明日朝更、此ノ場ニ御迎仕ル
「……わかったよ」シーナは引き止めることを諦めたように嘆息し、一呼吸おいてアーミラを真っ直ぐに見つめた。「頑張るんだよ、アーミラ」
「はい……」
アーミラは深く頷くと、大事そうに両手に隠していたものを手渡した。
「……あの時、わ、私を、助けてくれて、ありがとう」
手渡されたものは、小さな耳飾りであった。見覚えがある。長く伸ばしたアーミラの髪に隠れてちらちらと揺れていたものた。細い耳飾りにはまだ輝きの残る魔石が嵌められ、魔力を内包して光を零している。片割れをシーナが受け取ると、もう片方はアダンの手に渡された。
「居場所をくれて、ありがとう」
何かの御守だろうか。と、アダンは戸惑いながらもしっかりと受け取った。いつの間にか少女の手も一人の大人として嫋やかに成長している。久しぶりに触れた手を見てそんなふうに思っていた。
「……うまく、娘になれなくて、ごめんなさい……」
そんなアーミラの言葉には二人は明確に首を降った。
「そんなことはないよ。短い間だったが、お前はちゃんとうちの娘だ。それはこれからも変わらない。たとえここを離れるとしてもな。……俺達はそう思っていてもいいか」
アダンの言葉にアーミラは驚いたように目を見開いて上目遣いに二人を見る。自分の中では娘として落第だろうと決めてかかっていたアーミラは、改めて二人の温かい人格に触れ、胸が咽び、堪えていた涙が込み上げそうになるが息を止めて押しとどめた。泣いてはだめだ。ろくに娘らしく振る舞うこともできなかったのに、旅立ちのときに今更縋り付くなんて許されない。そんな自罰的な想いから、アダンの言葉には否定も肯定もしなかった。
「その、御守には感謝と祈りを込めました。私がここを去った後も、どうか息災でいられるように。本当の子宝にどうか恵まれますように」
「なら、アーミラの妹だな」アダンはきっぱりと言う。「いや、弟の方がいいな。姉弟に本物も偽物もない」
そう言って娘の髪を乱雑に撫でる父の手にアーミラは狼狽えながらもされるがまま、頬に一粒の涙が零れたのを気づかないふりをした。アーミラの葛藤を理解しているからこそ、アダンは気丈に振る舞い強引にでも繋ぎ止めたかったのだろう。シーナはそんな親子の姿に微笑む。アダンもアーミラも一度決めたら譲らない。その性格は誰に似たのか。ともに過ごした日々は、確かに親子の絆だったのだ。
夜の底。喧騒の捌けた集落の広場は静寂が落ちて、時折誰かの笑い声が戸の内側から籠もって響く。月の光が晩春の空に輝き、雲間を朧に照らしている。まだ肌寒い夜風が肌を撫でると戸口に立ったアーミラは腕を組むように二の腕を擦って鳥肌を収めた。
すぐにでも旅立たなくてはならないだろう。どこに行くべきかは決めていないが、恐らくはマハルドヮグ山へ向かうべきか。アーミラは刻印を宿したときに直感した。いや、魔術を行使したことが人の目に触れた時点でこの集落にはいられなくなるだろうと思っていたのだが、いずれにしろ、別れの時は近い。
アーミラは夜風に身を晒して一人心を静ませる。この別れが望外に落ち着いてよかったと考えていた。遡ればここまでの半生は記憶にあるうちでも出会いと別れの連続であった。もとより生き様は根無し草であるから、むしろシーナとアダンは珍しい繋がりだった。いつかまた、ここに帰ってくることになるかもしれないなと思い、そんな予感に顔が綻ぶ。
と、そこでアーミラは何者かの視線を感じて笑みを消した。夜闇に目が順応してはいないが、闇の中に人影の輪郭がある。
「誰、ですか……?」アーミラは問い掛ける。返事はない。
