69話 感情を喪失した者が
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「……上手くいきませんでしたか」
ハラヴァンは己の作り出した成果物を見上げて呟く。
陽の光も届かぬ常闇に彼らはいた。
場所は禍人領――まだ神殿側も位置を掴めていない彼らの本拠地内部は、一見して石窟寺院の様相だった。
松明の灯りを頼りに渦を巻く階段を踏み進み、方位の感覚が麻痺するほど深く降りた先に彼等の根城は待ち受ける。
地下の気温は季節に関係なく安定するため、この場所は夏の外気よりもずっと涼しく肌寒い。足元は結露の雫と染み出した地下水によって常に雨上がりのように濡れている。黴臭くはないが、独特の鼻につく薬品の臭気と、その奥に膿んだ腐臭が感じられた。
松明の灯りは湿った床や壁に反射し、彼等のいる階層は手に握っている炎の光量よりずっと遠くまでぼんやりと明るい。辺りは削り出しの石壁で円を描くように囲われて、空間は階層を支える太い柱が規則正しく並んでいる。立ち塞がる柱は樹木のようで、まるで星のない夜の森を彷徨っているような景色だった。
彼らが降りてきた階段はこの地下構造の中央をくり抜くように螺旋を描いており、上下に繋がる階段の行手は遠く、底が見えない。
外へ繋がる窓も横に伸びる通路もない。ほとんど一本道で地上と地下を結んでいる。構造自体はとても簡素なもので、朽ちたまま手入れもされていない壁面には、建造当時に施したであろう飾りも辛うじてその面影を残していた。
ここにはハラヴァンとニァルミドゥ、そして合流を果たしたダラクがいた。
ダラクは内心、戦々恐々としていた。
彼は敵の内地にある広大な甘藷黍の畑を収穫前に焼き払い、集落の者達も口封じをするはずだった。男も女も関係なく、子供も漏らさず殺めるはずだった。だが、ダラクはしくじった。
けじめとしてハラヴァンから命じられたのは、トガを配した平原での決死の奇襲。その指揮である。狙う首は継承者……勝ち筋の乏しい作戦だった。
平たくいえば、「死を持って遂行し、手柄を立てろ」と言外に宣告されたのだ。
しかしダラクはここにいる。長女継承も鎧の魔導具も仕留め損ねた挙句、逃げ帰ったのだ。
二度の失錯……身の振り方を間違えれば今ここで馘を落とされる恐れがあった。
冷えた地下の空気に奥歯ががちがちとなるのを、ぐっと噛み締めて抑えている。怯えや恐れを見せてはいけない……下手に目立てば殺される……。
そんなダラクの胸中を知らないハラヴァンは彼の同道を許し、成果物を見上げている。
「これ、なに……?」
ニァルミドゥは松明に照らされたそれを見る。表情に変化はない。
成果物を作り出した男も、その隣で眠たげに問う娘も狂っている。
ダラクは胸の内で毒突いた――そんな眠たいものじゃねぇだろ……。
「これはまだ空の器です」
無感動にハラヴァンは教えてくれるが、理解できない。
絶句しているダラクと小首を傾げるニァルミドゥを置いて、ハラヴァンは続ける。
「名前はユラ。……聖杯を作ろうとしたんですが、なかなか上手くいかなくて困っているんですよ。いや困りましたねぇ……」
「前も言ってたよね。聖杯って」
「あなたにも施した龍体術式です。ほら」と、ハラヴァンは注射を打つ身振りをした。
ダラクはその意味を掴みかねたが、会話に入ることはできない。そっと目立たぬよう保身に努めた。……どうせ奴のことだ。またよからぬ薬を調合し、娘共の血に混ぜたのだろう。
「私と随分見た目が違うみたいだけど」
