第24話 妖帝術・薄羽蜉蝣、虚無の黒
痛みより、恐怖より、蒔絵はまず静止することに神経を集中させた。
目を瞑り、心拍を静める。身体から力を抜き、体力を温存させる。全身から血の気が引いていくのが分かった。血を流し過ぎている。残った全妖力を傷口に集めて止血しなければならない。
右腕の感覚がない。当たり前だ。それは呆気なく切断され、いまは敵の手中にある。
落ちつけ、落ちつけ、落ちつけ。
三振りの鎌に注意を削がれ、背中に忍ばされた鎌に気がつかなかった。
「実を言うとね、モカは蒔絵ちゃんには興味がないの……ごめんね。だって、モカは一目惚れしちゃったから。あの可愛いポンコツ姫に」
モカはしゃがみ込んで、うずくまる蒔絵の耳元で囁いた。
──ポンコツ姫?
抑えた心拍が速くなった。止血しかけた肩口から再び血が溢れ出す。血の気は引いていくのに、顔が熱くなり、耳が赤くなるのが分かる。
「さっさと中に入れてくれないかなー。ね、蒔絵ちゃん、モカ、一生のお願いだよ」
「いま……なんつった?」
蒔絵は目の前のアスファルトを見つめながら、震えた声を絞り出す。
「え? ナニ? 聞こえないよー」
モカは耳に手を当ててからかう。
「……お姉ちゃんをポンコツと言ったな」
蒔絵の血液が沸騰するように熱くなり、身体中を駆け巡る。
蒔絵はゆっくりと身体を起こした。憤怒の感情が、蒔絵の思考を逆回転させる。
──たかが右腕をもがれただけだ。
斬り落とされたなら左腕を使えばいい。右目を抉られたら左目を使えばいい。四肢が引き裂かれたなら噛みつけばいい。
私はかまいたちだ。
私は東の森の王、シオ様が三女・栄生様の近侍だ。
何を躊躇うことがある?
蒔絵の目に光が戻る。
風が空から吹きつけ、砂塵を巻き上げた。
辺りの空気が変わった。殺気……モカはすぐに反応して距離をとると、蒔絵の右腕を放り投げ、鎌を構え直した。
「蒔絵ちゃん、すごい! まだやる気なんだ。モカ、ゾクゾクしてきた!」
蒔絵は左手を右肩に当てたまま、モカを睨みつけると、唇を斜めに持ち上げ笑ってみせる。
「なになに、余裕な感じ? モカの一生のお願いは聞いてくれないんだね」
「安心しろ、ピンク頭。お前の一生は今日ここで終わる」
「きゃあ、モカ、怖い!」
(お姉ちゃん、お爺ちゃん、ごめんなさい。陛下の許可もなく、この術を使うのは重罪……それでも……私はこいつを許せない)
歓喜に震えるモカを尻目に、蒔絵は呼吸を整える。そして左腕を突き出し、詠唱を始めた。
「我、芝崎蒔絵の名の下に命ずる。白き螺旋の風を纏う気高き羽虫よ、時を逆巻き、幼生の記憶を反射せよ。これより、我が名において、邪を善とす。蒼穹より降り立ち、仮初の大地に奈落の穴を穿て」
モカの顔から笑みが消えた。聞いたことのない詠唱、しかも常識的に考えて詠唱言が長すぎる。
詠唱の長さは術式の規模を表す指標だ。長い詠唱は大規模な術式を発動させるが、代わりに詠唱中の術者は無防備になる──はずなのだが、蒔絵の周りには見たことのない絹のような光が揺らいでいる。
モカは眉をひそめ、手にした鎌を握りしめた。野生の感が告げる。止めろ、これはヤバい──と。
モカはほとんど反射的に鎌を放った。円を描くよう凄まじい回転を与えられた鎌は、一直線に詠唱を続ける蒔絵に飛んでいく。が、それは揺らぐヴェールに触れると、キィィンという甲高い音と共に弾かれてしまう。
「詠唱壁……? これ……帝の……?」
モカの足元がふわりと光り出す。
(まずい……詠唱を止められない!)
複雑な術式を描く五角形の方陣が浮かび上がる。それは眩いばかりの銀色の光に包まれ、やがて天高く上昇した。
「虚無の暗黒に身を堕とせ──妖帝術・薄羽蜉蝣」
蒔絵は呟くように言葉を繋いだ。
(──ウスバカゲロウ?)
モカは不穏な気配を感じて空を見上げた。鈍色の雨雲が千切れ、隙間から青空が覗いた。
「なによ……あれ……」
そこに見たのは、眩い光を身に纏い、美しく透きる羽を持つ巨大な蜻蛉だった。いや、よく見ると蜻蛉とは少し姿が違う──それが薄羽蜉蝣の成虫であることをモカは知らなかった。
「開皇帝の召喚妖術……」
身体中の肌が泡立つ。モカは目を見開き、初めて恐怖を覚える。
空を覆う巨大な薄羽蜉蝣が、小刻みに4枚の羽を揺らす。それは低く大きな羽音を立て大気を震わせた。
その羽音は不吉な音色となってモカの耳に届いた。処刑を待つ罪人のような諦観と絶望が、モカの心を支配する。
薄羽蜉蝣は細長い胴体をぶるぶると震わせた。尻尾の先が淡い光に包まれると、ひと筋の黒い光が一直線に地上へ向かう。
(街ごと沈めてはダメだ。攻撃範囲を最小にして……空間拡張を最大に……)
黒く鋭い光が頭上から降り注ぐ。蒔絵は膝をつき、自分のまわりに追加術式を展開した。
周囲の空間がぐにゃりと広がる。この術を使うにはここは狭すぎる──蒔絵は周囲の空間を広げ、蜻蛉の“狩り場”をつくり上げた。
光が地面に吸い込まれると、瞬く間にアスファルトの地面は消え失せ、その変わりに、砂で覆われた“すり鉢状の穴”が出現した。
「……!」
モカは柔らかな砂に足をとられ、すり鉢の底へと引き込まれていく。
(これって……アリジゴク)
もがけばもがくほど、モカの足は砂深く埋まり、身動きがとれない。砂は重みを流速に変え、無慈悲に彼女を沈めていく。
すり鉢の底で待ち受けるのは、蜻蛉ではなく真円の黒い闇だった。モカはその闇から目が離せなくなる。そして心底恐怖した。
最初はただの黒い穴に見えた。そこに何が待ち構えていようと叩き潰してやる──その自信がモカにはあった。
(モカは踏み潰されるだけのアリなんかじゃない。北森王カタクリ様に身を捧げた、高貴なかまいたちなんだ!)
しかし、それは近づくと、ただの『闇』であることにモカは気がつく。そこには感情も意思も表情もなかった。落ちてきたものをただ飲み込むだけの漆黒の闇──虚無の穴だ。
ヤバい、ヤバい、ヤバい──
モカは流砂に抗うこともできず、ズルズルとすり鉢の底に引き寄せられる。胸元まで砂に埋まりながらも、モカはそれでも足掻き続けた。目の前に大きな口を開けた闇が迫る。
ふと、すり鉢の淵に立ち、冷ややかな目で見下ろす蒔絵と目が合う。
「絶対に殺してやる……助けて、ランちゃん!」
砂にほとんど埋もれながら、モカは力の限り叫んだ。




