86話 争いのない時代
オロルは退がった勢いを発条にして、柱にぐっと力を溜めてさらに懐へ飛び蹴り一発。
対するユラは逃れようと背後へ跳んでいた。そのときユラの背中は不可視の壁にぶつかり、挟まれるようにしてオロルの蹴りをもろに浴びる。
腹と背に挟撃を受けたユラは、たまらず血を吐いて視界には星が散った。
信じられないといった顔で振り返る。背後には何もない。だがこれ以上退がることができなくなっている。
この不可視の壁は何だと、ユラは空間に手のひらを押し付け唖然とする。
先程まで、ユラの周りには不可視の壁など存在していなかった。不可視の壁は三女継承のみに設けられた縛りのはず……だからこそ回避のために退がったのに。
「術の重ね掛けはできないはず……」
ユラの言葉にオロルは瞞着的な笑みを浮かべて応える。
「わしは何もしとらんよ。しかし何でも手に入るんじゃなぁ……お主の嫉妬の呪術は」
ユラは、そこで初めて策謀に嵌められたと理解する。答え合わせをするように、オロルは続けた。
「わしが継承した能力……その制限、お主はそれを『羨ましい』と言った。そして欲しいままに獲得した」
三女継承、オロルに科せられた能力の制限。その三つ。
一つは接触制限――術者と触れているものは静止空間を共有する。翻って離れたもの、例えば血や魔呪術が術者から接続を解かれればその場で時を止める。オロルは地面にさえ接触できないことを行動で見せつけ、ユラの無意識に刷り込んだ。この認識が反映されたからこそ、今のユラは紛い物の神器にぶら下がる形を取っている。
二つめが魔呪術の制限――接触制限と説明が重なるが、術の重ね掛けができたユラの場合でも遠距離攻撃は棒状でなければならなかった。術者と繋がり続けなければ時を止めてしまうからだ。
そしてオロルははっきりと伝えていた。『重ね掛けはできない』と。
三つめ、行動範囲の制限――これも言外にユラに示し、縛りを逆手にとって柱時計を顕現することであたかも奥の手のように振舞った。己を守る鉄壁の盾として扱うことでユラの口から『羨ましい』を引き出した。
これによりユラは神器を獲得したと同時に制限が付与されたのだ。
手刀に込めた呪力が空振りだったのも、背中を不可視の壁にぶつけたのも、ユラの嫉妬による自縄自縛だった。……尤も、相手を操るのが『呪術』とするなら、煽り立てることで行動を操ってみせたオロルの言葉には呪的なものが宿っていたのかもしれない。
追い詰められていたはずのオロルが一貫して強気の態度を保っていたのも、あの窮地においてすでに逆転の筋書きが見通せていたからである。
「能無き者に呪術は扱えん。精々《せいぜい》呪詛を吐き捨てるのが似合いじゃ」
思考を止めぬ賢人は時を操らずとも明晰を誇示した。
激しい戦闘により両者の間には剥がれた鱗と血飛沫が舞っていた。オロルはそれらを手で払い、柱時計の脚を持ち上げ、ユラを吊っている紛い物の神器ごと踏み潰す。
敗北の烙印を捺すようにユラは地面に叩きつけられ、その瞬間に時止めの能力から切り離される。大地と接触したために制限を超えて術式が破綻し、静止空間から置き去りにされたのだ。
引き伸ばされた刹那は再びオロルだけのものとなった……だが、オロルもまた限界だ。
片肺だけで挑んだこの死線は掛け値なしに大博打だった。
外敵のいなくなった空間で人心地つくと、思い出したように血を咳いて、呼吸は浅くなる。
許されるなら柱時計の神器共々倒れ伏せってしまいたい。精魂尽き果て満身創痍である。息を整えたいのに、大きく吸い込めば肺が痛むので仕方なしに細く浅い呼吸を繰り返すしかない。
