第10話 ユンの森
## 第10話 ユンの森
──タスケテ、ダレカ、トメテ。ボクハ、ユン。
栄生は迷うことなく竜巻の中へ飛び込んだ。小さい身体であれば、落ち葉のように自然と風に乗ることができる。上手く流れを掴まえてしまえば、あとは回転に逆らわず“泳ぐ”だけだ。竜巻の内部は凄まじい音とともに回転していた。しゅゅゅぅうという、なにかを吸い込むような音は、声の主の悲鳴にも聞こえた。
白い霧に覆われて視界がきかない。渦は不規則な弧を描いて、流れには脈絡というものがない。なにより本体の意識が竜巻に溶け出したことで、風の色がまったく見えなかった。
この風はすでに意識を失い、死につつあるのだ。
──急がなきゃ。
栄生は渦に身を任せながら、中心部へと向かう風の流れを辿る。
「ユン、大丈夫。私が必ず助ける」と栄生は語りかける。
色のないこんな世界で死なせるもんか。
中心に向かう流れがあるということは、まだそこに助けを求める意思があるからだ。望みはある。
栄生は声をかけ続ける。
「ひとりぼっちは寂しかったね。怖かったね」
返事はない。だが風の流れは少しだけ弱くなる。渦の弧が水平を保とうとしている。中心にユンはいるのだ。微かな意識がまだそこにある。栄生にはそれがわかる。
一瞬だったが、わずかに色づいた風の道が見えた──ひとすじの薄い桜色。道しるべだ。ユンは呼んでいる。栄生は回転に逆らわず、桜色の筋に飛び移った。導かれるように中心部へむけて風を泳ぐ。
声が聞こえる。
今度はしっかりとした声だ。
「早く来て。怖いよ……お姉ちゃん、これを止めて」
中心に近づくにつれて風は弱くなり、少しずつ白い霧が晴れていく。栄生は竜巻の主を探した。本体がまだカタチを保っているはずだ。
小さな白い光が見えた。はじめそれは点のように見えたが、次第に大きくなり、瞬く間に栄生を飲み込んだ。眩い光が視界を奪う。
目を開けると、栄生は森の中にいた。
樹木と土の匂いがした。風が吹き、葉がサラサラと音を立てた。木々の間から射し込む光が枝葉の影を落とし、ちらちらと足元で揺れている。木々は密集していて、場所によっては夜のように暗い。どこかで鳥が鋭く鳴いて羽ばたく。
(私たちの森じゃない……)
ここは──ユンの中だ、と栄生は思った。
栄生は森を歩き出した。足元はふわふわして歩きにくい。長い時間、落ち葉が堆積してできた土だ。きっとかなり古い森だ。立派な木が立ち並んでいるが、どれも老齢に見える。樹皮はガサガサで、ところどころに大きな穴が空いていた。
しばらく歩くと、木々の間に小さな人影が見えた。それは少しずつ輪郭をつくり、やがてひとりの男の子が現れる。
(こんな幼いのに転身してる……)
「あなたがユン?」
栄生は男の子を見上げて声をかける。
歳は3つくらいだろうか。大きな金色の瞳が栄生を不思議そうに見つめている。ふっくらした頬が、まだあどけない顔立ちを際立たせていた。おろしたてのような白いシャツに、ぶかぶかのオレンジ色のズボンをはいている。黒いおかっぱ頭は、きちんと切り揃えられている。貴族の家系かもしれない。
「僕のこと助けに来てくれたの?」
ユンの声はまだ小さく震えていた。怖がりながらも、足元の栄生に両手を差し出す。たくさん泣いたのだろう、ふっくらした頬に涙の跡が見えた。
「そうだよ。私は東の森から来たの。栄生って呼んで」
栄生はユンの手のひらに飛び乗った。
「さこお? お姉ちゃん、変な名前」
ユンは顔をくしゃくしゃにして笑った。
さらさらの髪からは太陽の匂いがした。
「さこお、かまいたちのまんまだ」
「うん。人に化けたらさ、身体がふたつになっちゃったんだ」
「知ってる!てんしんっていうんだよね。身体がふたつになるなんて、かっこいいな!」
ユンはそう言うと目を輝かせた。
「人間の身体はどこ?」
「外に置いてきたよ。あとでユンに見せてあげよっか。可愛いからきっと驚くよ」
「ほんと? お母さんより?」
「うーん、お母さんの次くらいに」
栄生は枝葉に覆われた空を見上げた。東の森とは雰囲気が違う。空気が怖いくらいに澄み切っている。
「さこお、ここはどこ……ぼく、人界まで来ちゃったの?」
「そう、ばっちり人界だよ。君はどこからやってきたの」
ユンは少し間をおいてから、小さな声で答えた。
「北の森」
(北の森──晶の言っていたことと関係があるのだろうか)
「そっか。遠くから来たんだね」
「うん。知らないうちに寝ちゃって、起きたら、ぐるぐるが、止まらなくて……」
思い出すだけでも怖いのか、ユンは泣き始める。
「泣かない泣かない! 私も小さいころに経験があるんだ。でも大丈夫。いまここから出してあげるから」
「上手く人に化けられなかったのに、さこお、大丈夫なの?」
「あ、あははは……」
栄生は小さな前脚をバタバタさせる。
かわいくないことを言う。子供はなんて残酷なの……。
「妖術・曲風」
栄生がそう言葉にすると、ぐらりと空間が揺らいだ。空や木々が、波打ち、歪んだ。眼前に広がる深い森は瞬く間に消え去り、視界は夜の渋谷に戻っていく。
「ほらね。すごいでしょ」
栄生は二本足で立ち上がると、得意げに短い前足を広げてみせた。
「今日2回目の大サービスだよ」
「わあ、本当だ!ありがとう、お姉ちゃん!僕はね──」
ユンは屈託のない笑みを浮かべ、言葉を繋ぐ。
このときのことを、栄生は生涯忘れることはないだろう。
タァァン──
竜巻の消えたひとときの静けさを、渇いた銃声が切り裂いた。