74話 だとしたらおかしい
問題はここから……ガントールとわしらで群がる敵を一網打尽にできるかどうか。
オロルにとってそれだけが心配だった。
命を賭けた一発勝負。しくじれば恥晒しとして後世に語り継がれることになる。他人には決して見せないが、沈思しているオロルは人並みに心配性の質だった。
心配といえば、オロルの懸案がもう一つあった――神殿で見た国土大略図の禍人領が測量できていなかったことだ。
オロルは前線の向こう、地平の果てに視線を向ける。そこはスペルアベルから地続きの平野で、地平の向こうは山に囲われている。
これがオロルの頭を悩ませる。……つまり、前線から向こうの禍人領は盆地に位置しているが、南の切り立つ山脈までの間に本拠地らしき生活圏が見えないのだ。
神殿であれば北を向けば立ち上がるマハルドヮグの嶺が望み、帝の居場所を晒している。敵にとって達成すべき目標は目に見える場所にある一方で、こちらは攻め落とすべき目標が把握できていない。
それだけではない。トガについて知らないことは山ほどある。
奴らが何処から生まれ、如何にして人に化け、何の目的で襲うのか。禍人の想い描く勝利の形さえわかっていない。人を殺し尽くした後に奴らは満足というものを覚えるのかどうかすら怪しい。ただ非道の限りを尽くすことを喜びとしているように思えてならない。
継承者となってわかったことは、敵の存在がわからないことだらけだということだった。先代継承者達が領地を確保するにとどめ、トガを根絶やしにできなかった理由が今のオロルには理解できた。
兎に角、今はこの地を平らげる。
それとは別に焦眉の急必要なのは、禍人が前線を掻い潜り内地へ潜り込む穴の捜索だった。いつまでも背中に回り込まれる道を残していては、戦況がひっくり返ることもあり得る。
時が動き出せば考え事をしている暇はない。オロルはさらに思考を深く掘り下げていこうとしたが、この場で結論を出すには手掛かりがに乏しい。
「……流石に一人では厳しいか」
独言ち、ゆらりと綱を操りガントールの後ろに移動すると、腋に手を差し込み一息に持ち上げた。
力尽くでガントールを地面から離し、静止空間を共有する。呪術でガントールを浮かせなかったのも、制限の一つである。
時止めの間オロルはいかなる詠唱も術も行使できない。
「ん、え……?」
景色を眺めていたら抱きかかえられた。……ガントールからしてみればオロルの行動は突拍子のないもので、戦場を前に柄にもなく気が昂ったのだろうかと困惑した。
「重たいのぅ……わしの手がもたんから、お主の方から掴まれ」
「そう――」
ほとんど羽交い締めされている体勢でどこに掴まればいいのか。と、言いかける間にオロルが目の前に現れた。
「――言われても……?」
「早う」
促され、ガントールはオロルの腰にしがみつく。巫山戯ている場合じゃないのにと戦場を見れば、景色が凍りついていることに気付く。
砂を巻き上げる風も、誰かが放った魔術の光もぴたりと静止している。
時が止まっているのだとガントールは理解する。
「お主と話せるのはわしに触れている間だけじゃ。……おっと、足を付けるなよ」
「無茶を言う……」
「なぁ、ガントールよ。お主はトガの巣を見たことはあるか?」
藪から棒に問われ、ガントールは答える。
「ない、かな」
「では禍人種の城は?」
「それもないね。……なんだよ、攻め落とそうって考えてるのか?」
「極論はそうじゃな。誰も敵の住処を知らんのか」
「知っていたら戦争が膠着状態になるはずがないよ。でも、住んでいた痕跡はいくらでもあるだろ」
ガントールは当然のことのように言う。
「セルレイの邸だって、先代継承者が奪う前は禍人やトガの領域だろう? なら遺跡は奴らの住んでいた家なり城なりじゃないか」
オロルは目から鱗、盲点だったとガントールを見直す。
「そういう見方もあるか……じゃがあれは大元を辿ればわしらの土地、わしらの街をトガが攻め込み奪ったのじゃろう? マハルドヮグ時祷書は読んだか?」
ガントールは馬鹿にするなという顔でオロルを見上げる。
「神殿育ちを見くびってもらっちゃ困る。時祷書どころか法典を読んださ」
「ほう、ラヴェル法典か……それはすまんな」
オロルは珍しく謝った。法典に目を通しているとは……。
ラヴェル法典――二人の口から挙げられたその書は庶民と知識人を分ける法律書であり、国を治める者であれば必読書である。
原本は神殿が管理しており、古くは石版を用い大変に嵩張る代物であったが羊皮紙が誕生してからは過去の記録もまとめて閉架書庫に保管されている。