ニァルミドゥの言う通りだと、ダラクは心の中で頷く。ユラと呼ばれた娘の姿は、言問顔の彼女とは全く異なっていた。というより、ハラヴァンが『娘』と形容するまで生き物かどうかすら判断がつかないものだった。
ダラクの目から見たそれは、強いて例えるのなら粘菌だった。鬱蒼とした木々の陰に根を張る茸や、湿気にまみれた腐敗の兆しを孕むもの。
糸を引き、壁にへばりついている繭のようなものがハラヴァンの言う娘であり、曰く『聖杯の失敗作』だった。
「空の器を作るところまでは順調でしたが、貴女ほど経過が安定するものはありませんねぇ」
空の器……その言葉はハラヴァンの口から過去にも聞いた言葉だとダラクは思い出す。たしか、絶望に浸し続けた者が器になると――
「感情を喪失した者が、龍体術式の素体となるんですよ」
ダラクの思考を先回りしたかのようなハラヴァンの言葉に肝を冷やす。
ハラヴァンは続ける。
「私が作った器と、あなた……何が違うんでしょうねぇ」
瞳を覗き込むハラヴァンを前にニァルミドゥは逃げない。鼻息が触れ合うほどの距離だった。
肝が据わっている。というよりある種の諦観を纏っているように思えた。ニァルミドゥと呼ばれる少女もまた空の器……絶望を経験して感情が腐っているということか。ダラクは冷ややかに二人を眺める。
「龍体術式って、なんなの?」二ァルミドゥは問いを重ねた。
「過去に龍人達が構築した呪術体系ですよ。それを私なりに磨き上げ、より強固なものとしたいんです。……ほら、継承者達に対抗しなければなりませんから」
その言葉にニァルミドゥは未だ理解が及ばない。要領を得ない説明に首を傾げるばかりだが、ダラクは目的を悟り肌が粟立つ。
そうか、龍体術式……! 声を張り上げたい気分を抑え、拳を握った。……災禍の龍を産むつもりか……!
昂りを隠すダラクの目力の機微をハラヴァンは見たか、口角をわずかに吊り上げて成果物――ユラに向き直る。
「絶望が足りないみたいですねぇ。しかし猶予はありません。困ったものです。……こういうのはどうでしょう? ……先にヨナハを仕上げるというのは」
その提案に、壁にへばりついた繭が蠕動する。
ダラクの目には、なぜだかそれが命乞いのように見えた。
抵抗する力を失ったものが縋りつき、懇願するときの切実な挙措。それを繭から感じ取った。この繭は生きている。
「ユラ、どうか希望は持たないで頂きたい。かけがえのない妹を失い、あなたの絶望は完成するのです」
繭は激しく蠢く。
敵であれば構わず如何様にも残忍に振る舞えるが、この繭は同胞。ダラクはハラヴァンの行動に不信感を覚える……だが、今は何も言えない。己の命が優先された。
自由の身ならハラヴァンの足に縋りついていただろう繭の内側に囚われている娘を置いて、一行は下の階へ降りる。
「……くさい……」ニァルミドゥが呟く。
降りる前からわかっていたことだが、この階に蟠る臭気は強烈だった。何者かが粗相をしたとか、そんな生易しいものではない。屎尿の臭いがたちのぼり、鼻を蹂躙した。
聞いていた話の流れからして、ここにユラの妹がいるはずだ。
ハラヴァンは滞留する瓦斯を警戒して松明を繭の傍らに置いてきていた。代わりに魔術で光源を召喚する。
この階層の床は水たまりが濁っていた。泥――ではないだろう。糞が水にふやけて溶け出しているのだ。
奥の闇で何かがいるのがわかった。灯りに反応して逃げ出す者の気配……泥に脚を引き摺るような水音がしたのだ。
「ここを進むの、嫌なんだけど」
ニァルミドゥは言う。見れば彼女は簡素な貫頭衣とも呼べない衣一枚で靴を履いていない。尻から伸びた発達した尾も、汚水に触れないように地面から浮かせて、空を掻いていた。




