プロローグ 2 ここを狙え
昏れなずむ渋谷の空には、すべての色と孤独があった。
地上200mから見る東京の街は、息をのむほど美しい。
「東の風、水色に淡い橙、少し強めに傾いてる」
栄生はひとり呟く。
無意識に風の色を読んでしまう。風の色が見えるのは、栄生の数少ない才能のひとつだ。
きっとこれから北風が強くなる……栄生は風の色から予想を立てた。
もしかすると、明日は雪になるかもしれない。こっちではホワイト・クリスマスと呼ばれてたっけ。
渋谷に建設が予定されていた第二新都庁舎は、都民の反対運動が功を奏して、骨組みのまま作業が中断されていた。
そのおかげで栄生は人間の世界──《人界》に来て早々、この光の海を眺ことができた。
剥き出しの鉄骨には、チョークで殴り書きされた《41F-200m》の文字が見える。陽は完全に沈み、西の空を赤紫色に染め上げていた。航空障害灯の赤い明滅が、栄生の白い肌を規則的に浮かび上がらせる。
西の空に何かが飛んでいるのが見える。長い羽を回転させて飛行しているみたいだ。
「不思議な乗り物」
栄生は鉄骨に腰を下ろして、ふらふらと動くヘリコプターを興味深そうに眺める。
冬の風にさらされた鉄骨は氷のように冷たかったが、栄生は構わず夕闇に塗り込められた街を見下ろした。
肩のあたりまで伸ばした銀髪が、風にされるがままなびく。故郷の森と違って、風の感触が少し硬かった。
「明日、雪は降るかなぁ。降るといいなぁ」
東の空には灰色の月が浮かび、その下に立ち並ぶ高層ビルが、巨大な光の束となって瞬いている。
早足で道を行き交う人々。
風に揺らぐテールライトの列。
発着を繰り返す列車。
喧騒が生み出す、ごぉぉという音。
そんな光景が栄生を感激させた。
ここには、すべての色がある。
なんて綺麗な世界なんだろう──栄生は追放されて良かったと改めて思う。
「う〜、でも、やっぱり寒い」
鼻をすすると、ぶるぶるっと震えが走った。人の身体だと、この気温はさすがに冷える。
人界でとりわけ人気のある学生服を着てみたのだが、セーラーと呼ばれる上着は思ったより暖かくないし、スカートは短すぎた。白を基調にした見栄えはとても可愛いのだけれど。
同世代の女の子は、コートを羽織り、首まわりにも暖かそうな布を巻いていた。あれが襟巻きというものだろうか……。
栄生の傍らには《分け身》のかまいたちが、宵闇に浮かんだ出来たての月をぼんやりと眺めていた。
ときおり何かを確認するように栄生と顔を合わせ、また月を見上げる。
分け身──栄生が人への転身にしくじって生まれた、もうひとつの身体だ。
その体長は五メートルをゆうに超え、イタチに似た顔立ちをしている。彼らより鼻が長く、耳も大きい。吊り上がった大きな目は、一族の気高さの象徴のようにも見える。全身は銀色の深い毛におおわれ、尾は体長よりも長かった。
転身の失敗は歴史上初の珍事らしい。騒ぐほどのことではないと栄生は思うのだが、王家から絶縁され、故郷の森を追放され、人界送りになってしまった。
『これ以上、私に恥をかかさないでくれ』
国王であっても、父だけは庇ってくれるものと思っていた。でも違った。その言葉の響きには、諦觀と懇願に近いものがあった。
『王族なら人界で《壁役》を探し、一族のため、ひとりでも多くの《鎌狩り》を殺しなさい』
家臣の前で背を向け、父王はそう言った。それが最後にかけられた言葉だった。
森の結界を出る日、父も姉も妹も見送りには来てくれなかった。
『期待に応えられずにごめん』
それなりにしおらしく振る舞い、いちおう謝って森を出るつもりだった。
でも彼らは来なかった。
王宮では、やんちゃ姫が代名詞の栄生だったが、さすがにこれは堪えた。
私は家族にとって恥なんだと栄生は確信した。
でも、私は、私を恥だとは思わない。
(それはホント)
上手く人に化けることができなかっただけだ。
(それもホント。9割は成功してるし)
みんなができることを、できなかっただけだ。
(それは小さい頃から通常営業)
一人芝居がちょっと虚しくなって、栄生は髪を指先に絡めてくるくる回す。
光の世界が滲み、ふと、母の最期の言葉が頭をよぎる。
『あなたは不器用だし、妖術も上手く使えない。陛下の娘だから、いろいろ言う人も出てくると思う。でも、胸を張りなさい。あなたには、あなたにしかできないことがある』
自由奔放で型破りなのは母親似だと、王宮でもよく言われた。
『森を出たら、良い壁役を探しなさい。あなたに寄り添ってくれる壁役を。あなただけを見てくれる壁役を。そして必ず森に連れ帰りなさい』
父も、亡き母も、栄生に壁役を求めていた。
壁役──それは生涯、契約によって、かまいたちを守護する人間の壁だ。
耐性者を隷属させ、妖力を与え、戦闘の道具として使役する悪しき習慣を、栄生は嫌っていた。
母はなぜあんなことを言ったのだろう。
知らないうちに栄生は泣いていた。
大粒の涙が頬を伝い、風の中に消えていく。
古いしきたりや作法に囚われた王宮にはうんざりだった。しかしそのいっぽうで、一族として、普通のことを成し得ない自分が腹立たしかった。
「私にしかできないこと……か」
そして、栄生は鼻をすすりながら、ひとつの目標を立てる。
──千年の戦いを、私が終わらせてみせる。
森と人界を分け隔てなく行き来できたなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。
栄生は目を輝かせながら、眼下に広がる夜景を見つめた。
◇◇◇
できたての月に飽きると、かまいたちは細い足場の上で器用に丸くなった。栄生はそのふわふわした額を優しく撫でる。我ながら可愛い。自分自身を撫でるのはなんだか不思議な気持ちだ。
分け身が生まれたことがきっかけで森を追われたが、栄生はここに至って、悪くない特技なのでは? と気づく。
思念が届く範囲なら、ふたつの身体を別々に動かすことができるし、視界を四つの瞳で共有できた。
意識も自在に移せるから、活動の主導権を自由にシフトできる。
極めれば、これ、最高かもしれない!