法典という名の通り、この書物は過去の人々の争いの事例と、それに対し下された裁きを知ることができる。今でも判例が追加されれば頁が増えていく現役の法典であり、神殿の善悪の方針を示し発布する意味もあるため、各国に対し数年間隔で写本を流通している。
そして、ラヴェル法典の序文にはこの世の成り立ちから咎の出現までの経緯も物語として記載されている。この序文のみを抜粋した廉価版ラヴェル法典の名が『マハルドヮグ時祷書』であった。
時祷書であれば街や集落の教会に必ず蔵書されており、信仰の篤い者ならば個人で手元に持っていることも珍しくない。識字の学がある者にとって所有していることが教養人の証明ともなった。
ガントールは神殿に蔵書されているラヴェル法典の原本に目を通している。島の生まれであるオロルはマハルドヮグ時祷書を読み修めている……悔しいが、教養の格差を前にオロルは無礼を詫びるしかない。
「……でも、土地を奪った後も壊されず維持されているってことは、トガはそこを住処に利用したんだろう」ガントールは言う。
当然と言えば当然のことだ。遠い過去から現存する幾つかの建造物は遥か昔、初代継承者が現れるよりも昔に築かれた文明の痕跡である。先代が領地を拡大し、奪還するまで形を保つには維持する人が不可欠だ。ガントールが言いたいのはそう言うことだった。
オロルには初めからセルレイ伯爵の邸としか見えていなかった。
奪い合いの歴史が形を保って語りかけていたなんて、島生まれにはない卓見である。
「ならば、古井戸もそうか……」
「そうだろうね。今では使い物にならないけど先代が奪った後に井戸を掘って、百年そこらで水が涸れましたってわけないもんな」
「……いや、待て、……だとしたらおかしい」オロルは不吉な手掛かりを掴みかけて身を強張らせた。「伯爵の邸は何処から水を引いている」
「そりゃあ邸に井戸があってそこから汲んでるのさ。平原の地盤の下には地下水脈があるから……」
ガントールは言葉尻に自信を失っている。自家撞着に気付いたのだ。
邸の井戸は生きているのに、同じ平原の街で見かける井戸はみんな涸れている。これは確かにおかしいぞ……。
「……もう離してよいぞ」オロルは言いながら腰にまわされたガントールの腕を解く。
「あっ、おい離――」
ガントールは抵抗する間もなく空中で両手を伸ばし、目と口をあんぐりと開いたまま固まってしまう。
オロルは再び一人になり、思考を整理する。
手掛かりは得た。
流石神殿で学んだだけはある。と、心のなかでガントールを褒めるが当然その言葉が届くことはない。
思い返せばスペルアベルの邸は異様な建築物だった。
街の外縁は木の柵だけ、そこに住む人達はラーンマクと似た天幕造りの簡易的な住居で土地に縛られない生活様式だった。平原には多少なりとも建物の残骸が残っているが、古くから形を保っているのは涸れた井戸と邸のみ。
何故頑丈な造りになっている……? 簡単だ。井戸は日に何人もの人間が水を汲みに訪れる。普段使いの酷使に耐える必要がある。
では、あの獄と見紛う黒い煉瓦積みの邸が伯爵のものになる前は、何のために存在したのだろうか。平原に現存する唯一の建造物だが、昔の姿はもっと違っていただろう。街の外に点在していた瓦礫が全て現存していたら……もっと大きな街だったはずだ。
スペルアベル平原の地盤の下には地下水によって侵蝕した空洞が存在する。だがそれもあくまで今の地形でしかない。二百年前、もっと遡れば水流が土を削り侵蝕する前は地下空洞はもっと浅かったはずだ。
水路が確保できていたのならば、街は発展していたはずだ。
きっと遥か昔は草木も生い茂る大地だったのだ。
……そこにトガ共が現れ、平原を我がものとし、土地の管理は行き届かなくなった。その間、地下水脈の水位は下がり井戸は涸れた。
トガも禍人も少なくとも生物だ。呼吸をし、獲物を喰らう。生きる上で水も必要のはず……だが井戸を掘り下げることはしなかった。山脈から水源を求めてしまえば、上流に位置する神殿に生殺与奪を握られかねない。だから涸れたままの井戸が遺された……そういうことか、見えてきたぞ。
「――すわけな……あれ?」
時は動き出し、ガントールは伸ばした腕に力を込めて抱きつくが、そこにオロルはいなかった。
自身が空中から落下をしていることを感覚し、慌てて着地をするとたたらを踏む。
不満顔でオロルを探すと、ふてぶてしい手柄顔がこちらを見ていた。
オロルは答えに辿り着いたようだ。




