68話 人は鏡
「なら、二年前に何があったんです?」
「そこが、まぁ……」
「部下殺しの話は本当ですか?」
アーミラの問いにニールセンは眉を上げ目を見開く。
「……なぜそれを」
「め、女神、ですので……」
「なるほど……継承者ですからね」
苦しい言い訳だがニールセンはあっさり納得した。継承者という立場は多少の誤魔化しが効くのだとアーミラは胸を撫でおろす。
「あ、改めて、調べたいと思い、まして……ニールセンさんからもお話しを、き、聞かせていただきたいな……と」
「ふむ……わかりました」
アーミラの方便に乗せられ、ニールセンは了承する。
「では、あくまで私が知る部分だけですが――」
そうして、ニールセンから見た邸の一件が語られる。
――私がこの平原で生まれ育ち、隊に加わるときには、すでにイクスは隊長を任されていました。
仮面で顔を隠すこともなかったですし、厳しいながらも冗談も言える。周りからの信頼も厚い、尊敬できる人でした。
当時は隊の規模も今より大所帯で、倍はあったと思います。
全員で約四十人の部隊が邸から馬で出陣して、日が暮れた頃に帰って来る。……飯や酒を仲間同士で囲って、街の大通りはその度賑やかなものでしたよ。その頃は討伐隊にも呼び名がありまして、街では『平原の風』なんて呼ばれていたんです。「この街には朝と夜決まって一陣の風が吹く。この風が吹く間、平原に悪は蔓延らないだろう」って、それが兵として誇りでもあった……。
……ですが、二年前のことです。
私や今の討伐隊の仲間は現場にはいませんので、何が起きていたのかはわかりません……。隊は平原の内地側と前線側、二手に分かれて行動するんですけど、イクス隊長は年齢層の高い手練の部隊で前線側を、私達若い兵は内地側を担当するように振り分けていました。その日もそうです。
仕事を終えて邸に戻ると、隊長は拘束されていました。場所は……丁度このあたりですね。
日の暮れた前庭に跪いて、腕を背中に縛られ、虜囚のように蹲っていました。
一体何が起きているのか。私は状況を理解するためによくよく観察すると、隊長の服は血にぐっしょり濡れていて、項垂れた顔には鼻がなく、真っ赤にとろけて額から顎まで皮が剥がれていました。瞼も唇も無くなっていました。奥歯まで剥き出しになった顎と、涙に濡れる眼球は、今にもずり落ちてしまいそうで……本当に、恐ろしかった。後にも先にもあんな怖いものを見ることはないと思ったのですが……。
伯爵や従者たちに何があったのかと尋ねると、「私達にもわからない」と返ってきました。
隊長を拘束したのは伯爵だったので、直接聞いてみたんです。「手練の兵を失った。彼は『顔を奪われたから取り返した』『俺が殺したんじゃない』と繰り返すばかりで、気がおかしくなっている」と伝えられました。
拘束された隊長の手には、血の染みた濡れ布巾が握られていて……いや、布巾じゃなかったんです。それが仲間の顔の皮だとわかったとき、ぞっとしました……。
……その後はよく覚えてないです。目が覚めたら自分の部屋で、きっと気分が悪くなって私は倒れたんだと思います。
部隊の人数はごっそり減りましたよ……あの日、隊長が部下を手にかけ顔を剥いでから、生き残った若い人だけで討伐隊を再構成してます。
上の世代が退役したわけじゃないことは、もうわかりますよね――
「――私が隊長の座を引き継いで最初の仕事は、仲間を埋葬することでした。『トガにやられた』というあの人の言葉を信じたいけど、仲間の死体を調べても斧槍の切傷ばかりで……トガと戦った形跡は見つからなかったんです」
積み上げた信頼が崩れ、懐疑に変わる一件。
話を聞いて、余計にわからなくなってしまう。
アーミラから見たイクスは、はじめから信用ならない仮面の男だった。今もまだその印象は変わらない。
だがしかし、ウツロの話を聞き、ニールセンの話を聞き、彼の為人が少しずつ輪郭を成してきた。イクスは確実に部下を殺している。それと同じくらい強く、部下を殺すような人ではないとも思えてしまう。
思考を巡らせるアーミラを現実に引き戻す鏑矢の音が空に響いた。
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「もういぃい! えきかええぇ!」
縮地を用い、不意に現れたイクスの叫び。
討伐隊の索敵班は驚き、目を丸くした。馬たちも突然のことに嘶き興奮する。兵たちは手綱を捌いて馬を御するが、四人のうち二人は落馬して強かに尻を打ち、主人を失った馬は厩舎へと逃げてしまう。
