97話 お断りだ。
「自暴自棄になったのならずっと篭っていればいい。彼女にはその選択があった……。ですが、まるで最後の手段かのように部屋を出ています。『やれることは限られている』と記して、杖を手放す行為を『勇気』と表現しました。彼女らしくない表現です」
「皮肉を込めたのじゃろうよ」
「だとしたらここは『私も杖を手放し、勇敢な臆病者になる』と記すはずです。言い回しは常に統一されていましたから……」
確かめるようにもう一度手記を開き、最後の言葉に目を落とす。
「残せるものはない……? 術式とは関係なく……? 何を覚悟してそんな後悔を書き残したんでしょう……」
頭を抱えるアーミラの一連の様子を見ていたオロルは不意に叫んだ。
「そうか!」
「なにかわかりましたか……!?」
縋り付かんばかりのアーミラの視線。
オロルに笑みはなかった。確信はないが閃いた、ということだろう。
「彼女は手放し、後に残せるものがない。意味を成さなくなった。――つまり奥義に杖を使ったのじゃ」
「……えっ、杖は、私も使ってますよ?」
「なぜここで鈍くなる……よいか? 天球儀の杖を杖として使ったのではない。そこに嵌め込まれた宝玉を、もっと言えばこの驚異の部屋を龍にぶつけたのではないか?」
驚異の部屋を龍に……。
そんな荒唐無稽をどうやって――と言いかけて、アーミラは首を振る。あり得そうにない無茶だからこそ先代は龍を倒せたのではないか。
先代が『残せるものはない』と憂いたのは、次代の継承者に引き継がれるはずの杖を壊してしまう覚悟を決めたからだと考えれば道理が通る。手記の白紙は、もう何を書いても消えてしまうのだと悟ったからこそ、突然手記は白紙となった。
「でも、なら、なんで杖があるんです? 手記も、蒐集品の全部も、なんで……?」
「それだけがわからん。じゃから確信はない。……じゃがこの推理が間違いだとしても、名案だと思わんか?」
オロルの問いにアーミラは否定も肯定もできない。
考えつく限りでは有効な打開策だ。先代の用いた手段と違っていたとしても、龍を倒すだけの破壊力は期待できるかもしれない。
だが、もしもこの手段で龍を倒しきれなかったら? アーミラはその時点で神器を失い反撃の手段はなくなる。身を守ることもできないとなれば必死だ。
「他に手段がないのなら、杖を使いましょう」
アーミラは重たい口を開いて、覚悟を決めた。
己の生死よりも災禍の龍を倒すことを選ぶ――そんな決断だった。
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「ガントールさん!」
駆けてくる気配にガントールが振り向き、当代継承者三柱が集結する。スペルアベルでもラーンマクでもなにかと別行動が多い彼女達が揃うのは実に久しぶりのことであった。言葉はないが小さく微笑み、互いの視線を交わし合って無事を喜ぶ。
「さて、……龍に変化はないのぅ」
オロルは聳え立つ龍を見上げた。ガントールに足止めを任せてから戻ってくるまでの間、状況に大きな変化はない。白痴の巨人は上から押し潰さんとする重力によって地面にめり込み、踝まで埋まっている。顔の周りには剣が飛び回り、はたき落とさんとする手の肉が抉り取られていた。剣を防ぐ度に血の雨が降り注ぎ、地面を赤く染める。
災禍の龍に痛覚はないのか、それとも痛みを訴える器官が備わっていないのか、ずたずたになった指をそのままに、血を撒き散らしながら首を守っている。
「このまま仕留められそうではないか?」
「悪いけど無理だ」ガントールは苦笑する。「石も活力も限界だよ」
気丈に振る舞ってはいるがガントールの顔色は随分悪い。奥義を行使したことでかなり消耗しているようだった。オロルはなけなしの鉱石を使ってガントールの疲憊を癒す。
「ここに来たってことは打開策は見つかったのか?」ガントールは問う。
