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最後の異世界転生譚 ――Echoes Beyond the Aurora Manuscript――  作者: 莞爾
10 勇名の矜持 後編

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81話 正念場



 アーミラは意識を取り戻したと同時に痛みを感覚した。

 まるで煮えた油を顔にかけられたかのように、額から頬、顎に至るまで強烈な疼痛が襲う。

 すぐに飛び起きようとしたが力が入らない。動けと念じる頭からの指示が、身体の何処かで途切れてしまっていた。


 辺りは火の気が立ち昇り、石壁は毀たれて曇天が覗いていた。雨は弥増いやますばかりで、火勢と風雨が互いにせめぎ合っている。

 前後不覚だったアーミラは、状況を思い出しつつあった。


 あのとき偽者のニールセンは、イクスではなくナルを襲った。

 そして咄嗟に身を挺して庇ったまでは覚えている。この顔の痛み……そうか、奪われたのか。


 煙にしみる眼球を雨垂れが癒やす。剥き出しになった鼻腔が荒天の生温い風の臭いを吸い込む。壁材の焦げた香りが混じっている。


 かろうじて動く首を己の腹に向ける。

 湿疹のように赤く腫れた胸元の皮膚には無数の小さな穴が開き、とろとろと出血が確認できた。その下、鳩尾みぞおちのあたりから肉が齧り取られて腑を晒している。


 他人事のようにアーミラは腹を見つめる。肉に蛆が沸いているのをぼんやりと眺め、次第に意識が明瞭になる。

 湧いているのは蛆ではない。トガだ。蛞蝓とも蛭ともつかない細い蟲が蠢き、肉に噛み付いている。


 ――死んでたんだ……私……。


 全く実感は湧かないが、アーミラは悟る。

 ナルを庇い、トガに体内への侵入を許し腑を傷付けた。そして神殿の加護により蘇生が行われるまで死んでいたのだ。


 みんなはまだ無事だろうか……と、首を回せば状況はすぐに分かった。


 ――ウツロさん……。


 鎧は矢面に立って戦っていた。

 セルレイとナルを背後に囲いながら、火炎を飛ばす禍人を相手に槍を振るっている。傍にイクスもいるが、足の古傷が痛むのか火をいなすので精一杯だ。


 熱を操る禍人種……奴がダラクか……と、怒りに滾る思考とは裏腹に意識が途切れる。

 アーミラは失血による死を迎えた。おそらくは二度目の死である。


 加護による蘇生から目覚めたとき、アーミラはまた状況を確認する。

 幸いにも数刻前の死の直前から記憶の連続性は失われていなかった。空の明るさから見てそこまで長く気を失っていたわけではないだろう。感覚的にも微睡みに目を閉じたくらいのものだった。


 とにかく今は、腹を食い荒らすトガを追い払う。睡醒すいせいに痛覚が麻痺している今しかない。


 アーミラは神器を探して腕の力を振り絞り床を探る。天球儀の杖は少し離れたところに転がっていた。掴もうにも爪が微かに触れるばかり……これではアレスの行使は望めない。


「……詠唱、するしか……」


 歯を食い縛ったが、無駄だった。

 真っ暗な闇。再び、沈む。


 死んでいる間、アーミラは夢を見た。それは濃密な闇だった。果てもなく虚無が広がる空間で、心臓が青い炎を纏っていた。

 その鼓動は私のものだ。

 弱々しく脈打ち、次の鼓動の感覚が広がり、炎は大きく揺らめく。


 神殿の加護は継承者の娘を非死アモータルにする。姿形を維持するためにあらゆる傷痍、欠損から復元を試みるが、決して不死イモータルではない。

 灯された火が限界を迎えれば蘇生は叶わない。垣間見た己の心臓……己の死……アーミラの焦りが出血を早め、炎が風に煽られる。


 杖がなければ光矢は使えず、短い意識では詠唱スペルは途切れる。

 悔しさに歯を食い縛り、アーミラは細く息を吐いた。心を平静に保つんだ。まだ……、諦め……――


 意識が暗転し、アーミラは四度目の死をから目覚めると、次の死を迎える前に指先で床を引っ掻き始めた。杖を手繰っているのではない。

 杖も詠唱スペルも奪われたが、アーミラにはもう一つだけ、手段が残されていた。それはウツロと過ごした日々の中にあった――指筆である。


 邸の床は石畳で爪を立てても線を引くことはできないが、雨水に煤に己の血……何かが付着するはず……。それが墨となって筆跡を残せば、術式回路は組み上がる。


 指の感覚を頼りに陣を描く。それはアーミラが知る限り最も簡素な魔術回路であり、この場を打開する効果の期待できる術式でもあった。断続的な死によって意識が途切れようとも、次の命が術式の構築を引き継いだ。


「おねがい……」


 乾坤一擲けんこんいってき。アーミラは構築した陣に祈り、魔力を注ぐ。

 拙い回路ではあるが、術式が発動する。


 ――やった……!