有翼のトガが群れを成して現れたと思えば、イクスまでも前線から駆けてきたではないか。一体何がどうなっているのか彼らにはわからない。しかし誰もがあの日の出来事を思い出しただろう。
班の一人がこう言い出した。
「まさか……お前がトガを呼んだのか……?」
はっとして、討伐隊の者は片手で顔を守る。
「顔を剥がれる……!」
イクスは、ぎり。と斧槍を握る手が力んだ。
「朝に邸を出るのを見たぞ……やはりトガを呼び寄せていたんだな……!」
兵達は矢筒から一本の鏑矢を取り出すと、各々逆手に握ったり、弦に掛けて構えだした。護身用に鉈を携えたものは、これ僥倖と柄を握り刃を向ける。
今にも襲いかからんとする兵の背中に温い酒が投げられる。
「ウツロ……!」
首のない鎧が間に割り込み、イクスを庇った。文字を書いている余裕はないと空を指差す。――争っている場合じゃない。
「……邸に戻るぞ……」兵の一人が言う。
兵達は一度イクスに向けて蔑んだ目を投げかけ舌打ちをすると、手綱を引いて退避を始める。馬を失った兵は軽装が幸いして二人乗りで帰還した。
残されたイクスとウツロは横に避難して、アーミラの射線から退避する。
雲一つ無い青空に、風を切る矢の音。
やがて鋭い光が迫り、夕立のような矢の雨がしとどに降り始めた。
当然その音はトガにも聴こえているだろう。明確な殺意を込めた魔力の矢に対して、蛇はそれぞれ身をくねらせて躱そうと奮闘しているのが見えた。しかし雨粒を避けることが不可能なように、大量の矢を躱しきるのも不可能である。
矢が翼手を貫き飛膜が裂ける。
蛇達は体制を崩して落下する。
追い打ちをかけるように矢は降り注ぎ、蛇目掛けて突き刺さる。
地面に叩きつけられる頃には、文字通り針の筵となっていた。
アーミラは無から光の矢を具現化させて放っている。
込められた魔力はそれだけ強力で、溶解した鉄よりも遥かに熱い。トガに突き刺さった傷口は焼け焦げ、血が煮えていた。
灼熱の矢は少しずつ熱を奪われて冷え固まり、それに伴い光を失って黒錆の鉄の棒のようになる。こうして間近で見てみれば、光の矢は直径も太く、竿のように長い。矢というよりは槍と言った方がしっくりくる。
「見ろよこれ」
イクスは斧槍で示す。
「偶然……じゃあないな」
ウツロは何も答えることができなかった。
イクスが示したものを見下ろし、アーミラの内に秘めたものを垣間見たのだ。
七匹の蛇。それぞれがまったく同じように殺されていた。
まず翼を貫いて飛行能力を奪い、次に両目に矢が刺さる。苦しみに喘いだ口に何本も矢を飲み込ませ、膨らんだ腹を目掛けて今度は横から刺している。地面に落ちた後も執拗なまでに矢で縫い付けている。
こんな惨い殺し方、偶然とは思えない。
ただ矢を放ったのではなく、全てを操作し、どこに刺すかも意のままに操っている。
これが今の、アーミラの心。
戦う術を持つものが恨みに囚われれば、どこまでも残虐になれる。
ウツロは膝をつき、指筆を走らせイクスに問う。
――教えてくれ。恨みに囚われたアーミラを正道に戻すにはどうしたらいい。
「……俺にそれを聞くのか」
イクスは苦笑し、惨たらしい光景を眺める。
迎撃の様子を見ようと提案したのは正解だったが、同時にウツロの不安も的中していた。
次女継承者は修羅を宿している。
憎しみに身を捧げる覚悟と、露悪的な復讐心が使命の名の下に燃えている。
もしあの娘を正道に戻すとするなら――
「人は鏡だ」
イクスは言う。
「本当にアーミラを救いたいのなら、まずウツロ、お前が恨みを捨てる必要がある」
え? と、ウツロに声があればそう口に出ていただろう。膝をつき悲嘆する鎧がイクスを見上げる。
「忘れてないんだろ? 先代との日々も。
いいか、ウツロ。人は鏡だ。魔導具だろうと関係ない。お前は鏡なんだ」
……善いおこないをし、俺は平原の風になった。
……過ちに手を染めて、俺は顔も矜持も失った。
「誰かを正すには、まずお前が正しくなきゃだめだ。
今のお前は戦うことに信念なんて持っちゃいない。
お前は先代の戦場に囚われて、ただ敵を殺している。そうなんだろ」
ウツロから見たアーミラも、
アーミラから見たイクスも、
イクスから見たウツロも、恨みに囚われている同族だった。
「人は腐る。恨みは視界を狭くさせる。俺も随分間違えた……。だが、お前は黒鉄、古びちゃいるが錆びてはいない」
アーミラのために、もう腐るのはやめだ。




