第19話 妖・かまいたち
雨の降る音でリクは目を覚ました。
ぼんやり視界に入ったのは、黒い杉板が張り詰められた天井だ。
曖昧な意識がゆっくりと浮上する。い草と木材の匂いが鼻をついた。
リクは布団から身体を起こして部屋を見まわす。
畳敷きの部屋。漆喰の壁。小さな床の間──自分が寝ていたのは、それほど広くない畳敷の和室だった。
見たところ、かなり古い家屋だったが、丁寧に掃除がされているのか、埃ひとつ落ちていなかった。
どこだろう……ここは?
もう朝なのだろうか、障子の向こうはうっすらと白んでいる。辺りは静まり返っていて、かすかな雨音だけが聞こえてくる。
(そうだ、俺は小さなイタチを追いかけて奇妙な神社に辿り着いた。道玄坂で見た女子高生がいて、それから……)
「ああ、もう起きてたのか」
とつぜん声をかけられた。
振り向くと、障子戸の間からオレンジ頭の少年が顔を出した。はだけた浴衣を直そうともせず、大きなあくびをして頭を掻く。
「芝崎三太だ。昨日は悪かったな」
マジかよ──リクは短い溜息をついた。
(昨日の記憶は夢じゃなかったし、俺がおかしくなったわけでもなかった。間違いない、昨晩、神社から出てきたオレンジ頭だ)
「お前の名前、訊いていいか?」
「あ、ああ、そうだよな、ごめん、俺は六村リク。ここはどこ……です、かね?」
「煉界……って言っても分かんねーだろ。ま、慌てるな。ちゃんと説明するから。お前が急に倒れたから、俺がここまで運んできたんだぜ」
「なんか、お世話になったみたいで……ありがとう」
リクはとりあえず礼を言った。
レンカイ?
(そういえば、カマガリとかケッカイとか意味不明なことを言っていたな。後ろからとつぜん老人が現れて……俺は……ああそうか、気を失ったのか……)
リクの脳裏に、昨夜の記憶が少しずつ蘇った。
ここは謎の集団の施設だろうか。レンカイというのは、よく分からない水や壺を売りつける連中のアジトなのかもしれない……。
「はは〜ん、六村リク、お前、何か激しい誤解をしてないか?」
「い、いや、大丈夫。ただ、手持ちの金はあまりないんだ」
「手持ちの金?」
三太はしばらく考えた末に、おかしそうに吹き出した。障子戸をバンバン叩き、ヒィヒィと言いながら腹を抱えている。
「ああ、腹が痛ぇ! お前、いったい何者だ? 面白すぎるだろ。これでもさ、もしかしたら“鎌狩り”じゃないかって、寝ずの番してたんだぜ。ああ、無駄にした〜」
「あのさ、そのカマガリってのがよく分からないんだ。昨日も金髪の子が言ってたような気がする」
「お前、なんにも知らないんだな」
三太は呆れたように目を細めると、布団の前で胡座をかいた。
「いいか? 鎌狩りってのは、かまいたちを狩る人間のことだ」
「かまいたち……って、あの妖怪の?」
「おお、六村リク! なんだ、そこはよく知ってるじゃねーか! ただな……」と、三太はそこで真顔になり声を潜める。
「《妖怪》じゃなくて、もっと厳かに、神秘的に《妖》と言ってくれ」
三太はリクの肩に手をかけ、ひとり、うんうんと頷いた。
かまいたち──風の刃で人を切りつける空想上の妖怪。
リクはとくべつ妖怪に詳しいわけではなかったが、かまいたちについては、ちょっとした知識があった。
きっかけは、もちろん公園での出来事だ。
二本足で立ち、風に舞う小さな生物を調べるうちに、リクは妖怪として伝承されている“かまいたち”に辿り着いた。
『一匹目が人を転ばし、
二匹目が刃で切りつけ、
三匹目が薬を塗っていく』
この不可解な言い伝えに惹かれたリクは、小6の夏、図書館に通い詰め、かまいたちに関連する伝承を読み漁ったことがあった。
とつぜん皮膚が切れる自然現象を、人は『妖怪かまいたちの仕業』として古くから語り継いできた──それがかまいたちの全体像であるようだった。
それでもリクは『公園にいた小さなイタチが“かまいたち”だったらいいのにな』と、子供心によく考えたものだ。