栄生は生来が前向きな性格である。落ち込むときの沈み様も徹底的だが、立ち直りも早い(周囲がついてこれるかは別として)。
腹がぐぅぅと鳴った。
そういえば人界に来てからまだ何も食べてなかった。
初の食事はもう決めてある。
追放が決まってからは、書物庫に入り浸り、人界のリサーチは完璧だった。こちらにいる仲間とも事前に連絡をとり、制服まで用意したのだ。
とくに栄生の気を引いたのは食事だった。かまいたちは雑食だから、森での食事は人間と変わらない。しかし人界の複雑な調理法、料理の種類は、森と比較すると桁外れに多かった。
とくにスイーツと呼ばれる菓子は、見た目も綺麗で、森の果実にはない華やかさと繊細さがあった。
そろそろ行かなきゃ──クレープ、早く食べてみたい。
栄生は立ち上がると尻をパタパタとはたく。
そのとき、とつぜん予想外の方向から突風が吹いて、栄生は200m下に落ちそうになる。
「わ、わわ……わ!」
栄生は腕をくるくる回して、小さな風の渦をつくり、咄嗟に自分を支えた。
風向きを見誤ることなど滅多にない。今の風は、あり得ない、不自然な風だった。
栄生は風の異変に目を凝らした。
風の色合いが、急速に変わっていく。予想よりも速くオレンジからティールへ転んでいる。風の感触も鋭く冷たくなって、荒れた北風が吹き出す前兆だった。
──それだけじゃない。
栄生は宙を睨む。
匂いだ。
栄生を緊張させる“匂い”が、風の中に密度として含まれている。
──何かが、こちらを見ている。
栄生は改めて注意深くあたりを見渡す。変わったところはなにもない。かまいたちも立ち上がり、見えない何かにむけて低い唸り声をあげる。
地上では、張りついた無数の光が、相変わらずゆらゆらと輝いている。遠くでサイレンの音が聞こえる。ときおり下から吹くでたらめな風が、栄生の身体を揺らした。
栄生は正面の高層ビルに視線を向ける。距離は離れているが、匂いはその方角から漂っていた。
風に混じる匂いが、いちだんと強くなる。この匂いは、栄生にとって視線だ。
──知っている。
これは、同族の匂いであり、死の匂いだ。
私たちの骨でつくられた弾丸が、私を狙っている。
それは私を容赦なく骨にする。
一瞬、強く赤い光を照射されたように視界が奪われた。栄生はすぐに、それがなにかを理解する。
《縛界》。
かまいたちから風を遠ざけ、身体を縛りつける捕縛結界だ。
目を瞑り、栄生はさらに風の気配を探る。
間違いない《鎌狩り》だ。かまいたちを狩る天敵。かまいたちを殺し、その骨から武器を造り、またかまいたちを狩る──殺戮のループ。悪夢そのものであり、先ほど勝手に和平を誓った相手である。
「もう居場所がバレてるじゃん……」
栄生はひとごとのように呟くと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
正面からの狙撃に、脆弱な結界──追放されたとはいえ、ずいぶん低く見積もられたものだ。
「こんなの意味ないのに」
栄生は他の一族と違って鎌狩りをそれほど敵対視していない。森では《千年の敵》とも言われるが、逆にいえば、なぜ千年も共存ができないのか、昔から理解ができなかった。
それでも栄生はかまいたちだ。
彼らに見下されることは許せない。彼らが一族を殺してきたのは事実だし、こうして夜景を眺めている無害な自分を、一方的に殺そうとしている。
和平を結び、戦いを終わらせたい。森と人界を行き来したい。敵対と友好の狭間で、早くも──時間にして5分──栄生の決意は揺れる。
それは王族のプライドというよりは、かまいたちの闘争本能が、栄生の平和的思考の邪魔をするのだ。
月は灰色の輝きを増し、西の空は深い闇に塗りこめられようとしいる。さっきまでの喧騒はもう耳に届かない。
「早く撃てばいいのに」
栄生は人ごとみたいに呟いた。
「この風であの距離、けっこう自信家なんだね」
狙撃手の潜む方角を冷ややかに見据える。それから右手の人差し指を左胸に当て、届かぬ声を囁いた。
──ここを狙え。外すなよ。
そして、その目にひとすじの妖しい光が灯る。