怪しい人影に警戒しながら観察すると、次第に目が慣れてきた。帯剣しているのか、或いは杖か……手に握っている得物は細く長い。地面の土を削っているらしく、恐らくは武器の類で間違いないだろう。輪郭からみるに体躯は男らしく肩幅が張っている。背丈は一振半を越えるだろうが二振には届かない。となれば獣人ではない。私と同じ魔人種か――と、アーミラが臆せずにじっくりと人影を観察できるのは、その存在が先程から微動だにしないからだ。敵意があるのかどうかは判断しかねるが、握られた得物と間合いから脅威とは見ていなかった。
「もう一度問います……誰ですか?」
アーミラは繰り返す。しかし人影は変わらず答えない。変わりに手に持ったもので地面を削りはじめた。得物は長槍のようで、穂先が土をたやすく切り込んでいく。陣を描くつもりかとアーミラは警戒を高めたが、魔力の気配はない。そうしているうちに人影は土いじりを辞め、どさりと何かを地面に放って奥の闇へ向かって消えた。その足音は重く、さりさりと音を立てていた。それは金属同士が擦れ合う音だ。防具か何かを着込んでいたのだろうか、とすると、もしかしたら昼の魔術陣を見たどこかの兵が様子を見にここまで来たのかもしれない。でも、それならなぜ一言も話さないのだろうか。
アーミラはその者の後を追うか考えて、ためらった。害意のある者でないなら深追いする質ではない。今日は激動の一日であったため興奮に眠気もなかったのだが、流石に疲労を自覚した。もう眠ろう。そう決めて立ち上がると、部屋に入る前に人影が立っていたところへ向かって歩いた。あの人影は話しかけるのが恥ずかしくて土いじりをしていたわけではないことくらい分かっている。放られた荷物の中身くらいは検めておこうと考えたのだ。
人影の立っていた場所には放られたまま転がっている背嚢と、二種混合の言語が用いられた伝言が彫り残されていた。
マハルドヮグ領ニ而伝令也。
次女継承ノ印ヲ宿シ者、召集サレタシ。
明日朝更、此ノ場ニ御迎仕ル。
❖
謎の人物が残した書き置きに従って、アーミラは早朝には身支度を整えた。
あの場に置かれた背嚢には、一式の服が丁寧に納められていた。アーミラはそれを継承者のための――つまり私のための――衣装なのだと受け取った。あの夜、相手は既に私を視認しており、継承者であることも理解した上であの書き置きを残したのだろう。
あの人影が何者なのか、自分はこれからなにをすればよいのか、それらの疑問は悩んだところで解決しないと決めて、褥に潜り浅い眠りに身を休め、空が白み始めた頃には目を覚まし、桶に貯めた水で布巾を湿らせると丁寧に体を拭い、顔を洗った。鳥も鳴かぬ時分のこと、廊下から床板を踏む足音が近付き、その背に声がかかる。
「アーミラ、もう行くん?」
まだ誰も目覚めないだろうと油断していたアーミラは、シーナの声に眉を下げてゆっくりと振り返る。
「シーナさん……」
できることならば誰も知らぬ内にこの集落を旅立ちたかった。シーナがそれを許すわけもない。
アーミラは顔の水気を拭い、手拭いを握る。
薄ぼんやりとした部屋の中で、アーミラの碧眼が真っ直ぐにシーナと向き合う。出発の決意が固いことを知り、シーナは思わず大きなため息を吐いた。
「誰かに譲ることができればいいんに」シーナは本音を漏らす。誰かに聴かれたらきっと大目玉だろうと知りながらも、言わずにはいられない。
「いいんです」アーミラは首を降る。「……『どこへでも行け』と、お師様から言われていましたから」
石を投げた領主の娘。彼女の才を尺度にするならば、私の内にある才覚というものに無自覚ではいられない。幼い頃の記憶こそないが、きっとずっと学び磨いてきたものなのだろう。この力は誰かに譲ることはできないし、今さら明け渡すつもりもない。継承者として選ばれた以上もう隠し果せることさえ叶わないだろう。ならばどうするか。
