プロローグ
かまいたちは風と共に在り、その骨は、彼ら自身をも滅ぼす。
これは、かまいたちが生きた痕跡を辿る物語──
◇◇◇
東の森・かまいたち王宮“玉座の間”は緊張に包まれていた。
家臣たちは床に顔を伏せ、言葉を待っている。神妙な面持ちの者もいれば、薄ら笑いを眼前の床に向ける者もいる。
父王は玉座から三女を見下ろす。その不確かな視線は、彼女の後ろにある何かを見ているようだ。玉座の隣に立つ姉は俯いたまま、顔を上げようともしない。
父王が年老いた法務官に顔を向け頷くと、彼は分厚い法典を手に冷たい声で読み上げた。
『東の森かまいたち王国、第3王女・嬰円栄生。これより勅命を言い渡す」
法務官は一度言葉をきり、国王に向き直るが、父王は目を瞑ったままだ。
「かまいたち王国『東の森』 王室法第5条、成体に関する規定第1項。王族を含むすべての個体は、満17歳に達した日を以て成体と見做すものとする」
人間界から取り入れたという和洋折衷の玉座の間に、無感情な声が響き渡る。
「第2項、人化の義務。成体と認められるためには、当該個体が完全なる人化転身を遂げることを要する。人化転身とは、自己の妖体を放棄し、恒常的に人間体として生存する状態を指す」
(うわ、これってもう裁判じゃん……)
栄生は玉座の正面に立ち、バツが悪そうに銀髪の頭を掻いた。
子供の頃は遊び場だった王宮も今日は色褪せて見える。
「第3項、壁役との契約義務。王族は成体となるまでに、自らを守護する壁役を人間界より確保し、これと契約を締結することを義務とする」
栄生は黙ったまま、父をまっすぐに見つめる。見つめるというより眺めると表現した方がいいかもしれない。
「姫様、よろしいですかな?」
法務官は栄生に声をかける。分かりにくい言葉で悪口を言われてる気がしてくる。
「ええ、続きをどーぞ。ご老体」
一部の家臣たちが噴き出す。
法務官は咳払いをしてから続きを読み上げる。
「第4項、例外の不存在。前各項に定める要件に関し、いかなる特例・猶予・免除もこれを認めない」
玉座の間はしんと静まりかえり、いちだんと空気が張り詰める。
父王は立ち上がると、貫禄のある太い声で告げた。
「“東森王”、嬰円紫央が三女、栄生。転身に失敗し、あまつさえ“分け身”を残すなど言語道断。現時刻を以って王族の資格を剥奪。人間界へ追放のうえ、以降は“鎌狩り”の駆除任務にあたることを義務とする──」
◇◇◇
昏れなずむ渋谷の空には、すべての色と、孤独があった。
「東の風、水色に淡い橙、少し強めに傾いてる」
嬰円栄生はそう呟く。
無意識に風の色を読んでしまう。風の色が見えるのは、栄生の数少ない才能のひとつだ。
(北風が強くなる。明日は雪になるかもしれない。こっちではホワイト・クリスマスと呼ばれてたっけ)
剥き出しの鉄骨は氷のように冷たくなっている。
それでも栄生はその端に座り、夕闇に塗り込められた街を見下ろす。肩のあたりで切り揃えられた銀色の髪が、風にされるがままなびいている。
渋谷に建設が予定されていた第二都庁舎は、都民の反対運動が功を奏して、骨組みのまま作業が中断されていた。そのおかげで、というのも変だが、栄生は光の海を眺めることができた。
灰色の鉄骨には、チョークで殴り書きされた「41F/200M」の文字が見える。航空障害灯の赤い明滅が、栄生の白い肌を規則的に浮かび上がらせていた。
冬の風の香りがする。
澄みきって、少しだけ緊張した大気の香りだ。
彼方に沈んだ太陽は、西の空を深い赤紫色に染めている。
金星が輝き、東の空には灰色の月が浮かんでいた。
そこには、すべての色がある。
なんて綺麗な世界なんだろう、と栄生は思う。
