第18話 邂逅、かまいたちの少女
小さなイタチは、飛び跳ねるように歩道を走った。予想より足が遅いので、リクは内心胸を撫で下ろしたが、それでも、帰宅部一筋、体力にまるで自信がないリクは全力で追いかけなくてはならなかった。
彼らはとてもすばしっこくて、風が吹けば消えるようにいなくなるのだ。この機会を逃したら、おそらく二度と彼らに出会うことはない──リクにはそんな直感があった。
明治通りを横切り、宮益坂を登ると国道246号線に出る。小さなイタチはそこで立ち止まって、リクの姿を確認すると、そのまま青山方面へ向かった。
逃げているわけじゃない。きっと……いや確実に、自分は導かれている。
リクはそう感じる。
幼い頃の記憶がありありと蘇る。それはいまだ色褪せていない。
風の中を泳ぐ奇妙な生き物。
誰にも信じてもらえなかった不思議な存在。
膝の上に残った温もり。
小さなイタチは小さな路地に入ると速度を上げた。
足が重い。そろそろ限界かもしれない……。真冬なのに額に汗が滲み、運動不足のせいで息が上がる。
「おい、気をつけろ」
ふらついて、若い男にぶつかりそうになった。渋谷からそれほど離れていないのに、辺りはあまりにもいつもどおりで奇妙な感覚だ。坂を下れば街が破壊されているというのに……。リクは夢でも見ているようだった。
路地をしばらく進むと、小さな神社が見えてきた。雑居ビルに囲まれた行き止まりのような場所に小さな鳥居があり、その奥にはこじんまりとした拝殿がある。都内の中心地とは思えないほど薄暗く、鳥居も拝殿もかなり古いもののように見えた。
小さなイタチはその鳥居をくぐると、拝殿の中にふっと姿を消した。
こんなところに神社なんてあったかな……。
リクは渋谷周辺の地理に自信があった。高校1年の夏、初めてのバイトが渋谷の宅配ピザ店だった。この辺りなら細い路地に至るまで正確に記憶しているが、この神社にはまったく見覚えがない。
息を整えながら、リクは鳥居をくぐる。
小さな神社だ。祟りを恐れて都心に残ったいわくつきのスポットみたいだ。
ところどころが朽ちた賽銭箱を覗いてみると、底には大きな穴が空いていた。拝殿の鈴緒はかなり擦り切れていて、少し揺らしただけで切れてしまいそうだ。
辺りは嘘のように静まり返り、物音ひとつしない。まるで別世界に迷い込んだみたいだ。
リクはふと空を見上げる。飛行機が赤い光の点となって横切っていく──大丈夫、これは現実だ。夢なんかじゃない。乱れた自分の息づかいと鼓動の音だけが、やたらと大きく聞こえた。
「こんばんは」
「わ、わぁっ!!!!」
物陰からとつぜん声がして、リクの心臓は文字どおり口から飛び出しそうになった。
拝殿の前に銀髪の少女が立っていた。
間違いない、一瞬だけ現れて消えた道玄坂の女子高生だ。幻覚ではなかったのだ。同じ高校の制服を着ている。
制服の少女は首を傾げて微笑んでいた。
「あ〜〜びっくりした。いきなり驚かすなよ、死ぬかと思った……」
リクは眉間に皺を寄せて胸に手をやった。あれだけ走った後に驚かされると、少し気持ちが悪くなってくる。
「ご、ごめんなさい。驚かすつもりはぜんぜんなくて、えっと、その……」
少女が何かを言い淀んでいると、背後からさらに人影が現れた。
「おい、兄ちゃん、すげーな。人間のくせに、サコちゃんの分け身が見えるのか」
「……っ!!!!!!!」
拝殿からとつぜん姿を現した少年に、リクは危うく気を失いかける。やめてくれ、俺の心臓がもたない……。
「おまけに半結界にも入ってくるなんて驚きだ」
感心するように言ったオレンジ頭の少年は、学ランにスニーカーという格好だ。何を言っているのかよく分からないが、見るからに能天気そうで、それが少しだけリクを安心させた。とりあえず幽霊の類いではなさそうだ。
さらに拝殿から人が出てきた。
2畳ほどしかないはずのスペースから、一体何人が出てくるんだ……。
金髪をツインテールにまとめた女の子は、賽銭箱の手前で腕組みをすると、怪訝そうな顔でリクを睨む。
リクの目を引いたのはその服装だ。金の刺繍が入った黒いドレスにふわふわのレース、そして厚底のエナメル靴……西洋のお姫様みたいな格好だ。神社とはあまりに不釣り合いな装いが、逆に現実感を際立たせた。
(ゴスロリってやつだろうか。確かクラスでも好きな子がいたな。でもこの場合はロリっていうか、まんまロリなんだが……)
「あなた、鎌狩り、じゃない?」
ツインテールの少女が目を細めて訊いた。
カマガリ?
