第13話 骨は涙を弾く
「ありがとう、お姉ちゃん!! 僕はね──」
ユンが無邪気に顔を綻ばせたそのとき、背後からタァァンという乾いた音が聞こえた。
次の瞬間には、空気を裂く「ぶぅん」という鈍い音が栄生の頭上を突き抜けた。
ユンの眉間に小さな穴が開く。
彼の小さな手のひらに乗り、ユンを見上げていた栄生は何が起きたのか、すぐに理解ができない。
遠くから晶の呼ぶ声が聞こえる。
「狙撃です!姫さまっ!お身体にお戻りをっ」
栄生を乗せた小さな手のひらが、足元で飛散していく。
「ユン!」
言葉を繋ぎかけたユンの顔は、瞬く間に塵となって消える。綻んだ、あどけない表情のままに。
──鎌狩りの狙撃。
栄生は現実を把握する。ユンは撃たれたのだ、と。自分たちの骨からつくられた弾丸が、彼の小さな頭蓋骨を撃ち抜いたのだ。
ユンの身体は輪郭を失い、風の中に散っていく。
悲鳴もなく流血もなく、ユンの身体は淡々と無慈悲にその姿を失っていく。
ユンの声だけが耳に残っている。
『ありがとう、お姉ちゃん!! 僕はね──』
からん。
栄生の間近で乾いた音がした。
冷たいアスファルトの上に、ユンの白い骨が散らばった。
それは人の骨ではなく、かまいたちの骨格を成していた。
幼生の骨は、風が吹けば飛ばされそうなほど頼りなく小さく見える。
それにも関わらず、ユンの骨の音は、栄生の耳に大きく、冷たく響いた。
栄生は分け身のまま、呆然と白い骨を見つめた。
それは真っ白な枝のように見える。
ぬくもりすら許さない死。
容赦のない死。
圧倒的な死。
ユンの骨は、夜の闇にその白さだけを浮き上がらせるように輝いている。
「うそ……でしょ……」
今そこにあった無邪気な眼差しはもうどこにもない。サラサラの髪の毛も太陽の匂いも、彼という存在は一瞬にして消え失せた。これは夢かもしれない──錯覚するくらいに現実感が伴わない。
強すぎる骨の存在が、生きたものの記憶を塗りつぶすのだ。
ユンは殺されたのだ。もう戻らない。
頭で理解はできても、栄生は目の前の現実をまだ受け入れる事ができなかった。
「姫さま、ご無事ですか!」
晶は瞬時に駆け寄ると、分け身の栄生に覆い被さった。
晶は囁くように告げた。
「姫さま、我々が盾になります。お身体にお戻りを。あちらの姫さまを守りきれません」
そうだ……戻らなくちゃ。
栄生は混乱したまま妖力を切り分け、人の身体に戻る。
「サコちゃん!」
三太に支えられながら、栄生は目を開けた。
視界がぐらつき、足元が揺れる。
身体に力が入らない。記憶がもつれる。
『ぶぅん』という不気味な音が耳をかすめる。
それはユンの額に、音もなく黒い穴を穿つ。
『ありがとう、お姉ちゃん!! 僕はね──』
ユンの声が遠くから聞こえる。
からん。
冷たい骨の音が脳裏にこだまする。
栄生は慌てて口を押さえた。
胃から込み上げるものを必死で堪える。
「三太、死んでも姫さまを守れ」
晶の檄が飛ぶ。
「へへ、爺ちゃん、俺が死んだら誰がサコちゃんを守るんだよ」
三太は自信ありげに拳で胸を叩いた。
「大丈夫か、サコちゃん。もし歩けねーなら……」
「もう大丈夫。三太、ありがと」
栄生は初めてかまいたちの死を見た。
◇
「見つけた!」
蒔絵は呟くと同時に駆け出した。
並外れた反射神経が意志より先に命令を下す。
(狙撃された。蒔絵がついていながら……)
蒔絵の目には冷淡な光が帯び、表情の色が消えていく。
高架橋の近く、細い路地から覗いた黒い銃身を蒔絵は見逃さなかった。
(鎌狩り──今度は許さない。お姉ちゃんが許しても、私が絶対に許さない)
蒔絵は風を捉えて駆けると、くの字に曲がった街灯を足場に夜空へ跳び上がる。
さっきの三下とは違う。
迷いのない殺意が込められた一撃だった。
(男の子が一瞬で骨になった)
かまいたちは、自分たちの骨に殺される。物理攻撃を受けても致命傷にはならない。一族の骨だけが、唯一彼らに死を与える武器なのだ。
それはいとも容易く彼らの命を奪い、瞬時にその身体を骨化する。
でも蒔絵は恐れない。
男の子を殺したこと、栄生を悲しませたこと、なにより栄生に銃口を向けた行為が、蒔絵の恐怖を蹴散らし、我を忘れるほど激昂させた。
(射線がズレていたら、お姉ちゃんに当たっていたかもしれない)
考えただけで、全身の毛が逆立った。
(お姉ちゃんを守るためなら、私は何にだってなれるんだ──)
蒔絵は信号機の上に立つと、路地裏を走るふたりの人影を見つける。
逃がさない。痴れ者が!
