90話 お願いだからこの子はやめて
動揺する少女に、女は申し訳なさそうに目を伏せ視線を逸らした。
「首から下は、もうどうしようもなかったんだ」
首から下……女の言葉を確かめるように、少女は己の首を指先で撫でる。ちくりと癒着しきれていない傷に触れて痛みが走る。断ち切られた皮膚の境がそこにあった。
「偶然さ、手頃な骸が手に入ったんだ。これは僥倖だとおもったよ」
名も知らない魔人種の娘の遺体は頭蓋をかち割られて脳漿を晒していた。はじめは魔鉱石だけを目当てに漁っていた女だが、天啓のようにそこにあった死体を拾い、頭を挿げ替えることを思いつき……実行した。
「首と胴体が繋がって定着するまでは本当に不安だったけど、とにかくこうして生き返ったんだ。本当に嬉しい」
聞いてもいないことを洗いざらいを語る女に対し、少女は受け止めきれない事態に青褪めて己が肩を抱き竦める。しかしこの抱き竦めた肉体は他人のものだ。
他人の腕で、他人の肩を撫で擦っているという奇妙さを幼いながらも理解して、逃れようのない恐怖に怯える。
それと同時に、少女の躰にはある変化が訪れようとしていた。
「やだ、……やめてよ……」
そう訴えかける少女の声に気付いて、女は申し訳ない顔をしてみせる。
「ごめん……でもね、アルミリア。今はわからないかも知れないけど、あの身体ではこの先どうしようもないの。どのみち切り捨てていかなくちゃいけなかったんだよ」
謝ってはみせるものの、女は意志の固い真っ直ぐな視線で訴える――が、少女の耳に言葉は届いていなかった。
見つめる先に座っている少女は両手で胸を押さえ、声も出せないほどの痛みに襲われていた。
「……え……アルミリア……?」
涙が流れ落ちて、潤んだ瞳が痛切に女に助けを求めている。
胸に錐を突き立てられるような痛みが生じ、全体が火で炙られるように熱い。
少女はなんとか訴えようとしたが、喉が緊張に強張って声が出せない。口をぱくぱくと開閉して、金切り声が絞り出された。
「ちょっ……アルミリア!? 胸が痛いの……!?」
少女の胸部に生じた正体不明の痛みに対して、女は魔呪術の燐光を認める。夜の闇に火を熾したように光が溢れ、両手で塞いでも漏れてくる。
僅かな指の隙間からでも目を開けていられないほどの光量が迸り、空まで届く青く強烈な閃光を生じさせていた。
「まずい……!」
女は光の筋が高く昇るのを見上げて、すぐに少女の身体にのしかかるように覆い被さった。事態は急を要していた。
戦場の夜は両陣営とも神経をとがらせて警戒している。目立つ不審な光があれば敵味方の確認もせず仕留めにかかるだろう。光弾が放たれれば眠りの浅い戦士どもは飛び起きて加勢し、一帯は虫の一匹も残らないほどの集中砲火が行われることとなる。
夜戦の開始だ。そうなってしまえば二人とも死は免れない。少女の胸から放たれる光をなんとかして隠さなくてはならなかった。
「い、……だい……っ、いだい、いだい! いだい!!」
腹の下で痛みにもがき苦しむ少女を強引に組み伏せて、耳元で何度も謝り懇願する。
「ごめん……っ、お願いだから動かないで……!」
人の肉体を繋ぎ合わせるほど高度な呪術を簡単に扱うこの女でさえも、少女の身に起きた現象が何なのかまだ理解できていなかった。首と胴を無理矢理繋いだことでなんらかの拒絶反応が起きたのかと考えてようだが、この状況では術式を観察することもままならない。
押さえつけながら下でじたばたと踠く少女の胸元の光源を睨み、描かれている図柄を理解したとき、女は血の気が引いた。
「嘘でしょ……」
少女の胸元の皮膚には、刻印が現れようとしていた。
それは禍人種にはまずあり得ない現象であり、よりにもよってこの娘に宿るとは考えもしなかったことだ。だがしかし、心当たりがあった。
これは次女継承の印――魔人種の身体に首を移植したのだ。今やこの少女の肉体は禍人種ではなく魔人種。女神に選ばれる素質を満たしていた。
