92話 眇眇たる残骸すらも口を開けば雄弁に
『青生生魂の鎧は一揃いあった。私達はそこに霊素を注いだ。』
(『四代目次女継承者 デレシス・ラルトカンテ・テティラクスの手記』より)
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ラーンマク南方の景色に浮かび上がる禍々しい影は、午前の晴れた山々の景色を遮る夏の鉄床雲のように静かに存在を主張していた。
それは日を浴びて白く、体躯は山巓を超える無貌の巨人だった。鈍く陰影に富む肌は雌雄の別なく、目も鼻も、口さえも皮で塞がれ丸く固めたような、あるいは包帯に全身を包まれ封じ込められたとも思える姿をしている。人相も体躯も特徴らしいものはなく、人の概念に牛の頭角と蛇の尾と蝙蝠の翼を取ってつけたものと形容して差し支えない。
こうして時が止まっていると、災禍の龍という名に備わるべき凶暴さはまるでなく、精気すら感じさせない。一見して偶然にも人の形をした雲を見つけた気にさせた。
いつから現れたのかアーミラにはわからない。オロルがそれを認めたのは、アーミラが気を失った後のことだ。山の影から這い出てきたその存在に気付き、時を止めて控えていた。
「あれを抑える。わしとお主で光弾を放つぞ。よいな」
オロルは見据えたままそう言い、アーミラは硬く息を呑んで頷きを返す。
世界に音が満ちたとき、時止めを解除したことがアーミラにもはっきりわかった。
柱時計から飛び降りて地面に転がっている杖を拾うと、改めて災禍の龍に体を向ける。互いに戦場の両極に構える距離であるため龍の姿は霞がかかるほど遠いが、先に視認していたこちらの兵士は砲撃の狙いを定めて攻勢に出ていた。アーミラが弓を引く前に、最初の一撃は龍に到達していた。着弾は目視で確認できた。
肌に小石がぶつかる……そんなふうだった。
ラーンマクから放たれた砲撃の光弾が青空を飛び、龍の皮膚を叩く音が景色に遅れて耳朶に届く。初撃の様子から大した効果は望めないことは龍の反応から分かっていたが、後から放たれた砲撃が続々と着弾しているため、アーミラは流れに棹さし矢を指に摘む。横にいるオロルも柱時計から光線を射出した。一つ一つが小さくとも、物量で圧すことができるかもしれない。
アーミラが覚悟を決めて杖を構えたとき、ウツロが袖を引いた。酷く慌てた様子だった。
摘んだままの袖を捲り上げ、日に晒された腕に素早く指筆を走らせる。
――逃げろ。
「何をいってるんです?」アーミラは真意を汲み取ろうと鎧の顔を見ようとしたが、首から上をなくしているため意図が読めない。
――ここにいる兵も全て避難させるんだ。龍は俺一人で戦う。
「……無理を言わないでください。私も戦います」
取り合う暇はないと、アーミラは龍に向き直るが、ウツロはしつこく袖を引いた。
――無茶だ。
アーミラは流石にしかめ面になる。
「無茶なのはあなたの方です! いいから離してください」
邪険に振り解く。決然とした目で咎めた。
袖にされたウツロは悄気たように手を下ろすと未練たらしい態度で龍に向かって駆け出した。
龍は尚も魔呪術の飛沫を浴びながら、胸元から腹部にかけて滝に打たれるように光弾が爆ぜていく。龍の肌は焼け爛れているが無力化している様子はなく、そもそもの巨大さ故に命を屠るには及ばない。
そこにオロルの光線が加わった。魔力の収束を高め、細く鋭い光線は皮膚を穿つ。
次いでアーミラの放った援護射撃も槍の雨となって降り注ぐ。
鋭い槍は正確に龍に届き、丸い額を埋め尽くす様はまさに針の筵。鋭い鋒は音も立てずに皮膚に突き刺さり、灼熱の槍が龍の顔を焼いた。噴き上がる煙によって首から上が見えなくなる。
