第8話 迷い子
「蒔絵、今の人、見えた?」
栄生が訊いた。すれ違いざま、確かに高校生と目が合った。蒔絵なら気がついたかもしれない。
「今の人?」
蒔絵は不思議そうな顔で振り向くと首を振る。
あの高校生に蒔絵は見えなかったのだろうか?
「お姉ちゃん、鎌狩り、また発見?」
「違うの。ごめん、気にしないで」
鎌狩りでないことは確かだ。しかし、あの高校生は私たちを──正確にいえば私を──確かに見つけていた。2回もだ。
クリスマス・イブを明日に控えたスクランブル交差点は、人とクルマの群れに覆い尽くされている。
駅前ビルの一面に設置された巨大ディスプレイは、休みなく広告映像を流している。サンタクロースに扮した女性アイドルが、クリスマスケーキを切り分け、子供たちに差し出す。メリークリスマス。そんなシーンだ。交差点は映像の光を受けてカラフルに色を変える。
栄生はひととき立ち止まり、足元の光に見入ってしまう。色が踊っているように見えて綺麗だ。
やはり不穏な気配を感じて夜空を見上げる──鎌狩りではない。さっきの高校生が関係しているのだろうか?
冷たいが良い北風が吹いている。しかし、そこには不規則で不自然な流れがあった。それは不吉な予言のように栄生を不安にさせる。
──なにかが近づいてくる。
蒔絵は何かを感じとっているようだけど、晶や三太はまだ気がついていないようだ。
「……サ、サコちゃん、どうした?」
息も絶え絶え、ようやく追いついた三太が心配そうに声をかけた。
栄生は違和感を辿る。風を“読む”のではなく“見る”のだ。色とりどりの風の道が見える。それはしばらく北風が吹き続けることを示している。
しかし栄生は見つける。目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、細い、とても細い灰色の筋が、西に傾きながら螺旋を描いている。
──竜巻だ。
「“迷い子”かもしれない」
夜空を見上げて栄生は呟いた。
幼いころに経験がある。
風の中で遊んでいるうちに戻れなくなったんだ。
信号が変わり、人々の波がまるで大きな黒い塊のようにうねり出す。巨大で得体の知れない生き物のように。
交差点は小さなカオスだ。歩行者の信号が青に変わると、遊びに来た若者や観光客、家路を急ぐ会社員たちによって、大きな交差点は入り乱れる。栄生の目に、そのありようは、さながら“合戦”のように見えた。
異質な風の気配が混じっている。空から降りてくる風だ。風向きなどお構いなしにそれはぐんぐんと降りてくる。
「迷い子ですか」
晶が訊く。
「私には見えませんが」
「間違いないと思う。ほら、あっちの方から流れてくる」
栄生は渋谷駅の上のほうを指差した。
耳鳴りがして、栄生は右耳を塞いだ。雑踏の音すら聞こえないほど、高周波の音が耳をつんざく。
栄生は意識を集中する。螺旋を描く灰色の“風の道”。それは渋谷駅上空から地上へと斜めに流れ込み、人混みの中に溶け込んでいく。
風の輪郭に揺らぎがないのは本体が近づいている証拠だ。竜巻の規模は小さいが力は強い。この交差点くらいの大きさだろうか。地を這うのではなく上空を漂いながら移動している。
「私を探して……ここまで来たんだ」
栄生は目を細め、まだ見えないそれを夜空に求める。
栄生の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇った。
3歳くらいだっただろうか。
止められなくなった竜巻──。
森の近くで風の中を泳いでいた。かまいたちにとって、風に漂うのは気分がいい。風の中に入って少しだけ妖力を使って回転をつくる。やがて風と心が溶け合い、身体の観覚が曖昧になっていく。泳ぐのに疲れると、ただ流れに身を任せ、浮かび漂う。木の葉が風に舞うように。
心地よい流れの中で、栄生はいつしか眠り込んでしまった。作り手が眠ると竜巻は制御を失う。自分で生み出した風は行き場をなくしてしまう。逆に言えば風は自由になる。糸の切れた凧と同じだ。繋がってさえいれば風を自由にできる。しかし糸が切れてしまえば風が自由になる。
やがてそれはひとつの塊になり、渦を形成する。最初は緩やかで小さい渦だ。だが放っておくと次第に大きくなる。回転の速度は上がり、渦は周囲の空気を巻き込む。巻き込んだ空気はまた次の空気を巻き込んでいく。そして制御を失い風は立派な竜巻になる。
気がついたときにはもう手遅れだった。かまいたちの子供は成長した竜巻を止めることができない。妖力が弱いせいで、風を征服することができないのだ。
竜巻と呼ばれる自然現象は、科学の言葉で説明がつくという。しかしその半分以上は“迷い子”によって引き起こされている。人々が知らないのは仕方がない。けれど、それはかまいたちにとっても、避けようのない災いなのだ。
「降りてくる」と栄生は呟く──そして真剣な眼差しを空に向ける。
桁違いの強さで空から風が吹きつけた。
竜巻はいよいよ地上に降り立とうとしている。
突風の一陣が交差点を吹き抜けると、小さな悲鳴が各所から上がりはじめた。
人々は体勢を低くしながら交差点を横断していく。駅前の大型ディスプレイは、風力発電所の映像を流していた。海の上に浮かぶ無数の白い風車たち。『地球に優しいクリーンなエネルギーを!!』と子供達が叫ぶ。
ひときわ風の密度が高くなる。まとわりつくような“重み”のある──ぬるりとした風だ。空気そのものが重さを持つように、地上にあるすべてのものを地表に押しつけ、巻き上げた。
歩道にひびが入り、街路樹の幹が真っ二つに折れる。信号機の支柱が奇妙な形に歪み、マンホールがガタガタと音を立てた。
目鳴りがさらにひどくなる。頭が割れそうだ。
その中で栄生は声なき声を聞く。途切れ途切れだが、頭の中に直接響く声だ。
(──タスケテ、ダレカタスケテ、ボクハユン、オネガイ、ダレカ……)
おそらく竜巻の主だ。声はまだ幼い。
栄生は唇を強く結び、声なき声に語りかける。
怖かったね。大丈夫。私が必ず助けるから──




