聴こえるだろう、鐘の音が
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マハルドヮグ山頂の領域は一括に神殿と呼称されるが、実態はラヴェル一族とその他種属の優秀な人材からなる神人種が生活を送る特権階級の宗教都市である。つまり、山頂にただ孤立して神殿があるわけではなく、外郭に囲われた神殿領内には様々な役割を果たす建物があり生活の全てを賄うだけの機能を有していた。
至聖所と祭礼を執り行う神殿本体を中心に南東側には円形闘技場、北西の斜面には段々畑、その他居住区が各所に点在し、山の源泉を引いた湯浴み場さえも存在する。そして三女神を象徴する巨大な石像が背中合わせに三方を向き、忍び寄る蛮族を睥睨するかのようにマハルドヮグの裾野を油断なく眺め下ろしている。
カムロがその部下――名をザルマカシムという――に指示した召集の待ち合わせ場所は、神殿領内の一劃、近衛隊集堂だった。
時刻は午後の二刻をまわり、集堂には長女継承者ガントールと、板金鎧の魔導具が集められた。
「――ふむ、今回の魔術陣はこれまでのものとは違っているな。いや、同じというべきか……」
そう語るのはガントールである。
三女神長女継承者。リナルディ・ガントール。
産まれは前線にある四代目長女国家ラーンマクの一辺境伯の娘である。
背の丈は二振ほどはあろう、天へと突き立てた羚羊のような頭角も背丈をかせぎ、横に流れて尖った耳や引き締まった見事な体躯はいかにも獣人種特有の血筋を顕している。二つ結いに束ねた長髪は天秤のように左右に垂れて腰元まで届き、体の動きに合わせてさらさらと舞っていた。
彼女は当代三女神のうち、生まれた瞬間から刻印を宿している唯一の正統継承者である。
物心がつく前から神殿に招かれていて、その待遇は女神と同格とされるため神族に肩を並べる最上位階級である。
身に纏うのは白衣ではない。長女継承者代々の正装である真紅を貴色として纏い、前腕肘あたりから籠手ですっぽり覆われている。下は薄手の襦袢に小具足を履いた脚が覗く。本来は胴を守る鎧も装備するのだが今は略装である。とはいえ肌着の下に隠された肉体は非の打ち所がないほどに鍛え上げられており、鎧がなくとも刃が通るとは思えないほどである。彼女は当代三女神の中で一足先に継承者となり、他の誰よりも戦人であった。
カムロはガントールを見上げて言葉を継いだ。
「ガントール様の時と同様の魔術陣であると……そう思いますか」
ガントールは頷く。「霧散するならもうとっくに。なにより聴こえるだろう、鐘の音が」
なるほど。と、ザルマカシムは眉を開く。今も集堂まで届く鐘の音は、過去の魔術陣現出の時には無かったかもしれない。カムロもまた同じように思ったのだろう。近衛隊は毎度忙殺されているので、このように鐘の音の有無で違いを感じ取れるとは考えもしなかった。
「では、ここからは継承者が出現したと仮定して行動致します」と、カムロは続ける。「此度ガントール様とウツロをお呼びしましたのは折り入ってお願いしたいことがあるためです。というのも、継承者に合流して頂きたい」
ガントールは頼もしくカムロの視線を受け止め、無言の内に首肯すると、ちらと視線を横に滑らせた。ウツロと呼ばれる板金鎧は何も言わない。というより、ウツロは魔導具でしかないのだ。鎧の中に人がいるわけではなく、それそのものが兵として自律し、行動する。中身が無い……故に虚と呼ばれている。とはいえただの魔導具ならばわざわざ名指しで集堂に集めるわけはない。この鎧が唯一特別である所以は、それが先代継承者によって産み出された魔導具であり、言わば忘れ形見。先代から当代へ継承されるべき物の一つであるからだ。
「魔術陣が空にある以上、居所を常に晒していることになります。それを目標に『咎』が群がることも想定できます。継承者自身、戦闘の心得があると期待したいですが」と、カムロ。
「敵襲ですか」ザルマカシムは難しい顔をする。
「産まれたばかりという可能性もあるし、私と同じ歳だとしても内地育ちではひ弱な娘かもしれないな。万が一は避けたい……」ガントールは腕を組むと事情を把握して一人頷く。「うん。すぐにでも向かおう。私は三代目国家ムーンケイ、鎧は二代目国家ナルトリポカとそれぞれ単独でいいかな」
「はい。それで構いません。継承者を保護したのち、速やかに神殿に帰還して頂きます。前線出征を控えている以上、本人の都合は……」
カムロは言い淀んで表情を翳らせた。
「そうか、なかなかに酷だな」ガントールは言葉の先を悟り、組んでいた片腕を持ち上げて親指を頤に沿わせた。
酷。というのは、本来ガントールのみの前線出征の手筈だったところに、無理やり残り二人の継承者も合流させるということになる。内地に産まれた次女継承者と三女継承者は故郷を離れ、そして神殿を経由したあと早くても七日後には戦争の最前線へ向かう旅程となるのだ。平穏な人生から急転直下、死と隣り合わせの日々へ落ちる。それを残酷だと言わずしてなんと言うのか。
産まれてすぐに刻印をその身に宿したガントールであれば、既に覚悟はできているだろう。これまでの十七年、神殿で戦術を学び、時には前線での実戦も経験した。これから出会う二人とは訳が違う。覚悟も矜持も使命も受け入れているのだ。
「赤子だった場合は……」これはザルマカシムの言葉。
「流石にその時はその時で沙汰するしかない」
「どうあれ神殿まで保護するのは決定です。成人しているのであれば前線……それ以外に道はありません。彼女達には運命を受け入れていただく他ないでしょう……」
合流を果たす前から、その者の顔を見る前から、早くも近衛隊集堂の面々は憐憫に面持ちを暗くする。その中で、鎧だけは事情を理解していないのか、呆けたように微動だにせずカムロ達を眺めていた。
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夕刻にはガントールとウツロはそれぞれ山を降りた。ガントールは三代目国家ムーンケイへ向かうため、神殿の南西側から門を出て尾根縦走の路を駆け抜けて夜には国境を跨げる算段である。一方、ウツロの方は南東側の門からナルトリポカへ向かった。こちらは比較的鋪装された路を進むこととなり、轍の跡が刻まれた石畳が続いていた。直線距離も短く、ガントールより早く入国にこぎつけるだろう。
二代目国家ナルトリポカは昼の一大事に仕事も放って人々が一献を呷っていた。まるで祝祭の様相で町は賑わい、夕暮れに灯りを飾って気炎を吐く赤ら顔どもを照らし、露天では商売っ気たっぷりに惣菜を並べて店主が声を張り上げていた。客引きの喧騒に酒食の供を冷やかす男達は空を見上げては、先刻空に消えた魔術陣の名残りを、まるで取り逃した魚の大きさを語るように笑い声を上げていた。彼らにとっては継承者の出現は祝い事に他ならない。過去二度に及ぶ空振りのあとに降って湧いた霹靂の報せは、心を浮足立たせること欠かなかった。
目抜き通りの雑踏を上機嫌に行き交う者達を眺めるアダンは、ただ一人の素面であった。シーナとの約束のために酒を控えている……というわけではない。先刻前に工場に駆けてきたシーナの言葉を、いまだ飲み込めずにいた。
「本当に、選ばれちまったのかよ……」アダンは言う。それは独り言のような呟きで辺りの喧騒にかき消されてしまうが、それでも隣にいたシーナには届いた。
「うん……あたし、見たもの……」