73話 姉様ではありませんね
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一夜が明け、その日はやってきた。
朝方から砲撃が鳴り止まず、前線が騒がしい。有翼の蛇との戦いに続き、討伐隊の者たちも表情を引き締める。鏑矢の他にも得物を携え、各々が不吉な予感に警戒する。
皆、目覚めた瞬間から『今日は何かが違う』と感じていた。それは荒れ模様の南方の空、雨を孕んだ暗雲、そして部屋を満たす湿った空気の圧迫感だった。
討伐隊は久しぶりに全隊一斉に邸を発ち、各自平原に散開して空を睨む。少し遅れてウツロも後を追った。邸に残るより、外でできることがあると判断したのだろう。アーミラはその背を見届け、杖を構えた。
予兆はあったのだ。日増しに数を増やしていくトガの侵入頻度、スークレイを下がらせたきり音沙汰のない継承者二柱。そして内地へ向かう有翼の蛇。
今日の前線は明らかに荒れていた。嵐が迫る気配を誰もが肌に感じていた。
緊張状態のスペルアベル辺境伯領主邸の前庭にて、アーミラとスークレイは鏑矢の音を待ち続ける。予感とは裏腹に、討伐隊からの会敵の報せはなかった。
「鳴りませんわね……」
固唾を飲むスークレイ女伯の横、邸の門に寄りかかる人影があった。
「え……?」
先に気付いたのはアーミラだった。
「ガントールさん……」
声を向けた方向にスークレイも首を向けるが、帰還した姉に対して妹の表情は険しいままだった。脱力した肩に、右手には神器の剣。疲弊しているのか、ガントールの背筋はどこかだらしなく見える。
生温い風に雨粒が混じり始めた。
「姉様――では、ありませんね」
突然襲いかかる剣戟をアーミラが弾く。
ガントールが剣を振り上げたとき、咄嗟に動いた判断は間違っていなかった。
「偽者……!?」
神器同士が鍔迫り合い、帯びた魔力が火花となって舞い散る。
これだけ至近距離でも、姿は間違いなくガントールそのもの。だが、隣に立つ者ならばわかる、決定的な何かが別人だった。
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一月前。
スペルアベル平原の邸を発ち四代目長女国家ラーンマクに辿り着いた二人は、前線を一望する。
ガントールにとっては故郷であり、広がる景色に今更驚きはしない。
だがオロルにとっては別世界だった。
内地の、それも西海の端に位置する島嶼部で生きてきたオロルにとって戦場の有様は想像を絶していた。
研鑽に励み、血の滲む努力をしたとて――所詮は己との戦い。故郷の島がいかに小さく、世界の広く残酷なことか。己が井の中の蛙であると思い知らされるばかりである。
アーミラには知ったような大口を叩いておきながら、その実オロルは敵意を剥き出しに殺し合う経験なんてものは数えるほどしかなかった。内地の娘なのだから当然と言えば当然だが、肝の座ったオロルの立ち居振る舞いと実態は、余人が思うよりもかけ離れていた。
しかし、三女継承者に選ばれる賢人はこれしきで怖気付く玉ではない。
いついかなる時もオロルはふてぶてしく金色の瞳で世を睨めつける。
あらゆる荒唐無稽も、降りかかる理不尽も、予測できない狼藉も、彼女を害することはない。
現に忸怩たる思いに苛むオロルを誰も観測していない。その理由は手中にある。絶対の優位が彼女の掌に握られている。……オロルには常に『時間』があった。
神より託され賜った神器、柱時計。それはただ時を計るだけのものではない。
長女の天秤が善悪を量り罪を切り払うように。
次女の天球儀が距離を測り光矢を突き立てるように。
三女の柱時計も刻限を計り過ちを犯すことはない。
血で血を洗う戦場で流れゆく時に待ったをかけ、堰き止められ瀞となった刹那をさらに極限まで引き延ばし、オロルは不連続の域にて思考する。景色は砂塵すらも空中に留まり、万物は動きを止めている。隣に立つガントールさえも認識できない一瞬の中にオロルの本領は存在する。
