93話 みんな……どこに……
アーミラとオロルは徐々に災禍の龍の脅威を体感していた。
無防備かつ無抵抗に血を流し続ける人間を象る印として戦場に現れ、すべての悲しみを受け止める器のようにそこに存在していること――その在り方自体が一種の儀式的、呪的な価値を持っていると理解したからだ。
同時に、オロルは刷り込まれた知識を思い出していた。
『何故トガは人に化けるのか』……いや、この問いは因果が逆転している。『何故神殿は結界を張り、禍人種をトガへと書き換えるのか』
その答えは災禍の龍が体現していると言っていい。
人の姿で立ちはだかる敵を殺すのは、精神負荷がかかるのだ。
人を殺す状況に常人は強烈な抵抗を感じる。
自分自身を危険にさらす状況においても、他者を殺めるというのは本当に最終手段なのだ。例え「人に化けているだけだ」と暗示を重ねても、躊躇いなく禍人を手に掛けることは生まれ持っての素質と慣れが必要となる。姿形に囚われず認知を歪め、深層意識にある禦衛機構を取り払う素質と慣れがなければ、まず行動に移せない。
この論理の延長に災禍の龍の姿がある。
今オロルとアーミラの攻撃は少しずつ威力を弱めようとしていた。
ラーンマクに身を置いてきた戦士、あるいは神殿から派兵された兵士ならば、もっと容赦の無い砲撃ができただろう。もっとも、彼らの扱える術式では、全力を持ってしても威力は神器に劣る。
継承者二柱の砲撃が弱まっているのは、魔鉱石の蓄えが減っているというだけではなく、活力の激しい消耗が原因である。有り体に言えば、オロルもアーミラも、無抵抗に血を流す巨人の痛ましい姿に心が痛むのだ。こちらが悪意を持って挑むほど、精神負荷も比例して跳ね上がる。凄惨な疵痕を見せつけられるほどに罪悪が闇より染み出し、畏怖の念に心を囚われる。どれだけ心を奮い立たせていても、災禍の龍という人の印を象った化け物を一方的に痛ぶり続ける精神面の負荷は大きい。
こうなれば、一気呵成に場は動き始める。
戦況というのは生き物だ。僅かな勢いの優劣が戦線の全体へ波及し、状況が変化する。継承者とはいえ内地の娘。その二人が龍に圧される様は遠く離れた戦士にもよく見えた。
巨大な化け物が砲撃をものともせず迫る姿に神殿側は恐れ慄き、禍人共は背を押されるように励まされる。南から勝鬨と吶喊の雄叫びが轟き、戦士は劣勢に後退するのが見えた。このままでは戦線が危うい。
じりじりと迫る龍に成す術なく前線が押し上げられている。未だオロルとアーミラは砲撃を再三、再四と重ねるが、肉を穿ち血を流させることはできても、骨を断つことができない。
苦労しているオロルに加勢する形で、アーミラは龍の脳天に矢を放つ。熱線と合わせて龍の額を切り裂いた。皮膚を千切り、頭蓋に鋒を滑らせた槍が不恰好に肉を抉り、毀たれた肉塊がその質量を伴って落石のようにごろりと地に落ちる。熟れた果実が蜜を弾けさせるが如く赤い飛沫を撒き散らして転がる。遠目に見ればただの肉片だが、足元から見上げれば肉塊の質量は巨岩と大差ない。
落下した場所はラーンマクの内側、オロルとアーミラが初めに陣取り、砲撃を行った地点だった。
欠損を気にもせず、龍は己の欠片の上空を通過する。
詰められた距離の分だけ、継承者は引き下がって立て直しを図る。が、ラーンマクの防壁はもう背に迫っていた。
翼を裂かれ、頭骨の露出した災禍の龍は、ラーンマクの領空を侵犯し前線を追い詰めている。
覚悟こそしていたが、前線の失地をついに許してしまった。それに気付いた時、オロルは肩で荒く息をして、呆然としていた。あまりにも成す術なく、勢力は押されている。
一度の攻撃もなく、災禍の龍によって戦線は瓦解し、壊滅的被害を受けていた。
――何人死んだ……?
