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最後の異世界転生譚 ――Echoes Beyond the Aurora Manuscript――  作者: 莞爾
10 勇名の矜持 後編

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75話 あれは井戸ではない

「あれは井戸ではない」


「……セルレイ伯爵の井戸は水が汲めるぞ」言い負かされるとわかっているが、ガントールは指摘する。


「あれは先代が領地奪還後に地下水脈まで掘り下げた歴史の浅いものじゃろう。今言いたいのは涸れた井戸の方じゃ」


 ガントールは動きだした戦場の喧騒に目を向けている。吶喊とっかんの声と砲撃の衝撃が絶え間なく腹に響くが、耳と口だけはオロルと会話を続けていた。


「『井戸ではない』って、じゃあ何なのさ」


「涸れた水路は道になる。誰の目にも触れず移動する間諜にとっては、理想的な通路ではないか」


 禍人は別の水場を確保している。盆地を囲む峰を望めば候補はいくらでもあるだろう。マハルドヮグとは異なる水源から水を引き、その結果旧時代の井戸は枯れてしまった。城が見えないのは敵の本拠地が地上階の建築様式ではなく濾過器を備えた石窟で、恐らくは地下にあるのではとオロルは推理した。


 この予想が正しいかどうかは誰も知らないところであるが、ガントールはムーンケイで現れたトガを思い出した。

 次女と三女の継承者が選ばれ、空に陣が現出したあの日、トガは海を泳いでやって来た。巨大な斧にも似た尾鰭を振り回し牙を剥いたそのトガはオロルの初陣に倒れたが、水に適応できるのであれば、水源を確保している一つの証左と考えられる。


 もし禍人の根城が地下にあるのなら、見つけていないだけで近くに本丸が存在している可能性がある。根拠こそ薄いが……それは良い報せだった。当代の働き次第では戦争に終止符を打つことができるかもしれない。

 そして問題の前線の穴も、恐らくは古い水路を辿っているという検討がついた。


 これが継承者二柱がラーンマクに到着し、導き出した結論である。

 三女継承の智慧ここに極まれり。後は巨魁きょかいを討ち取るのみとガントールの目に光が宿るが、愁眉を開くにはまだ早かった。

 ここから一月ひとつき、二人は連日の戦線維持に忙殺されることとなった。





 継承者は一騎当千の強者であるが、戦争は盤上の駒のように単純ではない。

 いくら強い駒が場にあれど、それが勝利に直結するわけではないのだ。


 死をも恐れぬ獰悪どうあくなトガの群れと禍人種共が雑兵として行く手を阻む。それが己に向かうなら蹴散らすだけだが、時として同じ正義の旗幟きしを掲げる仲間の兵士を凶手から守る必要に迫られる。盤上であれば切り捨てられる駒でも、戦場で失われるのは紛れもなく一人の命。見捨てる判断はずっと難しいのが情動である。


 二人にとってそれがときに足手まといになり動きを鈍らせた。どうしても攻め手を緩め、進行した前線を引きかえして仲間のために退かなければならない状況も数え切れない。単騎であればどれだけ楽かと心の中でつばを吐き、辛酸を舐める。

 しかし彼らなしには前線の維持はあり得ない。力の及ばない仲間の兵士を蔑ろにして、継承者二人だけで相手をしていては前線は崩壊してしまう。煩わしいが無碍にもできない……歯痒い日々を過ごした。


 オロルとガントールは埒のあかない戦況に辟易し、打開するために一人を戦闘に専念、もう一人は地下の通路を捜索するために二手に分かれることになった。いよいよ戦力に余裕がないため、ガントールの判断でラーンマク辺境伯領の一人、スークレイを下がらせることになったのもこの時である。――ちなみに辺境伯は複数存在するが、ガントールはスークレイだけを引かせた。完全な私情である。