進むことを止めた世界でオロルは腕を組み、頤に利き手を添えて付近をよく観察する。
あくまで付近だけである。静止空間をどこまでも歩き回れる訳ではない。柱時計を所有しているとはいえ超常の力には幾つかの制限もあった。
まず、時を止めている間にオロルが動けるのは柱時計の足元に限られている。柱時計は不可視のままオロルの頭上に浮かび、八本の脚を放射状に展開している。この脚先を円で結んだ領域が、静止空間でオロルが行動できる範囲となる。
次は接触の制限である。
例えばオロルが肌に触れている衣服や塵、砂埃等は触れている限り時間停止の影響を受けない。この制限を逆手に取れば、触れた人と静止空間を共有できる。
この接触制限は厳しいもので、間接的な接触も制限されている。地面に足を付けていれば、土は時間停止の影響を受けない。そして土の上に立つ者も間接的にオロルと接触している。地面を介して地上のものが静止空間を認知できてしまう……こうなれば時止めの意味はない。
そのためオロルは柱時計と不可視の綱で繋がり、時を操る際には振り子のように宙に浮いている必要がある。
このように、時を操作する力は強力だが扱いは難儀を極めた。
地頭の良い賢人種に相応しい神器である。
オロルは柱時計の力が及ぶぎりぎりの地点に立ち、改めてラーンマクを見渡す。
彼女が抱いた感想としては、「これで国なのか」だった。
地形は度重なる戦闘によって削られ、踏み固められ、草木も生えない荒涼の平野となっている。地質は粒の粗い砂質で石英などに混じって魔鉱石類の砕けた結晶も見て取れた。魔力を使い果たして捨てられた鉱石や本来この地にあった岩石の類いが衝撃によって砕け、前線の土壌に堆積している。
見渡す限り建造物はない。建てたところで的になるだけだとオロルは理解する。ならば前線辺境伯は何処を根城にするのか……それらしいものを探してみれば、遠くに魔術結界を展開する円錐形の天幕が点在しているのが見えた。戦場の簡易拠点かと思うが、あれで家なのだろう。
オロルは渋面で鼻を鳴らす。――これからはわしらもあれで過ごすのか、アーミラの杖があればよかったな……。
気を取り直し、オロルは目的のものを見つけた。
この戦いで脅威となるもの。咎が人に化けた姿――禍人種である。内地であればまず出会うことのない存在だが、流石は神殿の結界外、ここでは探すのに苦労しない。トガに混じってそこかしこに禍人は見つけられた。
これまでの道中にも幾度かの奇襲を受けていたが、ムーンケイの戦闘では大型のトガ。ナルトリポカ集落では戦闘不参加。スペルアベル平原奇襲もオロルは不在である。話に聞く禍人とやらを、オロルはここに来て初めて目にすることになった。
「……ふむ」
――案外恐ろしいと言うほどでもないな。頭角の位置が獣人種と異なり、肌の色が青白いと言う以外は人によく似せておる。強いて言えば人をよく模倣しているという事実が気色悪い。丁寧に衣まで纏いおって……。
さて。と、オロルは静止空間を移動してガントールの側に引き返す。
この場にはもう慣れた。次にやるべきことは今後の策を立てること。
オロルは宙ぶらりんに柱時計に吊るされたまま思考に集中する。
前線ラーンマクが陥落する可能性について、改めて推理を始めた。
思い出すのは神殿で晩餐を摂った後の話し合いの言葉だった……。
『四代目国家の姉妹国が連なる国境がそのまま前線とみていただいて構いません。そして南側全域が敵の領地です。一進一退となるほどの乱戦はしばらく行われてはいませんが、刻印現出を機にこれから敵側が先手を狙いに来るでしょう』
ザルマカシムから伝えられていた戦況予報は概ね当たっている。
状況はどうか。膠着状態は崩れ始めているとみていい……これも想定内だ。
神殿から伝えられている戦略に大きな変更はない。
ラーンマクは前線の中で一番の激戦地となる。敵を惹きつけたこの地に継承者が投入され、一気呵成に敵を召し取る。今の所は順調なのだろう。戦士共は溜まったものではないが、ラーンマクの危機も神殿の描いた筋書き通りであった。