オロルは考える甲斐もない疑問が浮かぶ。
禍人の攻勢に撤退を余儀なくされた戦士や兵、彼らはわしらが龍に拘う間にどれだけ切り伏せられただろうか。
酷く渇いた喉に僅かな唾液を嚥下して呼吸を整えるが、砂埃と日差しに晒された体は余計に渇きを自覚させるだけだった。
どこで選択を誤ったのか、オロルにはわからない。
いかんせん砲撃の効果が認められるせいで別の策を立てる判断が遅れた。いや、そもそも別の策を立てるとして何ができた? 魔呪術しか能のない継承者に災禍の龍を倒す手段は光弾を放つしかない。もっと前の段階でやれることはあっただろうか……。
過ちを探るために思考を辿れば、行き着く結論は単純なものだった。
挑むべき相手ではない――揺るがぬ事実が、賢人の心をへし折る。
龍はラーンマクの防壁を前に一度侵攻を停止する。まるで流れる雲が山脈に阻まれ堰き止められたようだった。
見上げるものは血相を失い絶望する。
ここに来て初めて、龍の首が動いたのだ。
目覚めの身動ぎのように、無貌の首が揺れる。
アーミラは……いや、龍の覚醒を目にした者は皆、きっと同じように身を強張らせて立ち竦んだだろう。見上げるほど巨大な化け物は目を覚まし、次に額の痛みを自覚して右手の指先でそっと血に触れ、顔の前に指を運んだのだ。
白い指先に付着した血の赤を暫し見つめていた。
この長く短い沈黙の中、生きた心地がしなかった。
災禍の龍はもはや人類の上位存在、敵う相手ではないことは明らかだ。
その巨人が微睡みの中にあるときに、矮小な、鼠や虫螻同然の我らの内の誰かが、粗相を働き傷付けた。
荒ぶれば禍事――仲間であるはずの戦士ですら、「お前等があんな事をしなければ」と、不届者を責めるような視線を継承者に投げかけていた。
龍は目鼻のない丸い顔の中央に皺を寄せて怒りを表すと、大きく息を吸い込むように背を仰け反らせて顎を引いた。呼吸とは全く異なる理によって、龍は鼻腔も鼻梁もないのに大気を丸ごと呑み込む。
局所に発生した真空を埋めるため、吸い寄せる風が吹き荒れた。
肺に溜めたのは空気だけではないのだろう。龍の頭上には光輪が出現し、急速に魔力の気配が高まっている。
オロルは声を張り上げ叫ぶ。
「伏せよ!」
ほとんど同時、アーミラの閉じた視界は、瞼越しに白く焼かれた。
渦を巻く横薙ぎの竜巻が掠めて、体は吹き飛ばされ、何も見えないまま転がって全身を打つ。
爆風に、鼓膜がおかしくなっている。
とてもうるさいはずなのに、玻璃の音みたいな耳鳴りが張り付いて、外界の全てが遠く篭って聴こえる。
真っ白に焼かれていた視界はぼやけながらも色彩を取り戻し、アーミラは空と大地を見分けることができた。平衡感覚の麻痺も治り、よろよろと起き上がる。
遠景に目を凝らし、アーミラは絶句した。
マハルドヮグ山が――燃えている。
山の稜線が齧られたように丸くくり抜かれ、かろうじて射線から逸れた神殿は炎と煙に隠れていた。
「みんな……どこに……」
アーミラは切なく呟く。
龍が放った一撃によって、辺りには何一つとして残っていなかった。
直撃したわけでもないただの衝撃波がこの地を襲い、敵味方関係なく吹き飛ばしたのだ。
アーミラは失意に項垂れ、砂を握る。その背に声がかかる。
「アーミラ……」
声がした方に顔を向けると、思わぬ再会だった。
「ガン、トール……さん……」
真紅というには赤茶けて、袖のほつれた衣装は幾つかの装備を紛失していた。はだけた肌に傷はないが、それは祈祷による治癒のお陰だろう。ここに辿り着くまでに数え切れない死と蘇生を繰り返したことを出立ちがありありと語っていた。
「道すがら前線の敵を払ってまわった」
合流が遅れたことを詫びる代わりとしてガントールは言う。
「地下通路を辿って敵の根城に繋がる道を把握したんだが、地上の様子がおかしいとみてここまで戻ってきた。……あれは、相当厄介みたいだな」
顎をしゃくってガントールは龍を示した。その強気の態度が頼もしい反面、恐ろしさを知らない無知の蛮勇にも思えてアーミラは首を振り裾を掴む。
「が、ガントールさんっ……あれは、さ、災禍の、龍なんです」
「知っているさ」
「勝てっこ、ありません……!」
泣き出しそうな声で縋り付くアーミラを見下ろし、ガントールはくしゃくしゃと髪を撫でる。硬く笑みをつくり、胸ぐらを掴み持ち上げた。
「『勝てっこない』じゃないんだよ。アーミラ」ガントールは厳しく叱る。「私達が諦めてどうする。私達は神に祈る立場じゃないんだぞ。私達はな、内地からの祈りを一身に背負う……それこそ女神として進退を賭けるんだ」
ガントールはアーミラを無理矢理立ち上がらせて胸ぐらから手を離す。そして握手でも求めるように手のひらを差し出した。
「まだ希望はある。私の剣を持ってるだろう? 返してくれないか」
「でも……――」
「ウツロがまだ戦っている。加勢してやりたいんだ」
「――!」
食い下がろうとしたアーミラを遮ってガントールは告げた。
諦めない者がいる。
この災厄に、一人立ち向かう者がいる。
はっとして、アーミラはウツロの姿を探す。
龍の周りを飛び回る小さな羽虫のような影を見つけて驚いた。
イクスから託された斧槍を握り、縮地の魔術で跳躍しては切り掛かり、振り回される腕を掻い潜っては刃を突き立てる彼の姿。
果たしてこの無謀な挑戦に勝機はあるのか……いや、違う。勝機は掴むものだ。
アーミラの目に火が宿るのを認め、ガントールは肩を叩く。
「ここを乗り越えることができれば禍人種の根城に攻め込める……正念場なんだ。私とウツロが注意を引くから、アーミラはオロルを探して打開策を見つけてくれ」
返事の代わりとばかりにアーミラは杖の内側から神器の剣を取り出して手渡した。ガントールをウツロと合流させること、つまり戦闘の継続を肯ったのである。
二人は振り返らずそれぞれ駆け出した。生者なき前線で、災厄との決着をつけるために。