──追放されて良かった。
立ち並ぶ高層ビルは、巨大な光の束となって瞬いている。
早足で道を行き交う人々。
揺らぐテールライトの列。
発着を繰り返す列車。
喧騒が生み出す、ごぉぉという音。
そんな光景が栄生を感動させる。とても。
学制服だとさすがに寒い。
“人界”でとりわけ人気があるらしい高校の制服を着てみたのだが、“セーラー”と呼ばれる上着は思ったより暖かくないし、スカートは短すぎる。白を基調にした見栄えはとても可愛いのだけれど。
リュックに詰めたパーカーを着込んでみる。少しは暖かいが、地上二百メートルの吹きさらしでは、どうしようもない。同世代の娘は、首まわりに暖かそうな布を巻いていた。襟巻きというものだろうか……寒い。
それでも栄生は、昏れなずむ光の街を眺める。ヘッドフォンから流れる音楽に合わせ、投げ出した足でリズムをとる。
「人間ってすごい……」
眼下に広がる光の海を眺めながら、栄生は感心したように呟く。
両耳から美しい音楽が聴こえる。まるで頭の真ん中で誰かが演奏しているみたいだ。交響曲第9番。この時期になると、よく人が聴く曲だそうだ。
栄生の傍らには“分け身”の“かまいたち”がいる。
宵闇に浮かんだ出来たての月を、ぼんやりと眺めている。ときおり何かを確認するように栄生の顔を見て、また月を見上げる。
その体長は、五メートルをゆうに超える。イタチに似た顔立ちだが、彼らより鼻が長く、耳も大きい。吊り上がった大きな目は、彼らの気高さの象徴のようにも見える。全身は銀色の深い毛におおわれ、尾は体長よりも長い。
──今、私はどんな顔をしているんだろう。
人間への転身に失敗した。千年の歴史で初めての惨事らしい。王家から絶縁され、故郷の森を追放され、人界送りになった。
『これ以上、私に恥をかかさないでくれ』
国王であっても、父は、父だけは、庇ってくれるものと思っていた。でも違った。その言葉の響きには、諦觀と懇願に近いものがあった。
『王族なら人界で“壁役”を探し、ひとりでも多くの鎌狩りを殺しなさい』
家臣の前で追放を告げられた日、父は背を向けそう言った。それが最後にかけられた言葉だった。
森を出る日、父も姉も妹も見送りには来てくれなかった。
──期待に応えられずにごめんなさい。
それなりにしおらしく振る舞い、きちんと謝ってから森を出るつもりだった。
でも彼らは来なかった。
私は、彼らにとって恥なんだ。
でも、私は、私を恥だとは思わない。
(それはホント)
ただ、上手く人に化けることができなかっただけだ。
(それは事実としてホント)
みんなができることを、できなかっただけだ。
(……それは小さい頃からの通常営業)
一人芝居が虚しくなる。
私は私だ。ちょっとだけ恥ずかしいだけだ。絶対に泣かない。泣いたら負けだ。
光の世界が滲む。
母の最期の言葉が頭をよぎる。
『あなたは不器用だし、妖力も上手く使えない。陛下の娘だから、いろいろ言う人も出てくると思う。でもね、それは恥ずかしいことじゃないの。胸を張りなさい。あなたには、あなたにしかできない事がある。
あなたは小さい頃から、本当によく笑う子だった。そう、王国でいちばん笑う子。私たちに足りないものをあなたは持っている。自信を持って。あなたは私の娘なんだから。
いつの日か──森の外へ出る日が来たら思い出して。
壁役を見つけなさい。
あなたに寄り添ってくれる壁役を。
あなただけを見てくれる壁役を。
そして必ず森に連れてきなさい』
王族なら壁役を探せ──
父も母も、栄生に壁役を求めていた。
壁役──生涯、契約によって、かまいたちを守護する人間の壁。
耐性者を隷属させ、妖力を与え、戦闘の道具につくり上げる悪しき習慣を、栄生は嫌っていた。
