98話 褒められたやり方ではないけど
オロルはふと、半人半蛇の敵のことが思い浮かんだ。間違いなく強敵だった。彼女はこう名乗っていた。
『嫉妬のユラ。六欲の欠落者だよ。』
……彼女は、先代の手記で言うところの蛇堕ではないだろうか。
そして同様の術によって六欲を削ぎ落とし、途方もない飢餓と貧食のみを備えた存在が災禍の龍となったのではないかと思い至る。でなければこの大喰らいの説明がつかない。
その推理は当たっていた。しかし半蛇のユラが最期に身を案じ、祈りを捧げた妹が、まさか龍の肉体を形作っているとまでは知る由もなかった。
あらゆる希望を断ち切られた魂を器とし、そこに濃密な絶望を注ぎ込んだことで生まれた破壊の権化は、世界を蝕み、文明を食い荒らそうとしている。
「攻撃に備えろ!!」ガントールがアーミラに向けて叫ぶ。
龍はその巨体に据えた無貌の首をゆっくりと伸ばし、顎を引いて足元の存在を見下ろす。
頭上には燦々と不吉に輝く光輪が出現し、広がりつつある輪の内側へと大気が渦を巻いて吸い込まれている。
「くそ……! どれだけ飲み込むつもりなんだ……!」ガントールは重力方向に拮抗する龍の吸引力を恐れ、奥義を中断して剣を手中に握る。
空腹に飢えた光輪は巨大な口を開けてアーミラを捉えようとしていた。
照らされた範囲の広大さに回避行動が遅れ、死を悟る。もうだめだ――と、絶望が脳裏に浮かぶ刹那に、縮地で迫ったウツロが腰を掴んで攫い出した。間一髪で転がり込んだのは龍の懐、脚の間である。
先程までアーミラの立っていた場所は光が爆ぜ、照らされた範囲のあらゆるものが忽然と消失した。抉り取られた底の見えない縦穴が大地に残される。
穴の断面は艶やかに溶解し、地殻の層が重なる様が見えた。堕ちてしまえば二度とは上がってこれないだろう深い闇の底部は星の内部の層、漸移帯にまで達していた。
膨大な熱量の爆発と、生じた真空によって吸い上げられた溶岩が遠く仄明るい熱を吐き、開かれた大穴からは黒煙と熱波がゆらめく。大気はもうもうと噴き上がった灰に遮られて夜のように帳が落ちる。だというのに荒野は燃え盛る焔で赤々と明るかった。
龍は僅か二口世界を喰むと、そこに地獄を生み出したのである。
「……だめじゃ……」
オロルはつい声が漏れた。
「こうなってはもうラーンマクにいる意味がない」震える声でガントールに指示する。「スペルアベルの西側に誘導……いや、意思がないものに誘導なぞ無理か……とにかくわしらは退がるしかない。邸でもなんでもよい、魔鉱石を補充し立て直すぞ」
ガントールは苦虫を噛み潰した顔で陥落した故郷を眺め、黒々と輪郭を浮かび上がらせる龍を睨む。災禍の龍――名に違わぬ悪鬼羅刹め……。
「おい聞いたか! ウツロ! アーミラ! この地より撤退し、スペルアベルで龍を迎え討つ!!」
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「あなたのせいです……」
這々の体で撤退する継承者の娘達と、鎧。
煤けた頬を袖で擦り、アーミラはまるで仇を見るような視線でウツロを睨み、そう言った。
「誰も傷つけたくないなんて綺麗事言って躊躇うから、被害が広がってるじゃないですか……」
「やめろアーミラ」
諌めるガントールの声を無視して続ける。
「……答えてくださいよ、ウツロさん。先代の次女が行使したのは、神器天球儀を投下する広域爆発の術式ですか?」
その言葉にウツロは足が止まる。首がもしあったなら、据えられた目がアーミラを見つめていただろう。アーミラは振り返って続ける。ガントールとオロルは疲れた顔で二人を待つ。仲裁する気力もなかった。