 そうこうしている間に、季節が夏ノ二に入っていた。


 酷暑の前線にて、ガントールはついに目当てのものを見つけた。涸れ井戸である。


「……これは……」


 足元に砂がこぼれて落ちる音が、やけに響いた。思わず唾を飲み込み、井戸の縁を握る手に力を込める。


 場所は前線ラーンマクから東に逸れてデレシスに向かう辺り、地下通路の探索のため単独で移動していた昼のことである。

 似たような涸れ井戸はこれまでの探索でも目にしている。だが地下通路として使用されている井戸は限られているらしく、大半は地盤沈下や戦闘の被害を被り路が途切れてしまっていた。


 ガントールは今度こそ当たりであってくれと願いながら穴を覗く。水の臭いはしない。やはり涸れているが、底が見えないほど深いのは初めてのことである。

 これほど深いなら地下構造が戦闘の被害を免れているかもしれない。当然地下通路として用いられている可能性も高まる。


 ――どうしよう、潜るべきか……。


 知恵や道理で判断するのが不得手なガントールは、視界の確保ができないこの穴に踏み込むのを躊躇う。


 そもそも、戦闘向きであるガントールが探索を担当し、前線の維持をオロルが担っているというのは采配が逆である。当然それはオロルも知るところ。

 そのオロルが何故ガントールに探索を任せたか。まず、地下通路という性質上道は狭い。柱時計はその狭い空間では真価を発揮できないというのが主な理由であった。その他にも、ガントールは仲間の治癒術式や戦術指揮の心得がない。今の戦線維持に必要なのは一騎当千の駒ではなく、駒を動かす棋士だった。故にオロルが戦場に残り、この暗い涸れ井戸の探索はガントール一人で行われた。


 灯りのための松明と火種の石は用意があるが、果たしてこれで万全と言えるのか、オロルならどうするか、ガントールは自身がない。……なんとなく、まずい予感がしていたのだ。

 口を開けて待つ涸れ井戸の闇を覗き、獣人種の勘が肌を粟立たせ身の危険を感じ取っていた。


 しかし引き返す意味もない。ガントールは覚悟を決め、井戸の壁を擦るように手足を踏ん張り、静かに暗闇に潜っていった。


 井戸はガントールには窮屈だった。迫持せりもち形の水路は左右が低く、中央が高い。床も石畳を敷いたような構造で、中央は轍を切った溝があり一段深くなっていた。そこであれば身を屈めずとも歩けそうだと松明の火を灯して確かめる。


 水が漏れ出さないように水路の作りは密閉性が保たれていた。涸れてしまった今でもその頑丈な作りは健在のようで、微かな物音ひとつでも遠くまで反響して聴こえた。鎧を纏った今の装備では隠密には向かないと考え、ガントールはそっと略装に整える。擦れて音の鳴りやすい胴鎧と内腿の板金を取り払い、井戸の底に安置した。……よし、行こう。


 ガントールは外からの光が届かない水路を進み、一つ目の曲がり角にたどり着いた。首だけを伸ばして先を覗くが、当然何も見えない。

 明かりが見えないということは、ここには誰もいないということだ。ガントールは松明で暗闇を照らした。


 そこにあったのはただの曲がり角ではなかった。

 目の前を照らせば壁がすぐ近くにあり、水路は行き止まりかと思えた。が、そうではない。斜め下に伸びて先に続いていた。

 ここは本来水路なのだ。人が往来するための場所ではないため、勾配も急で階段もない。降りるにも苦労するが、登って帰るのはもっと面倒そうだとガントールは眉を寄せる。


 踏ん張りが効かないのでは音を立てずに先の様子を窺うことも難しい。ガントールは降りる前に靴を脱ぎ裸足になって石畳の坂に張り付いた。細かい砂が足の裏に付着するのが分かる。きっと井戸から出た頃には全身砂まみれだ。

 松明の柄を口に咥え、脱ぎさった靴は紐を結んで首に引っ掛けている。背剣している神器が石畳に擦れるので腹に回した。虫のように坂を這う無防備な自分の息遣いすらうるさく思えた。

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