「……やりたいことがあるんです」アーミラは宣言するように言った。
アーミラは己の欲求というものを表現することが得意ではなかった。その原因は、自信のなさ。幼い頃の記憶が欠落し、肉親の愛情を知らぬことだと考えていた。
己の由縁を知らないからこそ、自分の価値がわからない。
意思決定のために必要な土台、自身を支えてくれる価値の根幹がごつそり抜け落ちているアーミラにとって、物の善悪や自身の欲求というものが他者の価値に勝るとは思えなかった。なにか主張したいことがあるときも、それが他者に受け入れてもらえるものなのかを考えると、途端に口ごもり、億劫になってしまう。
しかし、しがらみに黙殺されていた心は、この状況を甘んじて受け容れることを厭うていた。
「わ、私……失くした記憶を取り戻したいんです。取り戻して、もっと強い私になりたい……だから……」
「その目を見ればわかる。きっと何言ったって決意は変わんないって……。前線なんて、ほんとに命がいくつあったって足りないのに……」残念そうにシーナは言う。
素直に心残りだっただろう。シーナからしてみれば、ようやく娘の核に触れたばかりだと言うのに、それを手放すことになるのだ。前線へ行って欲しくない。もう一度娘として家に招き入れたい。健気な娘を抱きしめてやりたい。そうした想いが口から溢れ出すのを堪えて、明るく笑みをつくる。
「絶対に死ぬんじゃないよ……まずは自分のこと守りなね。人を守るのは、それからでいい。わかるかい?」
「はい」アーミラはシーナの言葉一つ一つにうんうんと頷く。
「記憶を探すのも大事だけど、たくさんの人と出会いなさい。……守るものができて、人は強くなれるんだから」
「……はい」
立派な言葉で送り出そうと努力したものの、シーナにはこれが精一杯だった。親らしく振る舞おうとしたものの、伝えたいことはこれじゃないとわかっている。
シーナは取り繕った言葉を飲み込み、観念したように手を広げた。
「……おいで」
「……はい……っ」
扉を隔てたぎこちない二人の距離が縮まって、慣れないままに抱き締めた。シーナは言葉もなく抱き締め返し、さらにぎゅっと強く抱き締めるとアーミラ髪に鼻を埋める。母娘二人、初めての抱擁だった。
最初からずっとわかっていた。アーミラに伝えたかったのは言葉ではない。母の温もりだったのだ。ずっと前から、こうして抱き締めてあげたかった。もっと早く、こうしてあげたかった。燃やしても燃やしても消えることのない温もりをわけてあげたかったのだ。
「あなたのことが大好きよ……」
シーナの抱擁にアーミラはぐらりと体勢を崩し、自重を支えるように母の背中に手を回した。洟をすすり、静かで熱い息を吐き、なんとか涙をこらえようとするアーミラ息遣いがしばらく続いた。この別れに泣き顔を見せたくないのだ。
「頑張ります……っ」アーミラは言う。「私……ずっと、何かから逃げてるような気がしてた……向き合わなくちゃいけないことがあるんじゃないかって……だから、だからこの旅で何かが変わるんじゃないかって思うんです……。
もし変われるのなら……全部取り戻して本当の私になりたい……自信があって、力があって、シーナさんとアダンさんに誇れる私になりたい……」
私を守るために、本当の私と出会いたい。
人を守るために、大切な人と出会いたい。
これまでの人生と決別して、変化を遂げる時が来た。
涙声の密やかな決意表明に、シーナは繰り返し頷いた。思わず涙が零れて、アーミラの髪に落ちる。本当にこの娘はどこまでも優しいんだから、それこそ女神のようにどこまでも。
「アーミラならきっとできる。信じてるからね」