96話 わしが知るか
『慧は无雲経の下で戦闘に参加。ラーンマクに命じられ従う後、咎二体、禍人一体を倒す。心がっかりと杖へ篭る。』
「がっかりとはなんじゃ」
オロルの呟きにアーミラは思考を巡らせる。
ウツロが初めて敵を討伐したことを記した場面である。敵の弱さ、呆気なさに意気消沈するような質ではないから、ここはおそらく――
「自分の行いに傷付いたということだと思います」
「そこまでの心が奴にあるのか? ほとんど人間ではないか」
関わる機会がなかったオロルには、わからなくとも仕方のないこと。しかしアーミラは解釈に自信があった。当時のウツロはきっと心を痛めたのだ。そして彼の過去は別れの痛みによって紡がれた物語であると理解しつつあった。
手記の内容は鎧についての記載が減り、長引く戦闘への心労、ときに弱音も赤裸々に綴られていた。
『私が驚いているのは、神殿であれだけ優秀な成果を上げても、いざ本物の敵を前にすると光弾が当たらなくなることだ。この傾向は決して私だけでなく、前線のあらゆる戦士にも当てはまる。意気揚々と挑み放った魔呪術の打ち合いは、致命傷にならないようにと互いに遠慮しあい、結果として当初想定されていた以上に戦役は長引いている。そう、あらゆる戦士とは敵も含まれている。そうでなければ撃ち合いが長引くことに説明がつかない。』
『日を追うごとに良心的兵役拒否者が増えてきている。ラーンマクが率いる遊撃部隊ではその傾向がいっそう顕著であった。彼らは禍人種さえも人間に見えているようで、ラーンマクがどれだけ命じても敵を殺すことを躊躇い、神殿からの命令と心理的抵抗の狭間に身を置く戦闘行為に、著しく活力を疲弊させているようだ。』
『アルクトィスも同様の問題に頭を悩ませているらしい。火線部隊の兵士達を調べたところ、持ち合わせの魔鉱石の消費量が少なく、全く使用していない者までいたという。割合として兵士が一〇〇人いた場合、敵に光弾を放ち仕留める者はおよそ二割しかおらず、残る大半はわざと狙いを外すか、負傷した仲間の救護を率先して行う、いわゆる勇敢な臆病者で溢れていた。』
『この勇敢な臆病者が一番に恐れているのは「死や負傷への恐怖」ではなく、「相手を殺す恐怖」である。この問題に対応するために私達砲撃部隊は、強制的に禍人を咎に戻す呪術結界を展開するに努めた。また、砲撃の距離が離れているほどに殺人の実感は薄くなる――曖昧な狙いがどこに飛ぶのか制御できないことによる責任逃れができる――ようで、砲撃部隊を遠距離に配置することで敵殲滅率が改善された。
その一方で、回路を組み立てた私もまた、勇敢な臆病者になろうとしている。』
表現に乏しい文体は相変わらずだが、飾り気がないからこそ記される数値や割合には説得力があった。難航している先代の苦労や背負った傷が刻々と紙面に浮き上がるようで、二人は会話もなく読み進めた。
『咎よりいっそう恐ろしい敵にラーンマクは倒れた。私達は奴を蛇堕と呼んだ。』
彼女は怯えてばかりの鎧をよく叱り、戦争の勝利へと強く導く厳しい女性としての印象があったが、手記全体では折々に仲間を支え頼れる人としても記されていた。おそらく筆舌に尽くし難い悲しみが当時の継承者にはあっただろう。この一文を残すのが精一杯で、短い記述のなかに悲嘆の影が窺えた。
その後頁を捲ることもないほどすぐに、三女継承者も倒れたことがわかった。
『アルクトィスは蛇堕と相打ちに倒れた。毒を浴びていた彼女は時を止めている間にも侵されてしまったようだ。慧は悔しさに荒れている。』
三女と蛇堕はここで倒れた。
手記に書いてある通り、毒を操る術に翻弄され、優位に立ち回るために三女は時止めを行使したのだろう。決着がつく頃には一人手遅れになるほど毒が回ってしまったらしい。恐ろしいことにこの蛇堕という存在は継承者を二人も倒している。
確かに、毒が効かないウツロがもっと上手く立ち回れたならば救えたかもしれない。簡潔な文では詳しい状況がわからないが、読んでいる限りではアーミラはそう思ってしまう。どうやら昔のウツロは、あまり戦いが得意ではないようだ。
「終わりが近いのではないか」オロルは言う。
この手記は分厚い装丁だが、内容はもう先がないように見える。次の頁が手付かずの白紙になってしまうか、危ういところだ。
アーミラはそっと紙を捲り、そこにまだ文字が記されていることに安堵した。しかし内容に目を通せば、状況が悪くなる一方だ……というより、結末は初めから知っていた。
『厄災が地の果てより現る。』
筆跡が震えていた。
読んでいる二人も息を呑み、紙面を見つめる。
てっきり、『蛇堕』と呼ばれるものが災禍の龍だとばかり思っていたのだ。
『慧が私の代わりに戦っている。私は臆病者だ。杖に引き篭もってこれを書いている。』
「なんと……」一文を読みオロルは落胆したようだ。
「でも、気持ちはわかります……仲間を失って、龍を初めて目にして、戦うなんてできないです」
アーミラは亡くなった先代の名誉を守るために擁護する。同じ次女継承の立場から、他人事にはできなかった。
「じゃが――」オロルは指をさし、続きを読めと促す。
『やれることは限られている。ここから出て杖を手放す勇気だ。』
『もし次代があるとして、次女に娘が選ばれるとして、残せるものはきっとない。』
『この手記も意味を成さなくなった。これは本当にそうだ。術式とは関係なく心からそう思ってる。』
この言葉を最後に、あとは捲れども白紙が続いていた。
アーミラはやや乱暴に次々と紙を捲り、どこかに隠れた一言がないか探した。
何も見つからない。
「どうやら自暴自棄になったようじゃな。……確かに手記は本物じゃ。偽書らしい色付けもなく武勇伝の語りもない。先代は最後に龍もろとも死んだのじゃろう」
「……どうやって……?」
「わしが知るか」
二人は結局奥義の手掛かりを得られず、先代の死に様を読んだだけだった。気分は苛立って互いに口調が荒くなる。
何かあるはずだと、アーミラはもう一度最初から読み始める。なんの変哲もない日々の記憶が綴られている。
全く無意味だった……? そんなことがあり得るだろうか。
本当にわからない。
手記の内容が先代の歴史として真実なら、災禍の龍と相打ちになったのは次女だけだ。……いや、オロルの言う通り自棄になって死んだのなら、戦場に取り残されたウツロが一人で倒したと言うことになる。
ならばウツロに聞こうかと、立ち上がり部屋を出ようとして、ある一文が引っかかった。
『やれることは限られている。ここから出て杖を手放す勇気だ。』
部屋を出て、杖を手放す……――
「……なんで部屋を出たんでしょう……?」
「……なんじゃと?」
オロルは気味が悪そうにアーミラを見上げていた。いきなり立ち上がったかと思えば頭と抱えて、部屋を出ることに首を傾げた。「こいつも気が触れたのか」と思ったほどだ。
だが違った。
アーミラは、無いと思われた手掛かりを掴もうとしていた。




