術式をすぐに覚え、使いこなすことができた。7歳で兄・三太を追い越し、東の森に伝わるほとんどの妖術を習得した。
『天賦の才に理屈はない。生まれついての“持つ者”──三太、こればかりは仕方ないんだ。お前が萎縮することはない』
落ち込む三太に晶はそう言った。
蒔絵の妖術は王族級の強度があり、模擬戦の中でも効率よくそれを展開することができた。運動神経も桁外れで、体術と妖術を組み合わせた妖体術も自然と身につけた。王族仕様の高位妖術を展開して、王室から不敬罪に問われたこともある。
だから三太に不安はない。あるとすれば、それは底の知れない妖術の幅広さだけだ。蒔絵の使う妖術は、常識の枠を越えて多様だ。三太でさえ、その全容を掴みきれない。
「あいつ、何をしたんだ……」
三太は立ち止まって目を見張った。
路地の突き当たり、神社の前は少し開けた場所であった。しかしそれは今、数倍の広さになり、アスファルトの地面は砂地に覆われた蟻地獄と化していた。
三太は気配を感じて空を見上げる。
銀色の光を纏った巨大な蜻蛉が、透明な4枚羽を広げ、ゆっくりと雲の中へ消えていく。
「召喚妖術?……あのバカ、帝の御業を使ったのか」
◇
ランはできる限り上昇する。
一刻も早くモカの元に駆けつけたいが、空から降り注ぐこの妖圧は異常だ。頭上に何がいるのか、まずは確かめる必要があった。
千切れた腕の傷から、血が止まらない。
妖力を止血に使いたいが、その途端、おそらく心臓が破裂するだろう。とはいえ止血しなければ血が足りなくなる。
(厄介な術だ……)
ランは出血量を制御しながら妖力で止血を試みた。これが思いのほか神経を使う。血を流し過ぎないよう調節するには、繊細な妖力配分が必要だった。
飛翔術の欠点は妖力を著しく消費することだ。止血をしながら、長く飛ぶことはできそうにない。ランは雑居ビルの屋上に降り立った。
一瞬だけ太陽の光が差し込み、眼が眩む。そしてランは信じられないものを見る。
「なんだ、あれは……蜻蛉……?」
灰色の雲間から巨大な蜻蛉が見える。それは蜻蛉というより四枚羽を持つ龍のようにも見えた。雲の下に張りついた楕円の妖術方陣は、金色に輝き、見たこともない文字の術式が組み込まれていた。
ランは呆気にとられ、空を見つめたまま動けなくなる。
「未知の術式、金色の妖術方陣、召喚生物……まさか開皇帝が残した妖術か!」
銀色の光に包まれた蜻蛉は、その巨体を優雅にくねらせると、ランを嘲笑うかのように雲の隙間へ消えていった。
「ランちゃん、怖いよ!!」
風に乗って届いたモカの声に、ランは我に返る。
そうだ、時間がない。
ランは手すりの上に立ち、一瞬で眼下の状況を分析する。
数倍に拡張された空間。逆円錐形の砂の穴──空間も物質も全て召喚されている。
砂の中にピンク色の頭が見えた。モカだ。足掻きながら、すり鉢の流砂にみるみる飲み込まれていく。
(蟻地獄……いやアリジゴク。薄羽蜉蝣の幼虫だ。さっきのアレは蜻蛉ではなく薄羽蜻蛉だったんだ)
何かの本で読んだことがある。アリジゴクは穴の底で獲物を待ち構える。確か、落ちてきた獲物に消化液を注入して組織を分解……
そこまで考えて、ランは目を見開いた。どこを探しても幼虫がいない。すり鉢の底では、黒い穴がぽっかりと口を開けているだけだ。
全身に鳥肌が立つ。
ヤバい。あの黒い穴は危険だ。
「モカ!!」
ランは叫ぶと同時に手すりを蹴り、モカに向かって宙を飛んだ。
流砂からモカを持ち上げるしかない。左腕一本でもやるしかない。あの穴に落ちれば、おそらく存在そのものが分解される。
術式は読めないが、ランはそう直感した。
幼虫の代わりに“帝”が用意したのは存在分解の“闇”そのものなのだ。
「ランちゃん!」
モカの身体はほとんど砂に埋まり、今にも穴に飲み込まれそうだった。
「大丈夫だ。いま助ける!」
ランはすり鉢の中に飛び込むと、モカの頭上で静止する。宙に浮いているというのに、ランの身体は穴に引き込まれていく。穴は空間ごと丸飲みするつもりなのだ。
「モカ、手を伸ばして! 引っ張りあげる!」
すり鉢の淵に立つ蒔絵と目が合う。
金色の光に包まれた身体からは膨大な妖力が迸っていた。風に舞い乱れる長い髪、感情のない瞳、そして──ランは歯を食いしばり、蒔絵を睨みつけた。
(あの子……笑ってやがる!)
芝崎蒔絵。
東の森の天才少女の噂は、北の森にも届いている。まさかこれほどとは。しかし、なぜこんな化け物が、追放された王女の護衛などしているのか──
ランはモカの右腕を左手で掴む。が、穴の引力に抗うことができない。このままでは、ふたりとも穴の餌食だ。
ランは止血に使っていた妖力を飛翔術に全振りする。
「上がれ、上がれ、上がれ!」
ランは力の限りモカを引き抜こうとする。それでも穴は、無慈悲にふたりを引き寄せる。
『ランちゃん……』
寂しそうに笑うユンが、蒔絵の脇に立っている。
(消えろ! いまこんなものを見せるな!)
「ランちゃん!」
モカはほとんど悲鳴にも似た声で、もう一度、ランの名を叫んだ。