◇
晶は蒔絵の姿を目で追いながら次弾に備えた。
(しばらく姫さまは動けない。ふだんは気丈に振る舞われているが繊細で脆い一面もあるお方だ。問題は──)
銃声が聞こえたとき、反応がわずかに遅れた。
不覚。
今さら歳のせいにするつもりはない。若い者に体力では敵わないが、長年の経験はかけがえのない財産だ。であればここでも狙撃の可能性を考慮すべきだった。
晶は思考を巡らす。
次弾装填までに猶予はある。“骨弾”は鎌狩りにとっても希少なはずだ。狙撃は一度で済む可能性が高い。だが狙撃手が複数いる可能性も捨てきれない。
なにより姫さまには壁役がいない。妖術戦であればいくらでも対抗できるが、骨による物理攻撃だ。あれに対抗し得る防壁結界は、壁役にしか展開できない。
現状、退却がいちばんの好手だが、姫さまはまだ回復途上、おまけに目を離した隙に蒔絵が突っ込んでしまった。あの子なら大丈夫であろうが、万が一に備える必要がある。
晶の経験と勘が導き出した最適解は、至って単純なものに落ち着く。
──次弾があれば素手で掴みとればいい。
栄生は三太に支えられながら、定まらない視線を宙に泳がせている。
無理もない……と晶は改めて思った。
跳ねっ返りの三女、礼儀知らずのポンコツ姫などと揶揄されても、王室育ちの箱入り娘なのだ。実戦は今日が初めて、同族の死を目にするのも初めてだろう。
晶は栄生に背を向けると、必要以上に胸を張り、大きな声を張り上げる。
「姫さまぁ、ここはこの晶にお任せを!なぁに、心配ご無用!かつて“四眼の風刀”と呼ばれた力はまだ衰えておりませぬ。それより──」
晶は振り返り、小さく微笑む。
「ユン殿の骨、決して奴らに渡してはなりませぬ。お助けになられた責任、しっかりと果たされませ!」
◇
(助けた責任……)
晶の言葉が胸を突く。
(そうだ、私にはまだできることがある)
吐き気が治まると、栄生はふらつきながらも散らばった骨を拾い集めた。
ユンの骨は、触っただけで折れてしまいそうなほど細かった。栄生はひとつひとつを丁寧に拾い上げ、手のひらにのせていく。
『人に化けられなかったのに、大丈夫かなぁ』
ユンの声がまた聞こえる。
『お姉ちゃん、ありがとう』
ユンの声がまだ聞こえる。
深い森、幻想の森、ユンの森。
ユンはあの森に帰れたのかな。
あの子は私に何を伝えたかったんだろう……。
栄生は跪き、手のひらに視線を落とす。
骨は軽くひやりと冷たい。
無表情の骨たちは何も語らない。
優しい風が吹き抜けた。
記憶は淡く、彼の面影が溶け出していく。
遠くでユンの声が聞こえた気がした。
栄生の瞳から、今夜、2度目の涙が落ちる。それはユンの骨の上を伝い、手のひらを濡らす。
栄生は長いこと手のひらに落ちた涙を見つめていた。
どこにも染み込まず、どこにも行けない涙の雫を。