第11話 なぜならここに銃がある 前編
時間は少し巻き戻る。
山梨と千佳は竜巻の気配を追い、渋谷駅へと辿り着く。
◇ ◇ ◇
「千佳ちゃんはクルマの中に!」
山梨は明治通りにバンを停めると、慌ただしくドアを開けて車道に降り立った。そして荒れ狂う強風の中、目を細めて夜空を仰ぐ。不穏な風の気配を追ってクルマを走らせたが、事態は予想以上に深刻だった。
(竜巻になってやがる。空から降りてくるのか)
青白く光る竜巻は、まるで空の底から這い出た龍のように、巨大な渦をくねらせている。地上に近づくほどその渦は細くなり、高速で回転しているのが見えた。
(降下地点は──スクランブル交差点か)
山梨が知覚できるのは風の流れだ。肌に感じる風の感触や温度から“流れ”を感じとることができる。千佳をピックアップする前からその兆候はあった。風向きの変わり方が不自然だったし、わずかに空気が吸い上げられるような挙動があった。
おおかた小さな“つむじ風”だろうと予測していたが、渦は、山梨の想像を超える速度で成長していた。
そして、それは唐突に訪れる。
──風が止んだ。
あれほど地表を激しく揺さぶっていた風が嘘のようにぴたりと止む。空気の流れというものが不自然なほどにない。まるで時間が止まったようだ。
次の瞬間、落雷のような閃光が走った。
(やべぇぇぇぇ!)
山梨は急いで植え込みの陰に身を隠し耳を塞ぐ。
──凄まじい衝撃音。
風の塊がJRの高架橋を突き抜け、路上の車両を次々と宙に巻き上げる。何人かの通行人が紙切れのように吹き飛ばれるのが見えた。道路標識がくの字に折れ曲がり、砕け散った商業ビルのガラスが雨のように降り注いだ。
「千佳ちゃん!」
振り返ると、山梨たちのクルマは無傷のままそこにあった。幸いにもビルの陰になり、衝撃波を受けずに済んだようだ。竜巻は跡形もなく姿を消していた。しかし、まだだ。空気が空に吸い上げられている。
千佳が慌ててクルマから降りてきた。
「隊長、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとびっくりしちゃったよ」
山梨は気の抜けた笑みを浮かべると、肩についたガラス片をはらった。
「今のはいったいなんです……?」
「竜巻が急降下した衝撃波だね。ドロップバースト。予想以上だ。次が本命だよ」
「本命って、また今みたいのがまた来るんですか?」
山梨は手のひらを見せて千佳の質問を静止した。
「それより救助要請。怪我人がいるはずだ」
山梨は胸ポケットから無線機を取り出して発報のボタンを押す。
「隊長の山梨だ。渋谷スクランブル交差点にレベル3の竜巻を確認した。陽平、咲、合流できそうか?」
しかし返ってきたのは、耳が痛くなるほどのノイズだけだった。
「困ったな。無線が死んでる」
「ジャミングですか」
「だろうね。ただ、これではっきりした。ジャミングは第1種が近くにいるという証拠だ。奴らは電子機器を狂わせる。千佳ちゃんの見た娘がまだ近くにいるのかもしれない」
「あの竜巻も彼らの仕業でしょうか」
「いや、これはまた別クチだね。連中ならもっと強烈な“圧”がある。これはなんていうのかな……フラフラしてて頼りない。風そのものが迷っているみたいだ」
山梨は微笑むと、“だろ?”みたいな顔をしてみせた。
千佳にはまったく理解できなかった。風の“圧”や“質”の違いなど、狙撃の訓練では教わらない。もちろん狙撃手にとって風読みは重要だが、山梨の感じ方は根本的に違うもののような気がした。
「千佳ちゃん、救助は後まわしにする。どのみち、次の竜巻をなんとかしないと被害はさらにでかくなる」
「え?──でも……」
千佳の反論を予想していたように、山梨は間を空けずに言葉を続けた。
「クルマは危険だ。ここからは足で走る。竜巻の中心はスクランブル交差点に降りてくる」
「ふたりで、ですか?」と、千佳は目を丸くする。
「そだよ」と、山梨も目を丸くする。
「そこの高架橋をくぐれば、走っても3分の距離だ。千佳ちゃん、足は速いよね?」
「隊長、この風で狙撃なんてできません。私は入所してまだ3日目です。先ほどのミスもあります。いきなり父のようにお役に立てるとは思えません」
言い訳を並べて千佳は早口になる。
父?──言葉を繋ぎながら情けなくなる。私はこの期に及んで何を言っているのだろう。勝手に立ち上げた理想の自分像と現実の落差に吐き気がする。
千佳の両親は鎌狩りだった。
父は鎌狩りの中でも名の知れた狙撃手で、母も結界班を率いる実力者だった。千佳は幼い頃から狙撃が得意だったが、母のような優れた結界を張ることはできなかった。そのためか、母はことのほか千佳に厳しかった。生まれながらに結界手の資質がなかった千佳に、母は徹底的に結界手としての基礎を叩き込もうとした。
あなたは私の娘、できないはずがないわ。
なんでこんな簡単なこともできないの⁉︎
お願いだから恥をかかせないで……。
鎌狩りナンバーワンの結界手──そのプライドだったのだろう、今でも母に言われた言葉は、胸の奥底に碇となって沈んでいる。
私はできる。私は失敗できない。
両親のためにも私は上手くやらなくちゃいけない。
違う──
千佳の心拍数が上がり、鼻から小刻みに息を吐く。寒気が走り、肌が泡立った。
そんなことはどうでもいい。私はただ──ただ逃げ出したい。人が飛ばされていくのが見えた。怖い。こんなの嫌だ。死にたくない。
「千佳ちゃん!」
山梨の呼びかけで、千佳は我にかえった。
「さあ、行こう。こんな機会は滅多にないからね。連中の“竜巻”はとくべつなんだ。知っておいて損はない」
そう言うと山梨は千佳の返事を待たずに走り出した。
行くしかない──千佳はクルマのトランクからライフルケースを取り出すと肩にかけ、山梨の後を追う。これだけは置いていけない。
真っ直ぐ立つことも困難な強風だ。まともに風を受けると息ができない。道行く人々は我先にとビルの中へ駆け込んでいく。
自分も一緒に逃げたいと思う。きっと地下街なら被害もないはずだ。そのまま地下鉄に乗って自宅に帰る。熱めのシャワーを浴びて、暖かいココアを飲む──父が生きていたらなんて言うだろうか。頑張ったな、怖かったな、と褒めてくれるだろうか。
突き刺すような風が足元から吹きあげ、千佳のつま先が一瞬だけ宙に浮く。こっちへ来るなと、まるで行く手を阻むように、風が、千佳を拒絶する。
『嫌なら逃げ出せばいい。それは恥でも罪でもないんだ。ただ、逃げどきを間違えないようにしなさい』──よく父はそう言っていた。
「そうだ、いまは逃げるときじゃない」と千佳は言い聞かせる。
そう語った父は、まっすぐな性格で逃げない人だった。かまいたちに殺されたときも、仲間を守って最期まで逃げなかったと母から訊いた。詳しいことは知らない。母はそれ以上のことを千佳に話さなかったし、千佳も訊かなかった。そもそもここ数年、母親とは会話すらしていないのだ。でも千佳には分かる。父は決して逃げなかったのだと。
『風はね、読むんじゃなくて見るんだ。優秀な狙撃手はそれができる。千佳ならきっとできるはずだよ』
風を見る──父は最期にどんな風を見ていたのだろうか。