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最後の異世界転生譚 ――Echoes Beyond the Aurora Manuscript――  作者: 莞爾
11 災禍の龍 前編

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85話 私の絶望がわかるはずない

 オロルは徒手空拳の構え。この静止空間では言葉スペルアレスも意味を成さないため、戦う手段は体術しか残されていない。

 一方でユラは手加減もなく長い両腕を呪力の炎で燃やし、指先まで殺意を漲らせた。


 縦に尖る爬虫類然とした瞳孔が睨め付けて、オロルを射抜く。


 ユラは距離を詰めると右手を引き、攻撃の予備動作に入った。一歩踏み出す重心移動に合わせて膂力を奮い襲いかかる。


 対するオロルは、直接触れれば何のまじないを喰らうか想像もできないため、纏っている前掛けを撚って攻撃をいなす。互いがぶつかり合うたびに呪力は火の粉を振り撒き、同時に擦れた腕の鱗も散った。散った側から時を止めて空中で固定される。


 次いでユラの左手が繰り出される。左右交互に突き出しと予備動作が巡り連撃となった。目にも止まらぬ手刀と殴打を衣服越しに受け流さなければならないオロルは防戦一方で、あっという間に衣服も肌も裂傷だらけになって追い詰められる。


「ほら、これでも私は未熟か? このままじゃ終わっちまうよ賢人様」


 ユラは攻撃の手を緩めない。

 オロルは軽口を返す余裕もなく迫る手数を払い、散った鱗を押し除けて、じりじりと後退する。


 下がった足先が壁に触れた。

 不可視の壁、柱時計の領域の限界にまで追い詰められた。


 オロルは一瞬だけ意識が逸れ、次にユラを見たときには対応が遅れた。


 外套の裾の隙間から貫手が差し込まれ、指先が肌を貫く鮮烈な痛みがオロルを襲った。


「がふぁ……っ」


 横凪に迫った貫手は肋骨を砕き、肺を傷付けた。穴の空いた腹からは白いあばら骨が覗き、溢れ出した血が、肺から漏れた呼気によって赤く泡立ち見えなくなる。

 よろける動きを追いかけるように、出血した軌跡が荒々しい筆の墨のように空に固定される。


 ユラは満足そうに返り血に濡れる己の手を見つめた。

 オロルは苦悶に顔を歪ませ、堪えられず涙が滲んだ。


 時止めの状況では、神殿の治癒術式も発動しない。

 しかし時を進めてしまえば、ユラは目にも止まらぬ速さでとどめを刺すことだろう。


「……偉そうなこと言って、もう終わりだね」


 ユラはオロルを追い詰め、勝利を確信している。

 誰の邪魔も入らない。魔呪術を一方的に行使できるこの場で、どう考えても継承者に逆転の目はない。


「あんたさっき『甘っちょろい』って言ったでしょ……それは違うわ」


 ユラはどうしても言い返したかったのだろう。首を振り、己が内に秘めたものを吐き出す。


「わからないでしょ。いつでも自信に満ちてるあんたには、私の絶望がわかるはずない」


 オロルは左の肺が萎み、喉から犬の唸り声のような音を立てて苦しく呼吸を繰り返している。瞳は力無く土を見下ろし、瀕死だった。


「家族を失い、残された妹のために体をあの男に明け渡し、そうしてやっと私はこの戦場に辿り着いた……この絶望が、屈辱がわかる……?」


 問いかけの後の沈黙。聞こえているのかわからない沈黙の時間が流れる。

 オロルは疲弊した様子でゆっくりを呼吸を繰り返し、小さく笑った。


「……知らんよ、……恥晒しが」


 これだけ追い詰められた状況、人情なら命乞いを込めたへつらいの受け答えがあってもよいというもの。


 それをオロルは唾棄だきするが如く一蹴した。


 虚を衝かれた後、埋み火に風を吹き起こしたようにユラの殺意がめらめらと燃え立つ。全身に纏う呪力が爆ぜて火勢となり、あたりの塵や鱗、血と汗を吹き飛ばす。爆心地に立つユラは、丸く見開かれた目でオロルを呪い殺さんばかりであった。

