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最後の異世界転生譚 ――Echoes Beyond the Aurora Manuscript――  作者: 莞爾
10 勇名の矜持 後編

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76話 燭台みてぇだな

 この坂の勾配はほとんど垂直だった。水が流れていればここは滝になっているだろう。

 背を斜面に貼り付け水路の縁に脚をつっかえて少しずつ降りていくと、また暗く細い一本道に繋がる――いや、丁字路だ。


 ガントールは松明の火を義手で握り消すと、その場で息を殺し身を潜めた。

 道の先、一見して行き止まりにしか見えない壁面が松明の明かりに照らされている。それが左から右に向かって移動しているのがわかった。何者かがこの通路を使用している何よりの証拠……だが、この場は気取られずやり過ごしたいと考えた。攻め込むには準備が整っていなかった。


 ガントールは身動ぎせず、相手の姿を見てやろうと目を凝らす。

 通路の壁には、松明に照らされた影がゆらゆらと映されていた。

 ――こちらに曲がるな……真っ直ぐ通り過ぎてくれよ……。


 ざりざりと警戒することなく我が物顔で石畳を踏む足音。それが不意に立ち止まり、地下通路は静寂に包まれた。


「臭うな……」


 聞き覚えのある男の声が地下通路にうわんと反響する。

 ガントールは腹に抱えた剣を静かに持ち直した。


 足を止め警戒しているのなら、互いに気配は察知しているということだ。こちらはすでにダラクと呼ばれる男であることも確信しているが、向こうはまさか長女継承が地下にいるとは思うまい。因縁浅からぬ相手だ。今度はこちらから奇襲をかけるのも意趣返しとしては悪くないだろう。


 仕掛けるか……。


 燃えるような覚悟とは裏腹にダラクは松明を消した。ガントールの視界は真っ暗闇に包まれる。

 からん。と乾いた音。松明を捨てたダラクが来た道を引き返し、逃散する足音が闇にこだました。


 ガントールは追いかけようとしたが、剣を受ける体勢にして身を固めた。離れていくダラクの足音とは別、こちらに迫る風を感じたからだ。


 ――なんだ……?!


 前に構えた剣が何かを受けた。視界を奪われているため感覚で捉えるしかないが、それは水のように手応えのない、柔らかなものだ。それを刃で両断した。

 左右に分かれたそれはばしゃりと水音を立てて纏わり付く。濡れて重いものだが、水よりも粘性がある。何より不定形のそれは両断しても蠢き続けている。


 衣に染み込み肌に纏わり付く液体は、触れている部分に痛痒感を覚えさせる。

 本能が危険を訴え、ガントールは声もなく戦慄する。


 その液体が明確な意思を持っていると悟り、もうダラクを追いかける考えはなかった。


 ――何を浴びた……!? 何に襲われている……!!


 ガントールは悲鳴を押し殺し、身体が動くうちに来た道を引き返して井戸から飛び出した。


 日のあたる場所まで戻りガントールは袖を捲り上げる。痛痒を覚えた箇所を見れば肌が粘液にぬるついて、皮膚には針の穴程度の無数の出血が確認できた。


いっ――」


 ガントールは脹脛に痛みを感じ、慌てて裾を捲る。

 そこには皮膚を食い破り体内へ侵入しようとする透明なひるがいた。反射的に手を伸ばして捕まえようとしたが、粘液に滑り、肌の奥へ潜り込んでいった。後には少量の出血と小さな穴が残る。


 ――まずいぞ……何匹入った……?