「そんな……だめよ……! 絶対だめ……!!」
女は動揺を隠せず、痛みに暴れる少女に押し除けられて体勢を崩し、光は間欠泉のように夜空に向かい噴き上がる。もはや付近は昼のように明るく照らされ、間も無く四方から号砲が響き、集中砲火の光弾が迫る。
光と音の洪水が少女と女を取り囲み、その嵐の中では助けを求める少女の嘆きも、女の叫び声もかき消されてしまう。
しかし不思議なことに、視界を埋め尽くす光弾の嵐は二人を傷つけることはなかった。胸に宿る刻印がひととき少女を護っているのか、台風の目の内側にいる二人は衝撃と眩しい光の奔流の中で一命を繋ぎ止めていた。
これが神の御業が成せる慈悲か……。
……だが、それでも。
――アルミリアを次女継承にするわけにはいかない。
「神でも龍でもいい! お願いだからこの子はやめて!!」
女は天に叫ぶが、当然刻印が消える気配はない。
マナは覚悟を決め、少女の上に馬乗りになると、全身に備わる魔呪術の全てを練り上げ、掌を少女の刻印に翳した。
もとより祈り叶う神は居ない。
世は禍事こそ理の当然であり、心で願うよりも力で成し遂げるのが唯一の真理なのだ。
「隠してみせる……逃げ遂せる! そのためなら私の全てを支払っても構わない!!」
砲煙弾雨の荒れ狂う光の渦の中で女は宣言する。
掻き集めた持ち合わせの魔鉱石も心許なく、それでも頑なに譲らぬ思いがあった。
たとえこの命を使い果たしても、この娘だけは、誰の手も届かぬ場所へ――
❖
記憶の匣は開かれた。
アーミラは長く短い夢から覚めて身を起こすと、弛んでしまった涙腺から涙が漏れて、そっと目を擦る。
特別悲しい訳ではなかった。記憶を取り戻した達成感に打ち震えていた訳でもない。
これまで露程も思わなかったようなこと、全く慮外な事実が多すぎて理解が追いつかず、心は凪の中にあった。
戦場であるはずなのに辺りは静寂に包まれていた。未だ夢の中なのかと思うほど、景色は凍りついてしまっている。どうやらこれは三女継承者の能力なのだと理解するまでそう時間はかからない。気を失っている間に柱時計の上に移されたようだった。
「どうじゃ?」と、様子を伺うオロルの表情は、記憶を取り戻したことを見透かしているように思えた。
金色の瞳が賢しく静かに見つめている。
「……その……」
アーミラは言い淀み、俯いた。
伝えねばならぬもの。
伝えるべきか判断に悩むもの。
決して明かせないもの。
アーミラが取り戻した過去には、そうした三つに区分し振り分けるべきものがあった。特に一番に伝えるべき己の由来が、決して明かせないものに属しているために答えることができない。
しかしオロルは告げる。
「アーミラよ、お主は魔人種ではないな」
アーミラは驚き、声もなく目を丸くしてオロルを見た。その動揺が答えだと言わんばかりだ。
「気を失い目覚めるまでの間、わしも考えていた。全てお主の師が仕組み、施したものなのじゃろう」
オロルは本当にアーミラの過去を覗き見たように言い当て、推理を開陳する。
師と共に旅をした足跡は、お主の言う通りラーンマクとスペルアベルなのじゃろう。じゃが記憶を失ってからの道程は最終的にナルトリポカに落ち着いておる。この三つの地点を一筋に繋ぐなら、どういうわけか一番古い記憶はスペルアベルとするのが自然じゃな。つまり二人の旅は内地から始まっておる。
師と二人、なんの目的があったか前線ラーンマクへ向かい、その後再び内地に向かって戻る道のりとなる。デレシスかアルクトィスを経由して、ナルトリポカに落ち延びたわけじゃ。
お主は『流浪の民』という言葉の意味を「あてもなくさまざまな国を巡って旅をする者達」と無意識のうちに認識しておったな。それは師と共に歩いた道筋から刷り込まれてしまったのじゃろう。
つまり、「内地へ向かう避難民」ではない。流浪の民ではないわけじゃ。
「――ならばなぜ、そんな目的の見えない旅をしていたのか……?」
オロルは言葉を切る。それは問いかけだった。