 うべなった同情の言葉を、期待するだけ無駄だった。


「死ね」


 短く言い捨てて、指先から呪力の光線を放つ。音もなく迫る光線はオロルの眉間を貫く軌道だったが、ユラの呪詛と被さるようにしてオロルも宣言していた。


「顕現……!」


 不意に現れた巨大な結界が、ユラの放つ光線を遮る。


 ユラは何が起きているのか理解できていないまま攻撃を継続する。

 静止空間では誰の助太刀もできないはずだった。さらに言えば、三女継承は魔呪術の重ね掛けもできない……ならば、降って湧いたあの壁は何だ。


 砕けた呪力の飛沫が火花となって散り、空中で術者との接続が断たれると時を止めて光子となり結界の輪郭を浮かび上がらせた。それはオロルを囲む列柱……両者を隔てる壁が顕現していた。


 これこそが三女継承の神器、柱時計である。ユラは『時計』というものを知らないため、蜘蛛を模した巨大な魔導具と認識している。


 柱の隙間、オロルは失血に顔色を青くしながらも、勝気にユラを見つめていた。


「言ったじゃろ……不便があると……」


「何が不便よ」ユラは忌々しげに言う。「奥の手の神器ってことね……」


 領域の行動限界を示す八本の脚。

 オロルは展開している脚の間隔をあえて狭めて顕現し、八本の柱それぞれを盾としたのだ。制限を逆手に取った防衛術である。

 今や綱で吊るされているオロルは柱時計の内側で堅牢に護られ、まさしく振り子のように収まっていた。


 ユラは隙間を狙い光線を放つが、蜘蛛の脚のように機敏な動きで位置を変えて攻撃を防ぐ。巨大な柱を己が手足のように巧みに操る鉄壁である。

 守りには数本の柱があれば事足りる。持て余した残りの柱を伸ばして攻勢に転じた。ユラは身をくねらせて、振り回される柱を掻い潜ると一旦間合いを離す。


 埒が明かない……そんな視線がオロルに投げ掛けられる。打開するためにユラがどう出るか――自明である。


「その神器が欲しくてたまらないわ」ユラはそう言って、持ち得ぬ神器に羨望の眼差しを送る。「ああ、羨ましい」


 その言葉に応えるように、ユラの肉体は半人半蛇からさらに異形へと変貌を始める。


 オロルは眼の前の光景に目を見張った。嫉妬の術式はあくまでも模倣、まさか柱時計を召喚できるとは考えていないが、ユラはそれを欲したときにどうなるかは想像していなかった。

 絶望の術式は、際限なく欲求を満たそうとしている。


 まず、著しい変化を遂げたのはユラの腹部である。身籠るように内側から膨張し、それに押される形で腰に留めた布鎧の留め具が弾けた。股の下からは、赤黒く濡れた触手のような異形の足が垂れ下がり、ひたひたと地に降り立って自身を支え立ち上がらせた。みるみるうちに筋肉を発達させ、細く長く成長した触手の体積は、あっという間にユラを超えた。

 ユラは肉塊で形作られた醜悪な蜘蛛の下で逆さまにぶら下がりながら笑壺えつぼる。

 形容し難い彼女の姿。強いて例えるならば、化け物を産み、まだ繋がっている臍の緒に母体がぶら下がっているような有り様だ。


 生命の尊厳すら失い、静止空間は気の触れた女の笑い声がどよもした。

 恐ろしい光景に流石のオロルもたじろいでしまう――だが、勝機はこの状況にこそある。


 オロルは神器の脚を展開して縮めていた行動範囲を再び最大まで広げると、ユラの間合いに躍り込んで蹴りをお見舞いする。


 逆さまの体勢となったユラは両腕で攻撃を受け止め、見下ろす形でオロルを見上げる。反撃とばかりに腕に呪力を込めて手刀を振るうが、込めた呪力は発揮されずに脛を叩いただけ。ユラの想定ではし切るだけの力を手刀に込めたはずだった。

 僅かに戸惑い生じたユラの意識の隙、オロルはもう一方の脚で顎を振り抜く。靴の甲に掠めた手応えがあった。掴まれた脚を引き抜き一度退がる。畳み掛ける!

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