84話 羨ましい
敵はオロルを見失い、突き出していた手刀を下ろす。
「……あたったと思ったのに」
その声は形に似合わず若い女のものだった。やや擦れ気味で朴訥とした声は感情が薄く、吐き出される言葉は呪文のような響きを持っていた。
長い首をぐにゃりをしならせて、背後に立つオロルを睨む。目に捉えずとも気配で居場所がわかるようで、振り向く動作に迷いはない。
敵は続ける。
「そんなに早く動けるなんて……羨ましい」
羨ましい……?
命の駆け引き、理不尽がまかり通る戦場で、敵の能力を羨むとは。
オロルはそんな疑問が浮かんだが、表情にはおくびにも出さずに殊勝な笑みを浮かべてみせる。
両足を微かに浮かせたまま、敵と向き合う。
「お主は速いさ、危うく一撃喰らうかと思ったわ」
「お世辞が言える余裕があるなんて……羨ましいわ」
羨ましい……オロルは繰り返される敵の言葉に引っかかり、見咎めるように暫し睨む。
半人半蛇の方はそんな視線に首を傾げて見つめ返す。何を考えているのかわからない。心ここに在らずといった風で、はっきり言えば隙だらけに見えた。だが仕掛ければ反撃が来るのは分かっている。
「攻撃してこないの……?」半蛇の女は惚けた調子で借問する。
「まぁの」鼻柱を人差し指の側面で弾くように擦る。オロルの予想は確信に変わった。「こちらが仕掛ければ同じだけ、返すつもりじゃろうからな」
「あら、流石……」
蛇の女は竿のように長い両腕を折り曲げ顔の側で手を合わせる。賞賛の言葉を吐くものの感情は乗っていない。ただ一つ、後に続いて繰り返される言葉のみが心を伴っていた。
「頭がいいのね……羨ましい……」
オロルは重ねられた言葉に呪的なものを嗅ぎ取って警戒を強める。こちらから仕掛けない以上敵の動きはないが、次の何かが展開されるのは分かっている。『羨ましい』と口にするときだけ、蛇の目に羨望の色が宿るのだ。
何かよからぬ予兆がその瞳に映っているように見えるが、問題は術式の中身が判明していないことだ。口の端に浮かぶ言葉が何を練り上げているのか……。
「頭が良くて……すごく速くて……、とても強い」
蛇の女は、まるで幼子が知見を己の身につけるとききっとそうするように、声に出して頭に覚え込ませる。
相対しているのが敵同士であるという事実を忘れているのではないかと思うほど、振る舞いは痴呆のそれである。しかし手を出せば思う壺。オロルは閉口して身構えることしかできない。
女はうんと頷き、学び得たものを呑み込むように鎌首を擡げ、オロルを捉えた。その視線が先程までの無感情とは異なることに気付くのが遅れた。
――しま……っ!
反射的に時を止めたが、オロルの視界は押し流されて柱時計の領域限界に背を打った。
肩に指を食い込ませ、体を押さえつけるのは半人半蛇の女。その長い両腕がオロルに接触しているため、静止した時間のなかへ侵入を許してしまった。
蛇の女は長い首を伸ばし、オロルの耳元で囁く。
「……へぇ、三女継承は時を止めるんだね……」
底冷えするような声音は確かな知性を宿し、先程までの呆けた様子は見られない。
敵が呟き呑み込んだ三つの言葉、これらを羨望の念と共に取り込み我が物にしたのだとオロルは理解する。その推理は正しく、一連の流れが半蛇の術式の構造だった。
そして今、この状況ならば敵の次の一手が分かる。
同じだけの知性を手に入れたのなら、続く言葉は……。
「羨ましいなぁ……」
熱い息が顳顬を撫でて、ごくりと嚥下する音を聞く。敵はこれ見よがしにオロルの体に食い込ませていた手を離し、それでもなお静止空間を共有してみせた。
強かに背を打ち綱に吊られているオロルは、痛む肩を抑えて敵を見つめながら状況を理解しようとしていた。
半蛇は時を止める能力を獲得した。
考えうる限り最悪な失態だ。
三女継承者が持つ絶対の優位を、敵も手に入れてしまっている。
ことによっては勝ち筋は途絶えたかもしれない。
