第9話 ユンの竜巻
その竜巻は、まるで目標を見つけたかのように急激に下降した。
もはや誰の目にも、それがはっきりと竜巻であることが分かった。白い巨大な渦巻きが高速で回転し、地表のあらゆるものを空へと巻き上げた。
人々は悲鳴をあげ、我先にと逃げ惑う。ある者は地下街へ、ある者は商業ビルに逃げ込む。渋滞で動けないドライバーたちは、路上にクルマを乗り捨て一目散に避難する。
ごぉぉぉという音が次第に大きくなると「パン、パン、パンっ」と乾いた音があちこちから聞こえてくる。空気が破裂するような音だ。
風はさらに凶暴になる。渦は速さを増して、長い紐の先にある鎌を振り回ように、周囲を破壊する。雑居ビルの窓や看板を砕き、路上の観光バスを横転させ、バイクを空高く巻き上げる。
駅前の交番から慌てて駆け出した警察官が、必死に歩行者を駅の中へ誘導していた。竜巻の襲来──ここはテキサスやオクラホマではない。東京渋谷なのだ。
一瞬、嘘のように風が止まった。すべての音が消え失せ、辺りはしんと静まり返る。
けれども栄生の耳鳴りは続いていた。
静寂の中にキーンという甲高い音だけがこだまする。
「あれ、なんだよ、意外と呆気なかったな」
三太が緊張感のない声を出す。
耳鳴りのせいで、そのとぼけた声すら遠くから聞こえる。
──違う。
空気が空へ吸い上げられている。
「姫さま、これは……」
晶も気がついたのだろう。
「蒔絵、耐衝撃! ドロップバーストが来る!」
栄生が叫んだ。
「三縛・呼び白っ」
すぐさま蒔絵が詠唱すると、半球体の結界が4人を包む。
(え、呼び白?)
栄生は展開した縛界を見上げた。
時間にすれば1秒もなかった。
音のない世界に閃光が走る。交差点に球のような小さな光が現れると、それはすぐに収縮して点の光源になった。
次の瞬間、光は一気に弾け、白い衝撃波が四方に飛び広がる。
波は恐ろしいほどの速度で地表を這い、触れるものすべてを破壊した。
耳をつんざく凄まじい爆発音と共に世界は音を取り戻す。
交差点の中心部は大きく窪み、さながら爆心地のようだ。避難が成功したのか、人がいないのが不幸中の幸いだった。
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
縛界を展開した蒔絵が、申し訳なさそうに栄生へ声をかけた。
「詠唱を短くしたから、縛界、もう保たない」
「いいんだよ。おかげで助かった。ありがとね」
栄生は優しく蒔絵の頭を撫でだ。半球の形をした縛界が飛散して消えていく。
「ごめんなさい。“縛界”ってちゃんと言えなかった」
蒔絵はうつむいて謝る。今にも泣き出しそうだ。本当は完璧な縛界を立ち上げたかったのだろう。近侍としての責任感が強いのだ。
栄生は膝をついて励ます。
「蒔絵が簡略したから間に合ったんだよ。ちゃんと詠唱してたらきっと間に合わなかった。しかも“呼び白”なんて凄いよ。私、あんなの使えないもん。蒔絵がみんなを守ったんだよ」
「……うん」
ぐしゅぐしゅと鼻をすする蒔絵にようやく笑顔が戻る。
「そうだぜ、蒔絵。兄ちゃんも死ぬとこだった。“呼び白”なんていつ覚えたんだよ?」
三太も加勢に加わる──ここは兄として妹を元気づけてやらねばなるまい。
「お兄ちゃん……」
蒔絵は顔をあげて三太を見つめる。三太はニッカリと微笑んだ。
「蒔絵、よくやったな」
しばらくの間があいた。
「あのね、お兄ちゃんは、どうでもいいの」
「え……ええ??」
晶は、おどける三太を横目に、孫ながら末恐ろしい娘だと思った。術の詠唱を簡略すれば威力と効果時間は半減するが、それでもあの衝撃波を無傷で受け流した。おまけに王族が使う強力な縛界術“呼び白”を使うとは──芝崎家にこのような才を持つ者が生まれるとは意外だ。蒔絵の成長が著しい。計画を見直す時期なのかもしれない。