「いいか、リク。俺たちは《妖》だぞ。うちの姫さま、そーゆーとこはかなり面倒くさいからな。妖怪って言うなよ」
三太は深刻な表情で念を押す。
「ええと……ごめん、三太君、話が見えない。俺たちって……」
「三太と呼んでくれ、六村リク」
「じゃあ、三太。その妖は本当にいるのか?」
「何を言っているんだ、六村リク。今、目の前にいるじゃねーか」
三太は得意げに胸を叩いた。
「………君は……かまいたちなのか?」
「おうよ。人の姿になって早10年。正真正銘、完璧なかまいたちだぜ。だいたい昨日も必死になって追いかけてたじゃねーか。アタマ、大丈夫か?」
妖怪かまいたち。
もとい、妖かまいたち。
この状況でなければ鼻で笑い飛ばすくらい荒唐無稽な話だが、そう考えればすべてが繋がるような気がして、リクは妙に納得してしまった。
かまいたちは実在するんだ。
「六村リク。うちの姫さまがお前に会いたがってんだ。待ってろ、今、呼んでくる…………って、違うな、人間から会いに行くのが道理だよな。うん、そうだ」
三太はそう言うと立ち上がり、勢いよく障子戸を開け放った。
「六村リク、さっさと起きて服を着ろ。顔を洗え。歯を磨け。これからうちの姫さまにお目通りだ」
◇◇◇
時間は昨晩まで巻き戻る。
渋谷の夜空に浮かんだふたつの影が、破壊された街を見下ろして無邪気に語らう。
幼い声は、その日あった出来事を母親に告げるような興奮に満ち溢れていた。
「モカ、すっごくすっごく面白かった!!」
「収穫がたくさんあったね」
「たくさんあった。でもでも、竜巻の実験はまだ早いわ、ランちゃん」
「そうだね……威力もイマイチだし、核の擬似記憶にも揺れがある」
「ほぉら、モカの言ったとおりでしょ!」
「それにしても、誰が《ユン》なんてくだらない名前をつけたんだい?」
「ランちゃん、気づいてないの? あの子のシリアルが《UN-113》だからだよ」
「ああ! それで《ユン》なんて言い出したのか。あいつ馬鹿だなー」
「ウケるでしょ!! アッタマ悪すぎぃ〜」
「知能も向上させる必要がありそうだ」
「鎌狩りが始末してくれて良かったね」
「処分する手間が省けたね。連中、ウチらを見たらすぐに殺そうとするからな。単純で助かる」
「情報を流して正解だったね!」
「大正解。僕も頭いいだろ?」
「うん。でもさ、もぉぉっ〜と単純で、頭の悪いのがいたよね!」
「「東のポンコツ三女!」」
「噂には聞いてたけど、聞きしに勝る阿呆だったな」
「言うことやること、ぜ〜んぶ、中途半端。あれじゃあ追い出されるよね。ウチだったら死刑だよ、死刑!」
「まあ、妖力だけは褒めてあげようか」
「でもさでもさ、すっごく可愛かったよね! モカ、あの子、好みだなぁ。栄生ちゃん、裸にひん剥いて吊るしたい……」
「悪いクセだぞ、モカ」
「爪先がね、ギリギリつくくらいに吊るすのがキモなんだよ、ランちゃん。おなか捌いたらやっぱり人間の内臓が出てくるのかな?」
「キモいこと言うな」
「モカ、栄生ちゃん、欲しい! 一晩中、あの白い肌に刃を入れたい! 骨がなきゃ死ねないんだから楽しいよね。どんな声で鳴くのかなぁ……」
「だからキモいこと言うなって」
「ねぇねぇ、ランちゃん。追いかけないの?」
「いや、ひとまず北に帰る。陛下に実験の報告をしなくちゃいけない」
「え〜〜、モカ、つまんない、つまんない! 分け身もいたんだから、追いかけよーよ。人間の男の子だって追いかけて行ったよ! ランちゃんの《眼》ならまだ追えるでしょ!」
「『捕まえろ』とは言われてないんだよなぁ」
「そこだよ、ランちゃん。言われたことしかやらないのは雑種のやること。手土産があれば陛下も喜ぶと思うな」
「モカはワガママだなー」
「モカはワガママだよー」
竜巻の消えた空に、無垢な殺意が浮かび上がる。狂気に満ちたふたりの瞳に大きな月が滲んでいた。