70話 最後に残ったのは
「来なさい。ヨナハを捜しますよ」
そう命令するハラヴァンの目は、有無を言わさぬ鋭い視線だった。
小さな吐息を一つ。ニァルミドゥは肩を縮こまらせて汚水を踏む。足の指の隙間に柔らかい糞が入り込み、顔を青くしている。
「最悪……」ニァルミドゥは怒りで声を荒げる。「ねぇヨナハ? あんたが逃げるから糞の上歩かなきゃなんだけど!」
怯えて逃げ惑う水音はばしゃばしゃと遠ざかり、部屋の隅に追い詰められた。ハラヴァンの照らす灯りに、姿を曝される。
本当にこれが俺たちの同胞なのか……――ダラクにはもうわからなかった。
堆積した糞の泥濘の上を駆けて逃げ惑っていたのは、痩せ細った裸の子供だった。ユラの妹であれば性別は女、娘である。日を浴びていない真っ白く薄い皮膚には骨が浮き出て、禿げ上がった顔は瞼が落ち窪み目が開いていない。長く闇に囚われていたせいで、この灯りに順応できず眩しいのだろう。
長く伸びた爪は糞が詰まり、痒くてたまらない皮膚を汚しながら掻いている。一見して何かの病に爛れているのは明白だった。
薬の調合を得意とするハラヴァンがこれを治さないのは、絶望を与えるための手段だからか。
「だ、れ……」ヨナハの声。まだ会話できるだけの正気を保っている。
「私ですよぉ」
「あ、あ、あぁ……やだ、やぁだぁ……!」
声を聞いただけでハラヴァンだと理解し、体を丸めて糞に潜る。一体どれだけの恐怖を敷いてきたのか、背骨の浮いたごつごつとした小さな背中を見て、己の残忍さを誇りとさえ思っているダラクでさえ、直視に耐え難いと目を逸らした。
上階の姉は、あれでまだ生温い扱いだと誰が予測できただろう。
「ころさないで。ころさないで」
「殺しませんよ。生き延びるために頑張っていますもんねぇ」
必死な命乞いに対して全く熱量の伴わないハラヴァンの返答。
「こうして上から落とされる糞を食べたくもないのに口にして、生きてますものねぇ」
遠回しな口ぶりにダラクは嫌な予感がした。ヨナハは眩しくて開かない目に涙を浮かべ、屈辱に耐え頷きを返す。
――この娘はいつか姉と再開するため、この困難を乗り越えようとしているのだと悟った。
「姉はまだ無事ですよ。あなたが私の望みを叶えてくれるなら、ユラには手を出しません」
「おねがい……おねがい……」
「私としてもあなたに死んでもらっては困るのです。すっかり痩せてしまわれて……ねぇ、お腹が空いているのでは?」
ヨナハは彼の問いにどう答えればいいかを理解して、嗚咽を漏らしながら糞を掬い、口に運んだ。
ダラクは無意識にハラヴァンを睨む。
「そうです。ちゃんとお食べなさい」
こくこくと頷き糞を頬張るヨナハを眺めて降ろして、ハラヴァンは告げる。
「……ですが、あなたが食い繋いでいる糞は、果たして誰のものなのでしょう?」
え? とニァルミドゥはハラヴァンを見る。その疑問はダラクにはわかっていた。上階から降る糞……ヨナハの上には誰がいるのか、先ほど見てきたばかりだ。
ヨナハは考えたくもないと首を振って一度大きく嘔吐くが、なんとか持ちこたえ震えながら飲み込んだ。
「これ……ユラの糞ですよ。姉はどうやら、食うに困らない生活をしているみたいですねぇ。羨ましい限りです」
ヨナハは思考が真っ白になったようで、咀嚼を止める。
「――おえっ……」
口元を抑えるものの、胃液混じりの吐瀉物は指の隙間から噴き出して止まらない。ヨナハは口から鼻から焦茶色の屎尿を吐く噴水となった。
ダラクとニァルミドゥは飛沫がかかることを厭うて後退する。
「あなたのお姉さんは、あなたを飢えさせないために糞を送っているのでしょう。美しい姉妹の愛ですねぇ。頑張りましょう、さぁ」
ハラヴァンはもっとたらふく食べなさいと両手を広げて勧めるが、ヨナハは嘔吐が止まらない。心なしか目から溢れる涙まで茶色く濁って見えた。おそらく膿だろう。
ヨナハの表情は苦悶とはまた違うもので筆舌に尽くし難く、口から吐き出る糞の滝を止める気のない白痴のような無感情に見えた。怒りと諦めが綯交ぜとなった濃密な絶望。どん底に落とされたが故に揺らぎのない精神状態……ヨナハの貌は生きながらに死んでいる。
ひたすらに不気味だった。
胃をひっくり返して口から出してしまうのではないかと思うほどに糞を吐き、体を痙攣させるヨナハは、事切れたように天井を仰ぐ。未だ間歇泉のように食道を痙攣させながら上階を見つめる。
今まで上階に姉がいることも、その姉が排泄した糞を喰って生きていたことも知らなかったのだろう娘は全てを理解し、思考を手放した。
「ころして……」
ぽつりと、ヨナハの呟きが暗闇に響く。
ダラクは心底ぞっとした。