「それにしてもドロップバーストとは珍しいですな」
晶はそう言って、蒔絵の代わりに栄生の前に立つ。
「“あの子”が急に降りたから、下向きの風が圧縮されて地表にぶつかったんだね」
「姫さま、素晴らしい観察眼でございます」
「バカにしてるでしょ?」
栄生は口を尖らせて言い返したが、その声は緊張を含んでいた。
まだ終わっていないのだ。
「サコちゃん、あの子ってどの子さ?」
三太はあたりをキョロキョロと見まわす。
ふたたび強い風が吹き荒れ、新たな竜巻が現れる。それは白い渦を巻き、右へ左へと小刻みに揺れ動いている。
「三太、これが本体──」
その本体は、最初に現れた竜巻とは逆に回転していた。中心から外側に向かうのではなく、外側から中心へ風を巻き込んでいる。中心部は白い霧に覆われ、内部はほとんど見えない。威力は桁違いに強力で、自動販売機やクルマが次々と竜巻に吸い寄せられ、空高く巻き上げられていく。
「姫さまには壁役がいない。“盾の陣”を展開する。蒔絵は私と交代だ」
晶が指示するとふたりは素早く盾の陣の配置についた。晶は栄生の正面を守り、三太は背中を警戒する。蒔絵は栄生の横に立ち、第2の目になる。
(夜景鑑賞が厄介なことになっちゃった。鎌狩りに見つかり、晶たちに迷惑をかけ、今度は竜巻だ──ホント、さっさと“壁役”を見つけなくちゃかも)
栄生は天を仰いで、深いため息をついた。
「姫さま、この狂い方、おそらく本体は意識を失っています。無意識下での動きは予想もつきにくく──」
晶は顔を腕で庇いながら言った。風が強くなり目を開けているのもやっとだ。
「大丈夫。私が必ず助ける」
栄生はあの日の無力感と孤独、恐怖をありありと思い出すことできる。見えない力に運ばれていく絶望──この子は私が助けなきゃいけない。
──風の中を泳ぎ漂う。意識が解きほぐされ身体の感覚が曖昧になっていく。それはかまいたちとって“癒しの体験”に近い。しかし、長い時間、風の制御を失い、風に流され続けると、かまいたちの身体と心は風に溶け出していく。濃い霧の渦はその段階を示していた。
「不安だよね。怖いよね。いま行くから」
栄生はユンと名乗る竜巻に語りかける。
「放っておけばそのうち消えるのにさ。さすが元第三王女さまだ」と三太はからかう。「サコちゃん“分け身”でやるなら“身体”は俺に任せとけ」
栄生は口角をあげて静かに頷く。
「三太、不敬であるぞ!! 姫さまとお呼びしろ、姫さまと。いくら歳が同じとはいえ、姫さまは嬰円家の第3王女。己が立場をわきまえよ」
仰々しく語る晶に、三太はこともなげに言い返した。
「サコちゃん、もう王女じゃねーし。関係なくね?」
栄生は吹き出してしまう。物怖じしない三太の性格にどれだけ助けられただろうか。“分け身の第三王女”と蔑まれ、腫れ物に触るよう扱われる日々にあって、三太はずっと昔のままだった。
「サコちゃん、行ってこい!!」
「うん」
栄生は知っている。この恐怖と喪失感は内側からしか救えない──。
「分け身で渦に入る。妖力を全振りするからこっちが留守になる。三太、私の身体に変なことしたら……殺すからね」
「しねーよ!」
パーカーのフードがもぞもぞと動く。そして栄生の“分け身”──オコジョに似た小さなかまいたちは、短い前脚でフードの端をつかみ、愛くるしい顔をのぞかせた。その大きな目にはひと筋の赤い光が帯びている。
「おほっ、分け身って便利だな。なんでこれで追放なんかね」
三太は呆れたように呟いた。
小さなかまいたちは栄生の肩に飛び乗ると、そのまま躊躇なく渦の中へ駆け込んだ。同時に栄生の身体は力を失い、三太へ倒れかかる。
蒔絵が三太を恨めしそうに見つめる。
「ずるい。そのお役目、私が、やりたかった……」