(壁役がいないのは王室でも私だけだ)
壁役を見つけなさい──
栄生は知らないうちに泣いていた。
大粒の涙が頬を伝い、風の中に消えていく。
「泣いたら負けじゃんか……」
悔しいよ。やっぱり悔しいよ……
“普通”のことができなくて悔しいよ。
◇◇◇
できたての月に飽きると、かまいたちは細い足場の上で器用に丸くなる。
栄生はそのふわふわした額を優しく撫でた。
自分自身を撫でるのはなんだか不思議な気持ちだ。
栄生はふと何かに気がついたように立ち上がる。
風の色合いが、急速に変わっていく。
予想よりもオレンジからティールへ転ぶ速度が速い。
栄生が風向きの予測を見誤ることは滅多になかった。
それでも風の感触は容赦なく鋭く冷たくなる。
風が北へ傾いていく。荒れた北風が吹き出す前兆だ。
──それだけじゃない。
栄生は宙を睨む。
匂いだ。
栄生を緊張させる“匂い”が、風の中に密度として含まれている。
──何かが、こちらを見ている。
かまいたちは立ち上がり、見えない何かにむけて低い唸り声をあげる。
栄生は注意深くあたりを見渡す。変わったところはなにもない。
地上に張りついた無数の光が、ゆらゆらと輝いている。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
ときおり下から吹くでたらめな風で身体がゆらぐ。
栄生はヘッドフォンを首にかけると、正面に見える高層マンションに視線を向ける。
距離は離れているが、匂いはその方角から漂っている。
風に混じる匂いが、いちだんと強くなる。匂いは視線だ。
──知っている。
これは、同族の匂いであり、死の匂いだ。
私たちの骨が、
私たちの骨でつくられた弾丸が、
私を狙っている。
それは私を骨にする。
一瞬、強く赤い光を照射されたように視界が奪われる。栄生はすぐに、それがなにかを理解する。
(“縛界”だ)
かまいたちから風を遠ざけ、縛りつける部分結界だ。
目を瞑り、風の気配を探る。
間違いない“鎌狩り”だ。
「縛界のニ縛……違うな、うーん、一縛かな」
栄生はひとごとのように呟くと、白い歯を少しだけ見せて微笑んだ。
正面からの狙撃。脆弱な結界──人界に追放されたとはいえ、ずいぶん低く見られたものだと栄生は思う。
まあ、現・国王直系の娘が、こともあろうに“人化転身”に失敗したのだ。王室の権威を貶め、国民の信頼を裏切った。鎌狩りたちに甘く見られるのも当然だ。
とはいえ──「情報が漏れてるのかな……」
栄生は大きく伸びをしながら呟く。もう泣かない。
鎌狩りの敵意が栄生を立ち直らせる。
人界を思いきり楽しもう──栄生はそう決意していた。追放はひとつの契機。そもそも王室の伝統や作法、そして使命とやらに嫌気がさしていたのだ。
まずは憧れていた女子高生になりきってみた。
ひとつ達成。
人界では行きたい場所も食べてみたいものもたくさんある。
人界は鎌狩りがいることをのぞけば楽しい世界であるはずだ。
(私はここにいる)
そうだ。そろそろ、いつもの私に戻らなくてはいけない。
月は灰色の輝きを増し、西の空は深い闇に塗りこめられようとしいる。さっきまでの喧騒はもう耳に届かない。
「早く撃てばいいのにな」
栄生は呆れたように呟く。
「この風であの距離かぁ。けっこう自信家なんだね」
栄生は狙いを定める狙撃手の方向を見据える。
それから右手の人差し指をゆっくりと左胸に当て、不敵な笑みを浮かべる。
──ここを狙え。外すなよ。
そして、その目にひとすじの淡い光が灯る。
この日、ひとつの銃声が世界を変える。
それは栄生と人間の少年をつなぐ、最初の印だった。