先ほどまで『殺さないで』と懇願していた娘が、目の前で生きることを諦めた。
人が絶望の奈落に落ちたのを目撃したのだ。
これが、空の器。
純粋な絶望の果てに感情を喪失した龍体術式の素体。
ハラヴァンは一度こちらを振り返る。口元は手柄顔に笑みを湛えているくせに、目元には一雫の澄んだ涙が頬を伝っていた。もう誰の理解も追いつけない所に彼は居るのだとダラクは感じた。
「殺しませんよ。死なれたら困りますからねぇ」
生きるには辛すぎる環境。
しかし死ぬ方途は見出せず。
娘は殺されることも叶わず、呻き声を漏らし頭を下げ、盆の窪を曝す。
斑らに禿げた伸び放題の髪は、追い詰められて真っ白に染まっていた。
「……おなか、すいたよぅ……」
ヨナハはそう言って泣き出した。今まで糞だけを口にして生き延びたのだろう。他の物が食べたい。糞以外の物を口に運びたいのだと訴え泣きじゃくる声に、ニァルミドゥさえも同情の目を向ける。この世が例え戦時下であろうとも、その願いが我儘だとは到底思えなかった。
「おぉ、おぉ――最後に残ったのは食欲ですか。六欲の欠落者よ。
汝は聖杯に選ばれました――」
謂れのない罪科を荷のう龍の子よ。
瞋恚に燃える霊と、
嘆きに悴む肉体と、
その二つを持って聖杯をなす者よ。
器に満ちるは星穿つ災禍なり。
ハラヴァンは屎尿の堆積した床に跪き、ヨナハの手を取って詠唱を行った。
あまりにも自然な態度でやってみせるものだから、ダラクは糞に膝を汚す彼の姿に驚くことすらできなかった。呆気に取られて、いつから詠唱を始めたのかすらわかっていない。はっとしたときにはハラヴァンはもう詠唱を終え、手に握った筒の先に取り付けられた針がヨナハの腕に差し込まれていた。押し子に込めた親指の力だけが強い。
「お、お、おなか……すいたぁ……あ、ああ……が、がぁ……」
がくがくと痙攣するヨナハを目前にして、いよいよダラクとニァルミドゥは立ち尽くすことしかできない。
そんな二人を前に、ハラヴァンは睨みつける。
「ダラク」
「――っ、はっ……!」
なんとか応える。
ダラクの心中は穏やかではない。非道を目の前にして、次は俺が殺されるのだとほとんど確信していた。この男が手心や慈悲なんてものを持ち合わせていないことを充分理解した。
「ニァルミドゥを操りなさい」
「え?」というニァルミドゥの声。それはダラクの心の声でもあった。
釈然としない思いを呑み込み、ダラクは応える刹那も惜しいと、ニァルミドゥの首を掴んで熱を奪う。
苦悶に歪み、かち合う視線。ニァルミドゥは事態を把握し始めている。
これは殺し合いだ。今この場でどちらかが死ぬ。
ばきん。と砕ける音がして、糞の山に彼女の尾が転がる。
ニァルミドゥは己の武器である尾で、ダラクの首を弾こうと振るったのだ。当たりさえすれば男の頭を叩き切れるはずだった。だが、首を掴まれたと同時にダラクは、もう片方の手で尻に掌を添えていた。凍った尾を無理に振り回したため根本から折れてしまった。
「なんっ……くそが――」
ニァルミドゥはあまりにも突然降りかかった身の危険に対応出来ず、全身を氷漬けにされてしまった。最後の罵詈はダラクに対してではないだろう。首はハラヴァンに向けられていた。その気持ちはダラクも同感だった。
それでも命令を遂行する。全て己の保身のためだ。
尖った氷の先端に指先を傷つけ、氷漬けの彼女の額に五芒星を描く。あとは血の門を結び精神領域へ忍び込むだけ。
鎧の時とは違う。この娘の肉体を掌握するのは対して手間ではなかった。
左目を閉じたまま、右目だけでハラヴァンに向き直る。
「――ニァルミドゥの肉体を奪った。何をすればいい」
「食べさせましょう」ハラヴァンは言う。
正気を疑ったが、疑うまでもなくこいつは正気じゃない。
ダラクは諾々と従いながらも全身に気持ちの悪い脂汗が止まらない。
「凍っていては食べられませんよ」
「すぐに」ダラクは掌で熱を込め、今度はニァルミドゥを温めた。
横目でヨナハを見る。
もう痙攣は治っているが、外見の変化はそれどころではない。
発熱し、屎尿の異臭が色濃くなっている。
荒く息を吐いているヨナハは、心臓の脈打つ度に肉体を肥大化させ、白い皮膚から湯気が昇る。痛みを堪える為に噛み締めた歯が砕け抜け落ちると、血の滲む歯茎から牙が生え出した。恐るべき速度で龍体へ変化している。
この熱ならば、解凍の必要もないだろう。
ダラクは肥大するヨナハから逃げるようにニァルミドゥから手を離し、ハラヴァンの傍らへ退がった。
体内を巡る血流が耳鳴りのように響き、膝の震えを止められなかった。
そして拾った命で思うのだ。あの場で死ぬのは、どう考えても俺だった……。




