91話 詮無きこと
「……実はまだ、全てを思い出した訳ではないんです。あの旅は、追手から逃げるための旅でした」
ふむ。とオロルは頷き、推理を続ける。
「追われていた二人は南へ逃げ続け、ラーンマクまで追い詰められた。そこで、まだ幼いお主は大怪我をした。……古傷が痒いようじゃな」
視線で示されてアーミラはようやく気づく。無意識に首を擦っていた。
思えばラーンマクに足を踏み入れてから、ずっと微かな掻痒を感じている。
「……流れ弾でした。瀕死になって倒れたのが丁度ここです」
アーミラは四方を見渡す。
七年前、私が倒れた場所。
「お師様は私を助けるために、同じ年頃の魔人種の身体を見繕って戻ってきたそうです。それで――」
「首を挿げ替えた」
オロルが後を引き取るように言う。
「禍人種の身体から魔人種に乗り換えた……なるほど追手を撒くにも良い手段じゃろう」
「その……」アーミラは控えめに尋ねる。「いいんですか……私……敵、なんですよ……?」
目の前に立つ次女継承者の正体は打ち滅ぼすべき禍人種だ。
自分から申告する勇気はなかったが、言い当てられた以上はオロルの判断を伺うしかない。
「無論殺すさ」オロルは脂下がって口角を吊り上げた。「……なんての、冗談じゃ」
笑えない冗談だった。肩の緊張が抜けない様子のアーミラを見て、オロルは続ける。
「禍人を恨みここまで戦ってきたお主が、今更裏切ることはないじゃろう。生い立ちはどうあれ、今のお主は神に選ばれた魔人種の中の魔人種じゃ」
「そう、ですか……」
「……それで、言いづらいことはもうないじゃろう。取り戻した記憶は他に何がある」
敵意もなくおどけてみせるオロルに、ようやくアーミラは警戒を解く。
「……思い出したのはお師様の姿です。私が記憶を失う前は、とても若かった……今の私くらいに見えました」
「ほう」
「首を挿げ替えた後、私はこの地で刻印を宿したようです」
「ふむ」オロルは相槌を打ち、ふと口を挟む。「すぐに消えてしもうたが、わしも幼い頃に刻印を宿したことがある。……時期が重なるな」
アーミラは初耳だったが、こくりと頷いて先へ進める。
「お師様は……全てを擲って、私の刻印を消したんです」
声に出して初めて、それがどれほど大変なことかを理解し、喉が震えた。
師は本当に、全てを擲ったのだ。
夢に見た記憶の光景はその後を映してはくれなかった。だが、あの後のことならアーミラ自身が誰より理解している。
刻印は師によって隠匿され、痛みから解放された私は記憶を失い……そして師は命のほぼ全てを支払い、醜く老け込んでしまった。
――人ひとりを救った代償として、あまりにも理不尽だ。
それほどの代償を支払っても神の目を欺けたのは僅か七年。
結局、私は刻印を宿し、次女継承者となっている。
「もう長くないと悟ったお師様は、私一人でも生きられるようにと、厳しく修行をつけてくれました……」
末期の約束に込められた願い。
『婆から教わった事、魔術のそのすべて、人には決して見せてはならん』
やるせない虚しさは涙となってアーミラの瞳から零れる。
大切な約束を反故にして、私は運命という神に見つかってしまった。
「失くした記憶を取り戻したいなんて思わなければ、……マナの恩義に応えられたかもしれないのに……」
頬を伝う雫は、アーミラの顎の下で時を止め、いつまでもきらきらと輝いている。
一方、オロルはそんなアーミラを見ながら、満たされた表情を浮かべていた。
組み上げられた嵌め絵を眺めるように。
――本当によく泣く……だがこやつは、我が身可愛さで泣くことはついぞない。いつも他者の哀れに寄り添い、涙を流す。
「……詮無きことよ」
一つの残酷な真実……出征を共にしたアーミラが禍人だったという事実を受け入れ、そして幼い頃に消えた刻印の理由を知る。
マナという名の女が命を懸けて守ったもの。
その余波を受け、狂わされた時計の歯車。
二つが噛み合い、針は右回りに動き出す。
オロルは手袋を脱ぎ、アーミラに見せるように掌をかざした。
何度も追い求め、自ら刻みつけた偽りの刻印。幾重にも重なり、変質した皮膚は硬く罅割れていた。だが、その表情に後悔はない。
アーミラの額にそっと手が触れる。
「後悔もあるじゃろうが、お主がこうして選ばれたことで、わしも刻印が手に入った。そう悪くないことじゃ」
アーミラは励まされる気持ちで頷いた。師の願いこそ叶えられなかったが、この争いを乗り越えれば全て終わり。私の望みは叶うのだ。
生きてさえいれば、きっとマナも赦してくれる。
決意を新たに洟を啜って悲しみを収めにかかる。
生き残る。勝ってみせる。
支払いすぎた犠牲に、マナの恩義に、報いるまでは。
「……さて」
オロルはこの一件に一段落ついたという態度で、浮遊する身体を南に滑らせる。
「気持ちの整理がついたら、時を進めるぞ」
大したことではないと言いたげな口調だが、涙を拭って望む景色には明らかな異常事態が待ち受けていた。
オロルは告げる。
「如何やら最終決戦のようじゃ」
ラーンマクから前線南方、地平の果てより少し手前。
大山鳴動して鼠一匹とはいかない。
出征の任に使命を背負い、迎え打つ最後の強敵は静かに巨体を浮かび上がらせ、こちらに向かおうとしていた。
その巨体は遠くからでも特徴がはっきりと望める。
奸詐を閃く額の角。
佞辯を吐き出す裂けた細舌。
翼は詭計を描く巨大な翼。
知識がなくとも見誤ることはない。
アーミラは呟く。
「災禍の龍……」
――――❖――――――❖――――――❖――――
[11 災禍の龍 前編 完]
ここまで読んでいただきありがとうございます。
評価や応援を頂けると励みになります。
是非よろしくお願いします。