「『どうしてわかった?』――って感じですか? 私とオロルさんで手記を手掛かりに打開策を考えたんです。思いつく限り一番威力のある攻撃方法はこれでした……先代も同じ答えを導き出していたみたいですね」
――絶対に使うな。
そう書き記したウツロの言葉をアーミラは読まずに歩き始める。
「この考えが先代と同じかどうかわかればいいです。もうあなたの言葉は届きません」
酷く気まずい関係の罅にかける声もなく、ガントールは先を行くアーミラに続き平原を目指した。
ラーンマクの地を踏むときは崩れるなどと気ほども疑わなかった分厚く堅牢な防護壁の国境線も、今は無惨に毀たれた瓦礫の山となっている。
ラーンマクとスペルアベルの道半ば、ギルスティケー辺境伯の邸へ向かうアーミラ達の前に討伐隊の男達の遺体があった。彼らはニールセンの部下であり、未だ手付かずとして野晒しに放置されていた。赤黒く湿った遺体の損傷部に蛆が湧いているのを見て、これではあまりに可哀想であるとガントールは訴える。しかしこちらとて埋葬する暇はない。
「……褒められたやり方ではないけど」と、ガントールは続けざまに提案した。「魔鉱石の調達がしたい」
前後の言葉に繋がりがなく、含みのある言い方にオロルは怪訝そうにして、一歩踏み込んで先を促す。
「死体漁りか? 状況を考えれば責められることでもないじゃろう」
「……ですが、貴重品の類は回収されていると思いますよ」と、控えめにアーミラは言う。
ガントールは首を振った。
「そうじゃない」俯いて翳る彼女の顔は葛藤に揺れていた。「彼らの遺体を、私の力で石にしようかなってさ……」
「そんなことができるのか?」
「うん、できると思う。全方位に圧縮する摩擦の熱量で骨を結晶化するんだ」
簡単に言うが、圧縮の工程でかける力は長女継承者にしか実現できない。唯一無二の術式であり、言うなれば外流奥義である。
「このやり方が彼らの弔いになるかはわからない……でも野晒しに朽ちていくくらいなら、有効に、使ったほうが……いや、使うってわけじゃなくて、わかるだろう……?」
「それを龍に使えんのか」
「龍は大きすぎて、圧が分散されるんだ」
ガントールは詳しく説明することすら後ろめたいことのように歯切れ悪く訴える。この行いが決して褒められたものではないのだと、提案している本人が一番よくわかっているのだ。その葛藤が表情にもありありと表れていた。
今なら他の誰も見ていない。
この先も戦闘を続けるには魔鉱石は必需だ。
だが神に選ばれ民の希望である私達が、遺体を弄するのは……。
龍を打ち倒すためにもアーミラはその案に乗りたかった。魔鉱石はいくらあっても足りず、喉から手が出るほどに欲しい。この場に倒れている骸が石に代わってくれるのなら仲間のみならず禍人もトガも全て変えてほしいと言うのが本音であるが、喉元に留まる言葉は声に出せずにいた。
「……やってくれ」
小さな鼻を捻るように脂を拭い、搾るように言ったのはオロルだった。
「理想論も現実論もなんとでも言える。全て抜きにして、わしは石が必要じゃ」
きっと討伐隊の魂も「まだ戦える」と言っている。その想いを石にして携えていこう。とか、
正義の番人である長女継承者が我が身可愛さに骸を利用するなど到底「美しくない」。とか、
賛成にせよ反対にせよ口先の論は幾らでも用意できた。それらの言葉を並べてガントールの背中を押すか、手を引くか、どちらもオロルにはできただろう。しかし、言葉巧みにガントールを操ろうとはしなかった。
あくまで自分がそれを求めているのだと白状した。「わしのために、手を汚してくれ」と、オロルは頼んだのであった。
「……わかった。……ありがとう」