 顔面蒼白でガントールは立ち尽くすしかない。

 体内に侵入された。きっとトガに違いない……対抗する術はあるか……? 斥力でどうにかできないか、いや無理だ――


「う……っ、」


 不意に吐き気を覚え、ガントールは咳き込んで喉に詰まったものを吐き出した。

 喀血かっけつに赤く染まった地面を呆然と見つめ……死を覚悟する。


 内側から痛みは増している。首の筋が痙攣しているように思うが、皮膚の下を這いずり回る蛭が脳に向かっているのだと分かって、自分の首を両手で締める。……入ってくるな……。


 鼓膜の内側から軟体の蠢く粘ついた音が響き、鼻からは体液が漏出した。鼻水か血か、もう確かめる為の視覚は失われ、白く焼き切れそうな脳内で思考は目まぐるしく生存の可能性を探る――神殿の加護で肉体の損傷は癒やされるはずだ。だけどそのあとも体内のひるが私を食い続ける、こうなればはらを切ってとりだすか、いやぬるぬるしてつかめないだろいしきだってもたないなんかかおがかゆいぞむくんできてるきがするおかしいしぬかゆいどうなってるだれかかゆいたすけてしぬしぬもうだめだ――


 ガントールの体は見る間に浮腫むくみ、額に浮かんだ青筋は紫に変色を始める。眼球は上向いて、鼻からは濁った鼻水がだらだらと垂れ流しになっていた。

 体幹を支える胴回りの筋肉が食い破られてだらりと倒れたガントールは、しなる上体を制御できずに井戸の縁に強かに顔面を打ち、血をあたり一面にぶちまけた。眼球も脳漿も飛散して、後は加護による蘇生と体内のトガによる捕食による死を繰り返す。


 当代継承者の正式な長女として国々から期待されていたリナルディ辺境伯の娘、ガントールは、誰もいない戦線の外れで再起不能に陥った。


 一方、前線の維持に尽力していたオロルの前には、一際上背のある化け物が現れていた。

 奇妙なのは長い四肢と首の位置だ。オロルはそれを見咎めて怪訝そうに見定める。でたらめに延長した人の体に蛇の首をくっつけたような、人に化けたつもりならば「下手」の一言だが、臆することなくこちらを見定め悠然と迫る姿は只者ではない。


 禍人種か、それともトガか。いずれにしろ一線を画す厄介な相手の出現にオロルは顔の汗を拭った。潜るべき死線がやってきたのだ。





 熱い雲に陽射しは遮られ、雨の降り出しそうなスペルアベル南方。ウツロはそこにたおれる若者達を見つけ、足を止めた。


 まるで身体が爆ぜたみたいに血飛沫を撒き散らしている兵達を見下ろし、何かの冗談かと眼の前の光景を呑み込めなかった。生存者を探すように一人ひとり亡骸から亡骸へ線を結ぶように見て回り、地面に顔を埋めて息絶えている兵士の肩を揺すった。

 朝に馬に跨り邸を出た彼ら……油断なく得物を携えて討伐に向かった彼らが悲鳴の声もなく、静かに命を落としている。


 ウツロはここへ向かう道中に鏑矢の音を聞いてはいない。討伐隊に追いついたときには平原に生者はいなかった。

 兵も馬も、争った形跡もなく血を吹き出し、地面に転がっている。


 トガの姿はなかった。

 得物を構えた様子もない。


「――よう」


 不可解な状況に気を取られていたウツロの背に軽薄な声がかけられる。

 振り返るより先、挨拶がわりの炎を浴びせられた。ぼう。と、首の穴に火が投げ込まれ、暫く燃焼を続ける。


「首がぇと燭台みてぇだな。似合うじゃねぇか」


 ダラクの軽口を無視してウツロは一足飛びに拳を振り抜いた。語る口は持ち合わせていない。


 固く握った鉄の拳はダラクの鼻梁を砕くはずだった。しかしその手前、別の人物が割って入り頬で受け止めた。下顎を砕く手応えがあった。

 何者かとウツロは手を引くが、ダラクを庇った者の顔を一見しても誰かわからない。真っ赤に染まった筋組織が剥き出しの面……軍衣を纏った何者かが鼻血を噴き出してひしゃげた顎を庇い、苦悶する。


「ウツロ……さん、逃げて、下さい……」


 見る影もない。それでも、討伐隊の生き残りだと分かった。

 殴られたことに対して怒りを露わにするでもなく、彼の闘志は消沈していた。

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