一連の集中砲火の間、災禍の龍はその身を浮遊させており、今なおゆっくりと、しかし弛みない速度でこちらに向かい迫っている。
煙が後方へたなびいて、龍の顔が露わになる。
針だらけの顔は赤く濡れ、流血の跡が幾筋も顎先へ滴っていた。
攻撃は通っている……だが……。
「効いている気がせんな。本当に山を相手にしているようじゃ」オロルは汗を拭って憎らしそうに言う。
神殿を目指し北上する災禍の龍は、全ての攻撃に対して逃げも隠れもせず受け止める。厚い皮膚は熱に炙られ焼き爛れ、光弾が突き刺されば出血もある。しかしだらりとぶら下げた四肢は痛みに身を庇うこともなく、表情のない顔は怒りも悲しみも表さない。ただ確実にこちらに向かってきている。
アーミラは動揺を隠せない。
「本当に生きてるんですか……?」
「わしに聞かれてもな」
辟易した様子で返す。本当にこちらが聞きたい。あの白い人形は生物なのか。
「どうあれ攻撃は素直に通る。内地に入られる前に頭を吹き飛ばせば止まると信じたいが」
「……それか、翼はどうでしょう。飛べなくなれば足止めになるかも」
「ふむ」オロルは敵の翼を見据えた。「羽ばたきすらしないがお飾りとも思えん。任せるぞ」
オロルは言いながら構えを変え、一度合掌の形を作り両手を離し、指先だけを押し付けた手印の三角窓から狙いを定めた。
龍の胴体から眉間へと的を調整する。より強く呪力を練り上げるために、駄目押しの詠唱も重ねた。小さな唇が、こそこそと言葉を紡ぐ。
眇眇たる残骸すらも口を開けば雄弁に、
万物は悪運へ立ち向かい不滅を謳う。
葬ることのできない悔恨と、
蘇ることのできない愛念と。
それらが絶えず流れ落ち一つとなる場所では、
太陽と月のように禍福が巡り招かれ続ける。
幾多の失敗がささやきかけたが、
ついぞ儂を振り返らせはしなかった。
彼の亡霊が示す先へ進み続ける。
その良心を手放さず、
遡行を許さず、
ただまっすぐに。
オロルが言葉を用いるのは初めて見た。
改めて、詠唱という行為は単純にして奥が深い。
言葉に対して結びつく意味や記憶が実行者の中にあり、固有の詠唱、または綴字であればあるほど内面に迫る経験や体験、記憶を反映させた物語の形となる。術が縛りを設けることで威力を高めることができるように、言葉は構造そのものの単純さが煩わしい制限となるため、美しく磨き抜くほど強力な魔呪力を練り上げることができる。
アーミラもそれに倣い、杖を倒して弓構えを横に捻った。翼を狙うため、槍の着弾位置を左右広範囲に広げる構えである。詠唱も添えたいところだが、まだアーミラには唱えるべき物語が備わっていなかった。
再開した集中砲火は威力こそ増していたが物量を減らしていた。これには当然やむを得ない理由がある。禍人領からの報復攻撃が迫っているからだ。
勢いを増したトガに兵士は手が空かず、向こうから迫る禍人の砲撃に対しても防御の陣を展開しなければならない。敵は災禍の龍だけではない。得体の知れない大きい的は継承者の二人に任される形となった。
オロルの射出している光線はますます収束を高めて、径は指先ほどまで絞られた。その分高まる出力は貫通力となり、愚かにも射線上を横切ったトガは肉も骨もすっぱりと溶断された。
それが遥か南まで伸びて一直線に災禍の龍の眉間に注がれている。距離による呪力の拡散減衰は多少あれど、龍の額は滝壺のように飛沫を上げ崩壊していた。
それでも龍は迫り来る。
アーミラが弓手に力を込め、解き放った光矢は空の彼方へ溶け、招請の合図に応えるように少し遅れて槍が降り注ぐ。龍の視点から見ればまさに槍の豪雨が空を埋め尽くして見えただろう。
背から繋がる翼は一度でも羽ばたく姿を見せることなく、その翼膜に穴を開け無惨にも切り裂かれた。果たして浮遊する能力は失われるか……。
それでも龍は迫り来る。