オロルは額に滲むあぶら汗を気取られないように面の皮を厚く、太々しく呼吸を整える。重たげな三白眼を冷ややかに細め、眉尻一つ動かさない。
「……わしの名はチクタク・オロル・トゥールバッハじゃ。三女神の三女継承者……。
お主……名を持つか?」
敗北を喫するかもしれない相手に、オロルは名を訊ねた。
立場は違えど呪術の道を征く者、気まぐれに頭の片隅に刻むつもりだろうか。
半人半蛇も一旦は構えを解いてオロルに対した。
「ユラ……嫉妬のユラ。六欲の欠落者だよ」
その言葉を聞いてオロルはますます目を細め声を漏らす。
「おぉ……嫉妬か。なるほどのぅ」
名は体を表すとはよく言ったもの。
羨望の呪術の根源が、嫉妬に由来するものだと分かった。
それ以外の感情が乏しいのは七欲の残り――傲慢、憤怒、怠惰、色、食、強――を削いだ、言葉を借りるなら『六欲を欠落』しているからか……と、オロルは思考を組み立てる。
同じ時を操る能力を有しているものの、呪術式の成り立ちも体系も異なる源流から来ている。あくまで蛇の女――ユラの獲得した時止めは模倣……完全な再現ではない。現に不可視に隠している柱時計の神器は再現されておらず、その上ユラは地面に足を付いている。荒唐無稽な術式だった。
おそらくは、知覚した情報しか拾えていない。
こちらが持つ静止空間の縛りを向こうは知り得ないだろう。
それはつまり、こちらよりもより自由に時止めを行使できるということだ。
「お主はその嫉妬の力で、わしの持ち得る長所を羨望し、獲得した。そうじゃな?」
ユラは答えない。その沈黙が肯定を意味しているようだった。
「速度と、強度と、頭脳……そして時止めか。……じゃが、まったく同じ能力ではないようじゃな」
オロルは手袋をつけた手を前に、人差し指を立てる。
「まずは速度……これはわしの光線を身を以て体感し、そのまま移動能力に転化した。言わば縮地術じゃが、時を引き伸ばしたこの状況ではこれ以上の加速はできんじゃろう」
二本目に中指を立てる。
「強度……これは継承者という肩書を漠然と捉えた概念でしかない。恐らく対した身体強化はできておらんと見た。わしを模倣したとて、このか弱い賢人の肉体……たかが知れとる」
三本目、薬指が立てられる。
「頭脳……これもそうじゃ。記憶や知識がそっくりそのまま獲得できたわけはあるまい。多少脳に血が回っても、引き出しが空ならば意味はないじゃろうて」
ユラは不機嫌そうに長い首を項垂れ、口元に運んだ親指の爪を噛む。
「嫉妬というなら、わしは今のお主が羨ましくて仕方がない」
声音を変えて言い放つオロルの語り出しにユラは片眉を吊り上げた。続く言葉を待つ。
「お主は知らんじゃろうが、この領域には制限が多くてな……上手くすれば知恵のないお主でもわしを仕留められるやも知れん」
例えばそうじゃな、と思案顔をして指を広げ掌を向ける。
「時止めは強力な術式であるがため、術の重ね掛けはできん」
オロルが手袋をつけた手をひらめかせ、呪力を込めようと奮う。当然、何の反応も起きない。
ユラはものの試しと真似をして手のひらに呪力を流すと、こちらは燐光を宿した。
「お主は未熟な紛い物故に、道理を飛び越えた呪術がまかり通っておる訳か……」
落胆する素振りに隠したオロルの皮肉に気付き、ユラの無感動な表情の眉尻がきりと吊り上がる。
「こんなこと教えてくれるなんて、気前がいいんだね。それとも『苦しませずに殺してくれ』ってことかな」
オロルは肩を竦ませておどけてみせた。
「さぁて、どうじゃろ。甘っちょろい呪術の徒に、賢人様が智慧を授けたくなった……と言ったところかのぅ」
この状況で諧謔を口にして見せた。この太々しさはどこから来るものか。
「甘っちょろい……ね……」
聞き捨てならないといった顔で、ユラは挑発に安請け合いをする。皺の寄った眉の下で、蛇の目はぎらぎらと輝いている。