 なんてことはない初歩の浮遊魔法……それこそ過去にナルトリポカの娘が石を浮かせて操っていたものと同じ、基礎の術式。

 できて当然のことが、今は感極まるほどに嬉しい。


 アーミラはその術で食堂のかめを浮かせた。


 邸はダラクとウツロの繰り広げる戦闘に荒れ、黒煙が立ち込めている。

 食堂の隅で小さな甕が浮いていることには誰も気付いていない。ゆらゆらと微弱な魔力で甕は移動し、アーミラの倒れている上空で止まる。


 あとは天命を待つのみ――アーミラは何度目かの死を受け入れるように目を閉じた。


 陶器が叩き割られる音が響き、皆の動きが止まる。

 ダラクもウツロも意図していない外からの音に警戒した。


 火災による視界不良の中、食堂に倒れていた次女継承者の瞳に光が宿る。啾啾しょうしょうと泣いていたナルは口を押さえ、女神の復活に目を輝かせた。


「アーミラ様……!」


 私を庇って身代わりに命を落とした彼女が、生きていてくれた。失態に己を責めていたナルは救われた気分だった。


 一方でダラクはこの状況に大いに狼狽える。

 体内に寄生し、腑を食い荒らす限り継承者は死に続ける……現に長女継承は無力化できている。三女神の中で一番手練の娘さえ倒してみせたこの奇策が――


「なぜ!?  そんなバカな……!」


 ダラクは扼腕やくわんしてままならない怒りを叫ぶ。

 敵の言葉ながら、セルレイも同感だった。戦場に起きる奇跡ほど不確定で理不尽なことはない。アーミラは何故生き返ったのか。……信じられない。こんなはずでは――。


「あの甕は……」目を凝らすのはセルレイだ。


 アーミラの倒れていた場所に散らばるのは、食堂に保管されていた甕だった。先程鳴り響いた陶器の割れる音の正体も明らかである。それが割られて、中に保管されていた塩が山となって床に散らばり、雨を吸って溶け出していた。

 しかしなぜ塩甕を割ったのか、言問顔のセルレイを置いて答えにたどり着いたのはナルだ。


「……蛞蝓なめくじ……いや、蛭……!」


 謎が解け、掛けられていた術が解けたようだった。

 アーミラの体を蝕んでいたトガは腹の穴から湧き出ては降り落ちて、床に転がりのた打ち回る。


 蛭に塩。

 正体不明と平原を恐怖させたトガは縮み、火に焼かれ、脆く崩れ出した。


 偽者のガントール、そしてニールセンの正体は軟体の体を持つ群生のトガだった。

 対象の手脚、胴体、衣服に至るあらゆるものが蕩けてねばつく分泌液と呪力によって形作られ、肉は糸屑のような蟲の類が結びつくことで人に化ける。そのためこの偽物に急所はない。


 体を裂いた斬撃も立ち所に治癒し、アーミラの矢が心臓を捉えても生きていた。間違いなくこのトガは平原の脅威だった。

 しかし、襲われたナルが偶然にも振り撒いた一匙の塩が、このトガにとってなによりも強い一撃だったのだ。助けに来たイクスの一閃が回復しなかったのは、傷痍に塗り込まれた塩の作用であった。


 アーミラはあのとき、床に散らばる白い粒を見た。

 そして偽者のニールセンは『お前さえ』と睨み襲いかかった相手は、イクスではなくナルだった。


 点と点が結びつき、現状打開のいとぐちとなる。

 それぞれが胸に宿していた勇気や矜持が僅かな手掛かりとなって、アーミラの命を繋いだのである。


 ダラクは叫ぶ。


「誰でもいいから道連れにしろ!!」


 その叱責に残る力を賭して、トガはその身をニールセンに変える。欺く為の変化ではない。なりふり構わず右手を槍に変え手負いのセルレイとナルを狙う。


 その槍は思わぬ伏兵に阻害された。横から飛び出してきた扇によって狙いは逸れ、セルレイには刺さらない。


「スークレイ……!」


 ニールセンを咎めたのは、杖から現れた女伯であった。


「ここが正念場でしょう! イクス・ハルバド!!」


 スークレイの言葉にイクスは斧槍を構えた。引き摺る脚を拳で叩き、気合で奮い立つ。


 アーミラは魔術で風を操り、トガに塩を撒くと蛭の一匹一匹に光矢を刺し貫いて消し炭にする。

 残されたのはあと一人。


「……儘ならねぇもんだなぁ……」


 ダラクは天を仰いだ。

 四人に前後を挟まれ、彼は荒く呼吸を繰り返す。


「そこのウツロよぉ……お前にはエンサがいただろうが……。次女継承よぉ……ハラサグリを倒すとは思わねぇだろ……」


 乱暴に頭を掻き毟り、ダラクは肩の力を抜く。

 男にとって今回の策は勝率が高いと踏んでいた。一目でわかるほどの落胆……禍人は内省に俯く。

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