時止めの強度を維持することすら煩わしく、せめて呪力を弱めて時の運行を緩やかに進めて気を和ませた。現在オロルの体感速度は常人のおよそ二十倍。視界に映る雨粒がゆっくりと形状を波うたせながら地面に落ちるのが見える。
その向こう、ずっと切り離されていた前線の争いは、緩慢な動作ながら戦士の吶喊の雄叫びと駆け出す身の躍動が歩みよりも遅く繰り広げられている。迎え打つトガの形相も鬼気迫るもので、両陣営がぶつかり合おうとする僅かな時間に半蛇の女との死闘を演じたのだと思えばどっと疲れが込み上げるというものだ。
本当に、一日があまりにも長い。
ユラの沈黙を確認してオロルは時止めを解除すると、わっと耳に雑多な音が飛び込んでくる。長らく音を置き去りにしてきたため、銘々の音が粒立ってつんざくように聞こえた。辺りに散らかり放題となっていた両者の血の飛沫がやっと重力に任せて地面に落ちると、ばさりと縢るように重たくのしかかり、オロルの金色の髪を朱色に染める。
降りかかる血液の波に押し流されるようにユラはごろりのもんどり打って仰向けになり、意識を取り戻す。
紛い物の神器は時止めによって激しく消耗し、見る間に朽ち果てていった。繋がっていた臍の緒も茶色く萎びて千切れ、治癒術式も発動していないところを見るに持ち合わせが尽きたのだろう。
「なぜ、とどめを刺さない……」ユラは言う。
「……刺さずともお主は長くない」
オロルは癒えきらない片腹を腕で庇いながらも堂々と見つめ返した。召し取ることは容易いが、敢えてそうしたのだと語るには十分な瞳だった。
「お主は嫉妬に駆られ、ありとある呪術を模倣し手に入れた。じゃが消費する鉱石にまで考えは及んでおらん。身に余る力を維持するために命を随分と消費した……言葉通り『嫉妬に身を滅ぼした』というわけじゃな。
……まぁ、……もとより惜しくないと投げ打ったのじゃろうが」
ユラは静かに死を悟り、じっと手のひらをみる。
紛い物の神器と同じように、肉体が急速に老いていくのがわかる。
乾き、刻々と皺を増やして痩せ衰える体。視界はぼやけ、きんと耳が遠くなる。風に揺れる長い髪も枯れ枝のように縮れて白くなっていた。
――殺するは蚩尤。
ユラは己の最期を菊して、幾許かの心を取り戻したように見えた。感情の宿らない蛇の瞳が人のそれに戻り、丸い瞳孔の奥には、欠落していた感情が蝋燭の火のように再び小さく宿るのが窺えた。
それは後悔か、無念か、老媼の頬に一雫の涙が滲みた。
「ヨナハ……」
オロルには心当たりのないこの一言が、六欲の欠落者、嫉妬のユラの辞世の言葉だった。
後に続く言葉が何であるか、推し量ることもできない。
この長く果てのない戦役の世に生まれた者達。例えこちらが人でないと断じ、化け物の類いと定義しても、禍人種は他と近しい人類なのだとオロルは悟る。憎み合うもの同士が敵を人と見做さないその心理も、分かる気がした。
「ユラ、ヨナハ……か」
オロルは前線から世を儚む面持ちで内地の方に顔を向ける。遠く神殿を望むことは叶わないが、雨雲に煙るマハルドヮグの峰が微かに山陰を映している。……内地に設けられた防護結界、そこに込められた呪術の意味合いも今は解る。
いつかガントールは言っていた。
『防護結界に侵入した禍人は、擬態が維持できなくなる……それを咎と読んでいるに過ぎない』と。
これまでの道すがら、簡単に切り伏せてきたトガも、元を辿れば禍人なのだろう。討伐する兵士の心理的負担を軽減するために、内地の防護結界は強固な呪いを内に宿し、存在しているのだろう。
加護に癒えた体はようやっと痛みなく腕が動かせるようになった。
オロルは短く合掌すると、柄にもなく弔いの念を呟く。
「いつか新たな生を受けたなら、争いのない時代であるように……」