「そうです」手当を受けるガントールを心配そうに眺めていたアーミラが、思い出したように顔を上げて鎧を探す。「ウツロさんは」
名を呼ばれた鎧は少し離れたところから現れた。圧砕の影響で隆起した岩盤層の陰に待機していたようだ。
「お聞きしたいんです。先代の次女継承者について」
ウツロは駆け寄る歩調を緩めた。
アーミラは続ける。
「龍を倒した奥義のこと」
目の前に対したウツロの沈黙を、アーミラは心のどこかで予想していた。
彼は先代のことを語りたがらない。きっと壮絶な死別の悲しみを背負っているからなのだと、今は理解できる。それでも、教えてほしい。
「ウツロさん……あなたの過去のことを知りました。ほんの断片的なものですが、前にお話しした手記のことは覚えてますか?」
その問いにウツロは肩を竦めるようにして応えた。
「杖の中で鎧を見つけたこと。先代の三人が魔導具としてあなたを喚び出したこと。そして仲間として共に戦ったことが書いてありました。……その結末も……。
先代と死に別れた悲しみは分かります。だから語りたがらないんでしょう?」
ウツロは腕を組んで躊躇っているようだ。
アーミラは畳み掛ける。
「でも今は必要なんです。次女がどのように災禍の龍を倒したのか、せめてそれだけでも教えてください」
組んでいたウツロの手を取って解き、アーミラは哀願するように頼み込む。斧槍を握る方の手が地面に言葉を書き始めた。
――手記に書いてなかったのか。
「はい……」
――なら残すべきものではないとデレシスは考えていたんだろう。
「そうとは限りません。龍を倒す力……もし生き残れたのなら、きっと手記に残したはずです。当時を知るあなたの力が必要なんです」
アーミラは頼み込む。
正直なところ、渋々でも教えて貰えるものだと踏んでいた。
共にここまで旅をしてきた仲間。その紐帯の絆が互いの内面の秘密さえも打ち明けさせるだろうと信じていた。ウツロとの信頼は篤いものだと……。
ウツロは斧槍を脇に挟み、握られている手を解くようにアーミラの指を剥がす。後退りながら両手を軽く上げて、やんわりと体で示していた。
――お断りだ。
「なんで……」
追い縋るアーミラを近づけさせまいと得物を握り、地面に石突を走らせる。
――はじめに言ったように、龍は俺がなんとかする。皆は逃げて欲しい。
「……だから、それはないって言ってるじゃないですか!」
まるで人が変わったかのようにアーミラは語気を荒げて怒鳴った。何やら様子がおかしいとオロルとガントールが二人の様子を遠巻きに窺う。
切羽詰まっているのだと突きつけるようにアーミラは龍を指差してウツロに迫る。
「あなた一人では災禍の龍は倒せない。そうでしょう? なにをそんなに隠しているんです?」
――教えたらきっと使うだろう。死なせたくない。傷つけたくない。
「あなたの気持ちはわかってます。私も死ぬつもりはありません」
そう言ってアーミラは再び歩み寄るが、ウツロは肩を掴んで押した。体勢を崩したアーミラはよろけて、拒絶されたことに戸惑いながらも視線で責める。
――わかっていない。もうどうしようもなく傷ついてる。
――先代の三人だって最後はどんな顔で俺と離れたか、アーミラは何にも知らない。
「そん――」
アーミラは反駁を言いかけたとき、異様な音が響き渡り、声を掻き消した。
地獄の釜が軋みを上げて開くような、全身の血が凍りつく、恐ろしい音だった。
「なんの音じゃ」オロルも見当がつかず、あたりを警戒する。
「まさかとは思うが……」ガントールは青褪めて龍を見上げた。「腹が鳴ったんじゃないか」
馬鹿馬鹿しい……とは言えなかった。
災禍の龍がなにをもって世界に破壊をもたらすのかは皆が知るところ。マハルドヮグ山を一齧りして飲み込み、白痴となって沈黙していたのは腹の中のものを消化していたからだとしたら、この異様な音の正体がわかる。