「ええと……違います。俺はただの高校生です。その人と同じ高校の学生です」
リクはもう何が何だか分からなくなって、教科書の英文みたいな返答をした。
あるはずのない神社、その小さな拝殿から次々と出てきた2人の高校生と女の子……ああ、また誰にも信じてもらえないやつだ──また?
「「あ、あの、聞きたいことがあるんだけど」」
リクと少女は同じ言葉を口にする。
「お先にどうぞ」
制服の少女が譲った。
「俺、小さなイタチだかオコジョみたいなのを追いかけてここまで来たんだ。かなり小っちゃいの。ここらで見かけなかったか?」
リクが尋ねると、3人は顔を見合わせて、ゴニョゴニョと始める。
『どうするの、お姉ちゃん。探してるみたいだよ』
『どうしよう……ぜんぜん考えなかった』
『考えてないって、自分で案内したんだろ?』
『あの人たちが追いかけてこないか、そのために残したんだもん。そしたら、あ、さっきの人だって思って……』
『でも、鎌狩りじゃない、みたいだよ』
『いやいや只者じゃないぜ。分け身も見えてるみたいだし、半結界にすんなり入ってきやがった』
声をひそめて話す3人だっだが、その内容はリクにほとんど聞こえていた。カマガリとかケッカイとか、意味不明な単語が飛び交っている。
(なんなんだ、こいつら……)
謎の相談が終わると、制服の少女がリクに歩み寄った。
「この子の……こと、だよね?」
制服の少女が左肩を少し下げると、首の後ろから小さなイタチが顔を出した。
「うわ……! え、お、ここにいた!! いたっ!! え、でも、な、なに、飼い主がいるの???」
制服の少女は楽しそうに笑う。
「えーと、飼い主じゃなくて、なんて言えばいいんだろう……私……でいいのかな?」
は……? 私?
オレンジ頭とツインテールは、笑顔をつくろうとして途中で止めたような、曖昧な表情を浮かべている。
突拍子のない言葉にリクの頭は混乱した。
あの不思議なイタチを追いかけてきたら、代わりに変な神社からおかしな連中が出てきた──もしかすると怪しげな壺を売りつけられるパターンかもしれない……。
「私は私なんだけど……なんて言ったらいいのかな……説明が難しくて……あのね、この子も私なの。5kmくらい離れていても大丈夫なんだ」
制服の少女はそう言って、小さなイタチの頭を撫でた。
リクは支離滅裂な説明を訊きながら同情も始める──こんな可愛いのに可哀想だな……きっとこっちの活動が忙しくて、学校に行けなかったのかもしれない。
もし校内で見かけたら、この容姿だ、必ず覚えているし、そもそも他の男子が放ってはおかない。「2年A組の◯◯、可愛いらしいよ」などと一躍有名になっているはずだ。
遅刻ばかりで校内の噂話に疎い自分だけど、それでもこの手の話だけは嫌でも耳に入ってくるものだ。
──5kmくらい離れていても大丈夫?
あるいは夢想癖、夢女子というやつだろうか。俺もかなりのラノベを読み込んできたから、分からなくもない。もちろん学校に行きたくない気持ちも理解できる。
どっちにしろ、申し訳ない。俺にしてやれることは何もない。
それでも謎は残る。
道玄坂で、一瞬のうちに現れて消えたアレはなんだったのか。他の人に見えてなかったのも気にかかる。そして肩にいる小さなイタチ……。
リクはひとつの事実に突き当たる。
おかしいのは俺のほうなんじゃないか──たまたま懐かしい感じの風が吹いて、少し感傷的になったのかもしれない。これはすべて夢で、俺は竜巻の瓦礫に蹴躓いて、今も渋谷で倒れているのかもしれない。
そのとき、とつぜん背後から肩を強く叩かれて、リクは血の気がさっと引くのを感じた。
振り返ると、背の高い白髪の老人が立っていた。顔がかなり近くにあって、リクの視界はいよいよ白い霧に覆われる。
「姫さま、驚かせてはいけません。順を追ってきちんと説明しないと、この少年が動揺し……」
遠のく意識の中、リクは「おじいちゃんがいちばん驚かせてる」という声を聞いた気がした。